雨音に消えた声
半人前
第1話
「この本と同じ著者が書いた本はどの棚にありますか?」
カーリーがたずねると、図書室の職員は、彼と、彼が手に持っている一冊の本を交互に見た。
サウスダウンのマッシュストリート、防水加工された黒色の建造物が建ち並ぶその通りの中でもひときわ大きな建物、マッシュコート。その五階建てのビルの四階に、この地区唯一の図書室があって、正式には゛サウスダウン図書館゛というのだけど、そのマッシュコートが、一階と二階には市民窓口があって、転居届けや出生、死亡の届けをここに提出する。三階には管轄区内のゴミ処理や福祉施設なんかを担当する部署があって、五階にはカフェに食堂が大部分を締め、残りのスペースがマッシュコートで働いている人たちのスタッフエリアになっている。四階も図書館以外に簡単なヘルスケア施設や、住民が不用になって廃棄した家具や食器の再利用市があった。図書を貯蔵する館ではなく、図書を貯蔵する部屋だから、みんなサウスダウン図書館をサウスダウン図書室と呼ぶ。
図書室の広い室内を通路になるように本棚が整列していて、その本棚の列のひとつひとつに番号が振り分けられている。
サウスダウン図書室の職員がコンピューターで調べた結果、カーリーが求める本は9ー5番の棚にあった。
図書室には図書のほかに新聞も置いてあって、主な新聞各社のものが一週間ぶん揃っていた。新聞は持ち出し不可で、新聞を読む人は、図書室内にある緑色のソファに座って読む。カーリーもそれに習って、ソファに腰掛け、当日の新聞を広げた。
一面の見出しはアッパーにおけるとある資産家の真空摩擦エネルギーの研究開発機関への大規模投資に関する記事、二面はアッパー市長によるアッパー都市環境再生計画によってアッパーの土地面積に対する緑地面積の変化と計画に使われた金銭コストについて前年との比例グラフを載せた記事や、アッパーズスクールの第二期入試試験の告知、三面になってようやく目当ての記事があった。
《サウスダウンで起きたアッパー殺害事件のその後
八月十七日、サウスダウンのクラブ『トリプルハート』の要人専用の個室でアッパー在住のアダム・ソルドリンク(50)が殺害されて三週間が経とうとしているが、サウスダウン警察署は未だ犯人の逮捕に至れず、目ぼしい重要容疑者すら挙げれていない状況である。アダム氏が殺害された現場からは被害者が所有していた三百万ディラが紛失しており、警察では犯人が既にサウスダウンから逃亡した可能性もあると見て、捜査範囲をダウン全域に広げている》
また別の新聞では《サウスダウン警察は事件当初からダウンの住民による強盗目的の殺人として捜査を続けているが、一向に進展が見られないことから、警察は捜査方針を見直す必要があるのではないか、事件自体はダウンで発生したが、被害者はアッパーに住居を持ち、そこで生活をしていた。当然アッパーのほうが交遊関係の深かった人間も多い。捜査範囲をダウンに限定せず、アッパーも調査対象に加えるべきではないだろうか。一日も早く犯人が確保され、全ての住人が安心して暮らせる日が来ることを、本記者は心から願っている。》と書いていた。
カーリーは目当ての記事に一通り目を通した後も興味が尽きないみたいな格好を取りながら、新聞の残りのページに書かれた文字の羅列を読むふりをして、ソファから立ち上がると、まるでジェーン・オースティンの小説でも読み終えたかのような、有意義な時間を過ごして一つの徳を積んだ人間のような表情で、毎朝刷られる全三十ページ程の朝刊紙をラックに戻した。
五冊の本を借り出す手続きを済ませたカーリーは、その本を肩掛けのバックに入れて図書室を後にした。
帰る場所はサウスダウン、エコーズ地区の狭いワンルームマンションの一室だ。なぜなら、カーリーがその建物の法律的所有者と契約して部屋をひとつ居住目的で借用しているからだ。
三週間、もはや不自然な、他人を演じているような感覚は徐々に薄れだしていた。その不自然な異常が日常になりつつあった。つまり自分はカーリー、カーリー・スミスその人なのだと。
異世界転生。過去の自分と現在の自分、どういう現象でこうなったのかは全くわからないし、ここがどういった場所で、自分は誰なのかということもさっぱり分からない。分からないというのは、ここがサウスダウンという街で、自分がカーリー・スミスという人間なのだという意味ではない。ここは地球なのか? ある一人の人間、神田優一という人間が二十二年間生きた、何万年もの間沢山の男女が愛し合って子を産み、そうして繁栄しながら、それでいて過去幾度となく戦いを繰り返し、沢山の人を殺しあった歴史があって、平和な未来を築こうとしながら、平然と敵対する大勢の人間を虐殺する、あの世界と同じなのだろうか?
なぜアインシュタインは時空間に関する研究はして、世界次元については研究してくれなかったんだろう。
カーリーの部屋に戻ると、しっかりと戸締まりをしてベッドに横になった。
不思議なものでこの体に転生しても過去の自分の記憶と意識はハッキリとしていて、カーリーとしての記憶は靄がかかったみたいに朦朧としていた。意識は皆無といってよい。今、カーリーの肉体にカーリーの精神は無い。この肉体は完全に神田優一のものになっていた。もしかしたら、あちらの世界では、カーリー・スミスの精神が神田優一の肉体に宿って、同じように困惑しているのだろうか、もしそうだとしたら、彼は上手くやっていけているだろうか?
そう思うと、まだ接したことのないカーリーの精神に対して、昔から知り合いだったが、離れた地方に転居してしまった友人を思うような懐かしいような感情が込み上げてくるのだ。
でも、こういうことを考えるのは、心のどこかでこの現象は一時的なもので、時間が経てば自然と元に戻るのではないかという、なんの根拠もない考えがずっと頭にあったからである。まるで異常気象が起こって、その影響で夏に寒波が吹き、雪が降って、でも年月が経てば、また普段通りの気候に戻るみたいに、この異常な現象も時間が経てば元通りになるのだろうと、そう考えているうちに三週間が経った。なにかが元に戻るような兆候は一切ない。
人間というのは強靭なもので、生活環境が変わると適応できずに病気になったり、ひどい場合は死んでしまうような生き物もだって存在するのに、彼は生きた。
今では自分の生活区域で利用できる施設や機関を調べては、活動的に足を運んでみて、この馴染みのない他人の人生に順応しようしていることに、ともすると叫びだしたいようなうす気味の悪さを感じながら、日々過ごしているのである。
図書室を利用しているのもその一つのだ。書物はこの世界の文化の一端を知るうえで重要だと思われたし、無料で各社の新聞が読めた。むしろ現在の事件や事故、社会問題や文化的な話題的などを毎日記事にしている新聞のほうが今生きてる世の中を知るうえでは重要だった。しかし、部屋にいると、この世界での孤独感にやりきれなくなって、そんなときに図書室で借りてきた小説、その文字の作り出した架空の物語は非常によい現実逃避になった。
人が生きるうえでの諸々の問題も、ある意味では困らなかった。毎日の食事だとか、光熱費、水道費、月々の家賃といった、人が社会的に生きていく上でどうしても切り離せない煩わしい問題である。それと同時に、別の意味では大問題だった。このカーリーという人物は自分の部屋に大金を所有していたのである。
三週間前、異世界転生が起こった日、まさしく神田優一の精神がカーリー・スミスの肉体に宿ったその瞬間、カーリー・スミスは自分の部屋で現金三百万ディラの入ったバッグを机の上に置いて、袖に赤い染みの付いたシャツを脱ぎ捨て、刃渡り二十センチはあるナイフの刃にべったりと付着した血液を洗面台で洗い落としていたのである。
雨音に消えた声 半人前 @han-nin-mae
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