終始
ルリア
第1話 終始
いちにちの終わりがやってくる。それと同時にいちにちのはじまりもやってくる。
おなじようにいちねんの終わりがやってきていちねんのはじまりがやってくる。
いちねんの終わりを惜しんでいちねんのはじまりを祝えるくせに、いちにちの終わりはちっとも惜しいと思わず、はやくあしたになれ、と思うのに、いちにちのはじまりがきてしまったらがっかりする。
「よいお年を」を何度となく言葉にしてだれかに言ってきた。
「よい夜を」という言葉すら、何度も言ってきた。
おなじように陽が沈み、おなじように陽が昇るのに、「いちにち」と「いちねん」はただ単位がちがう、ということだけですこしだけ特別になる。
「いちにち」をずっと重ねてきたから迎えられるあらたな「いちねん」なのに、どうして僕はひとつひとつ乗り越えてきた「いちにち」のことを「いちねん」とおなじように歓迎してあげられないのだろう。
ふと空を見上げた。そこには晴れ渡る日にも曇り空の日にも雨の日も雪の日も月の明るさにも動じず流れ星に見向きもせず天気も温度も風の強さもまったく関係がなくこのいちねんずっとそこをふわふわと泳いでいたとてもおおきくて優雅な辰の姿は見当たらなかった。
僕はこのいちねん、立派な茶色の角をたずさえ、みどり色をした鱗を存分にきらきらと瞬かせ、気持ちが赴くまま自由にただよっている彼──あるいは彼女、いや、残念ながら辰の性別についての知見を僕はまったく持ち合わせていないから正確にはわからないのだけれど、すくなくとも僕はこのいちねん、その辰のことを心のなかで「彼」と呼んでいたことは弁明しておく──を見るのが好きだった。だからこのいちねんは気がつけば空を見上げていた。
だれにも話せないことを空にゆらゆらと浮かんでいる彼に向かってぽつりと話してみては、きちんと聴いているがゆえなのか、はたまた興味がないけれどなんとなく雑音のする方角へたまたま見やっただけなのか、その真相は彼にしかわからないけれど、まったくおもしろくなさそうな一瞥を僕に向けた。
僕は彼のその一瞥を目撃するたびに、毎度おなじように、たったのいちども懲りずに、このいちねんで何度もあったはずのそのつまらなそうな視線を受けるたびに「あ、こっちをみた」とおもった。そしてその瞬間だけ、僕は「この世界にひとりぼっちじゃないんだ」とおもった。
ちゃんと彼には僕が見えていて、僕のだれにも話せない、どうしようもなくつまらなくて、たどたどしくて話慣れていない言葉選びや、おもうがままに声に出した支離滅裂な順序で、もしかしたら意味をなさずにだれにも伝わらないような話もあったかもしれないけれど、それでも彼は僕をかならず一瞥した。それは僕が彼に話しかけたときに、いちども漏らさずに、例外なく。
調子に乗らなかったといえば嘘になるだろうけれど、僕はすくなくとも話を聴いてくれる友達がいる、というようなことをとても一方的に感じていた。そしてそれを僕は勝手にたいせつにしていた。彼の視界からしたらとてもちっぽけで、ただ声が聴こえてくる雑音の方角をちらりと見やっただけだったとしても、そのことが僕がこのいちねんずっと積み重ねてきた「いちにち」のなかにまちがいなく存在していた。
その彼が消えた。なぜなら彼が存在できる「いちねん」が終わったから。僕は不本意ながら知っている。「期限」というものはかならずやってくる、ということを。
そういえば僕は、彼がずっと存在している空から視線を外してこの目に地面に映したときに、蛇を見た。
それはとてもとてもちいさくて細い蛇で、卵から孵ったばかりなんじゃないかというほどに頭でっかちで、懸命に地面を泳いでいた。自然界にするりと馴染めるようななにひとつ変哲もない茶色をしていて、懸命にその身体を動かしながらくねくねと地面を泳いでいるはずなのに、前に進んでいるのか進んでいないのか判断ができないほど遅々としていた──きっとだれにも地面の泳ぎ方を教えてもらっていない蛇だった。僕は地面の歩き方を知っているけれど、地面の泳ぎ方は知らないから、あの瞬間、僕と蛇はある意味ではこの世界に存在する生命としてとても平等だった。もしあの蛇が地面の歩き方を知っていたらもっと平等になれたかもしれないけれど、所詮僕とあの蛇は異なる生命体として生まれてしまった。でもきっと、それだけのことだ。
それでも僕とあの蛇が同時にとてもおおきな水のかたまりのなかに放り込まれたとしたら、あの蛇のほうが僕よりずっと生存率が高いような気がする──けれどみっともなく生き延びてしまうのが僕でもあるから、その点でもあの蛇と僕は平等なのかもしれない。
僕が心のよりどころにしていた空に浮かぶ辰が消えた。そしてあの日、生まれたばかりであろう、地面の泳ぎ方を懸命に覚えて生きながらえようとしていた蛇が僕の視線を釘づけにした。ほんとうは辰が消えるのと同時に僕に見つかる予定だったのかもしれないけれど、僕はそのまえに蛇を見つけてしまった。
あの蛇のことを、僕はまた「彼」と呼んで──辰の性別のこととおなじように、蛇の性別のことにもまったく知見がないし、もはやそんなことは些末な事柄にしかすぎない──つぎに迎えるあらたな「いちねん」を重ねるためのこまぎれの「いちにち」を、僕は地面を必死に泳いでどこかに向かおうとしていた彼にどうでもいい話しをし続けるのかもしれない。しないかもしれない。だって彼は、きっと僕より一生懸命で、僕を一瞥できるような余裕を持たずに生き延びることだけを考えているかもしれないから。
もしそうだとしたら、僕はいま直面して向き合っている「いちにち」と「いちねん」をどうやって乗り越えていくかをまた考えなければいけない──考えたところでその答えの断片のひとつも見つからないことくらいわかっているはずで、意味がある意味がないに関わらず探しものがなにかを明確にできないままやみくもになにかを探すことだけのたったひとつがいつまで経ってもやめられない。
そうやって僕は、意味もなく地面に彼の姿を探してしまうし、いつまで経っても泳ぎ方を知らないままの彼をいくどとなく思い出し、のぞんでもいなかった「いちにち」の終わりとはじまりを憂いて嘆く未来にじんわりと思考を占めてられいく。
終始 ルリア @white_flower
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