runway

 協会の人間による尾行が七回目に至り、ついにその時がやってきた。


 普通の食事が摂れないわたしたちにはクリスマスも年越し蕎麦も関係なく、浮ついた世間の様子にうんざりしているうちに年が明けた。イブキが初詣に行こうと誘ってきたのは一月三日の深夜で、こんな時間に行くものなのかなとか、吸血鬼が初詣っておかしくないのかなとか、思うところがたくさんあった。でも多分、イブキはお腹が空いただけなんだろう。わたしもそうだ。慣れた様子でウィッグを被り、マツバの服を着たイブキと小さな神社へ行き、帰りに食事をした。

 いつも通り夜明け前にアパートへ帰る。それから二時間ほどすれば、カーテンの隙間から射し込んだ光が、床板を淡く照らし始めた。ほとんどの吸血鬼がもう夢の中だ。けれど、わたしはキッチンにもたれて玄関をまっすぐ見つめながら、膝を抱えて座っている。イブキも浴室で空のバスタブに入り、わたしのために瞼を開けているだろう。


 焼きつくほど見つめていた玄関のドアノブが、ゆっくりと回る。この部屋に帰宅するかのように自然な動きでドアが開く。目元を、紋様が入った白い布で覆った、スーツの女が立っていた。長い黒髪を束ねた女の、吸血鬼よりよほど不気味な出で立ちに一瞬怯む。

「おはようございます、小津原カシギさん。親切に、鍵を開けておいてくださったのね」

 部屋に踏み込むなりわたしを見やり、そう言った女の胸元で光るものがある。祈りの形に組んだ手のバッジが、薄い日光を跳ね返していた。マツバに教わった。これは協会の人間の証だ。

「……お前がマツバを?」

 女は少しだけ首をベッドの方へ向けた。そこに横たえられたマツバの、胸に空いた穴を見て安心したように息を吐いた。

「そうですよね。死んでいますよね。私はちゃんと殺したのに、まだ大都議がうろついていると散々言われて……大変だったんですよ。死者を歩かせる術でも使いましたか?」

「どうして殺したの」

「どうして、ですって?」

「マツバは何も悪いことはしてない。マツバだけじゃない……吸血鬼のほとんどが人間に迷惑をかけず、こっそり暮らしてるじゃない」

 女は少しの間、沈黙した。呪術めいた布に覆われて表情は読めない。

「存在していること自体が罪なんですよ。放っておけば人間はあっという間に掌握されて、家畜のようにただの食糧として生きることになる」

「そんなことないでしょ。私たちは会話ができる、意思疎通ができる。吸血鬼にも人間と共存するためのルールがある」

 ため息が聞こえる。まるで聞き分けのない子供に辟易する母親のようなそれに、居心地が悪くなる。共存すればいいじゃないか。わたしはお前を殺すけれど、わたし達以外はみんな、共存すればいいのに。

「昔、とある山間部の村が吸血鬼に囲われ家畜の如き扱いを受けました。私の遠い祖先です。彼らは好きな時に好きなだけ人間の血を飲み、不要になれば殺し、子供の血が一番美味だからと無理矢理に交配を促しました。祖先が最後の抵抗で勝ち取った命と、吸血鬼を排除するという意思が、私達に受け継がれています」

「そ、れは……でも、別の吸血鬼たちで、マツバじゃない……」

「日本に存在するほとんどの吸血鬼が、逃げ延びた彼らの末裔です。いつ本性が目覚めて同じような思想に至るか」

 あなたも、と女が私を指す。

「かわいそうに。そんな不浄が混じるくらいなら、あの時殺しておけばよかったわ」

 ひどく憐れみを含んだ声色でそんなことを言いながら、女は胸元から何かを取り出した。薄明かりすら鋭く反射する銀のナイフ。マツバとイブキから色々なことを教わったけれど、吸血鬼は映画や小説のとおり、純銀に恐ろしく弱いのだという。わたしはまだ、触れたことがない。どれほど痛いのだろう。あれに胸を貫かれたマツバは、苦しかっただろうな。

「あれが、あなたは自分が騙して連れているのだと言っていましたが、やはり鬼の言葉など信じるものではありません。それでもあなたはその時まだ人でしたから、一度は慈悲を」

 わたしは何も言葉を吐き出せないまま、しばらく、静寂に支配された。だけど、アパートの表をバイクが走る日常の音がした時、ついに足を踏み込んだ。女の背後、浴室のドアの隙間で、赤色が瞬いたから。

 悲鳴をあげる薄い床板を蹴って、わたしより背の高い女に抱きつくように飛びかかる。数ヶ月前まで、ただの高校生だったんだ。体育だって得意じゃないのだから、素直に相手の首を狙うことしかできない。

 女は体を硬直させている。その隙を見逃さない。わたしの中で血の巡る音がごうごうと響き、鼓動ばかり早いのに体温が上がることはなかった。

 女を床に押し倒し、勢いのまま馬乗りになった。首筋に噛み付こうとした瞬間、糸が切れたように女の強張った体が動き出した。刹那のことだった。

「……ッ、この」

「あ、ぐっ、あああ、あ、うう……!」

 女の手に握られたナイフは、わたしの背中に容赦なく振り下ろされる。引き抜かれ、また突き刺され、視界が明滅する。熱い、痛い。でも、これでいい。わたしは戦い方なんて知らない。激痛の中でも絶対にこいつを離さないという強い意志しか持っていない。それに、こんな痛みが何だというの。マツバが二度と目を開けないという事実の方がずっと、ずっとずっと! ずっと、痛くて苦しかった。早く、終わらせてほしかった。

 ふたり抱き合うように、床を転げ回る。

「……マツ、バ、待ってて……」

 ぶちぶちと皮膚を破る感触。

 わたしの牙が、女の柔い皮膚を。




 心臓に到達した銀のナイフは、体を内側から焼いていくようだった。床に倒れ、わたしは自分のものか女のものか分からない血液を口から零し、這いずる。

 脱ぎっぱなしの服や、レシートが溜まった財布、メッセンジャーバッグ。マツバが死んでからも手をつけられず放置していた、この部屋に満ちる彼女の痕跡に囲まれて進む。まるで花道だ。ベッドによじ登るわたしを、床に倒れた女が布越しにじっと見ている気がした。いや、もう死んでいるかも。あんなに血の気を失っているもの。

「マツバ……」

 ベッドにはマツバが横たわっている。マツバが動かなくなって、私の心も止まってしまった。イブキと出会うまでの間、自分がどうやって生活していたのか、今となってはあまり覚えていない。思い出そうとしても脳が拒んでいるみたいにぼんやりとして、思考が霧散する。十七年ぽっちの人生が、暗くてさみしい冬を迎えたのだ。マツバが笑わないなら、もう春は来ない。

 腕をひねって背中のナイフを握ると、手の平がじゅうじゅうと焼けた。勝手に漏れる嗚咽に構わず引き抜き、投げ捨てる。一気に流れ出した血がシーツを汚す。わたしとマツバは血の海に沈んだ。浴室から出てきたイブキは静かに部屋の様子を見回して、倒れた女の脈を確認している。

「マツバ……ごめん、ね」

 わたしのわがままで、あなたのさみしさにつけ込んで、そばにいて、死に追いやって、ごめんなさい。

「カシギ、おつかれさま」

 イブキがベッドに近づいてきて、わたしの頭を撫でた。

 とても優しい、妹にするような手つきだった。

「……イブキ、約束」

 窓を開けて振り返るイブキの顔は逆光でよく見えなかったけれど、ゆるく頷いたのがわかった。

 すっかり太陽が登りきっている。

 冬の朝の、澄んだ空気が流れ込んできた。

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