love?
八月、マツバと口論になった。
わたしは食器を洗いながら、その日あったことについて話していた。それだけだったはずなのに、些細な引っ掛かりから、売り言葉に買い言葉だ。飛び出す文句を頭の片隅に残った理性で掘り下げていけば、問題の根っこに行き当たってしまった。わたし達はどう足掻いても、違う生き物だから。
「なんでカシギは私にこだわるの。人と吸血鬼なんてどうにもならない。きっと、友達が物珍しい生き物だったって舞い上がってるだけ。気の迷いだよ」
ざあざあと流れ続ける水に、わたしは食器を通すことができない。泡にまみれた手を、どうしたらいいのか分からない。シンクにある汚れた食器はわたしの分だけ。マツバは隣でガス台にもたれ、肩が触れそうなほど近くにいるのに、わたしの方を見ようとはしない。わたしも、シンクの中しか見ることができなかった。
「なんで……って、分からない。そんなのわたしが知りたい。マツバは賢くて、優しくて、学校でもわたしのことを助けてくれたでしょ。いつもそばにいてくれた。素敵な人だと思った。それじゃだめなの?」
「それは……」
マツバはばつが悪そうに言葉を濁す。
「吸血鬼の目は、魅了の力を持つの……一度だけ、カシギに教室で初めて会った時に、一度だけ、使った。あの場所で生きていくために、人間の世界に味方が必要だった、から……」
「…………なにそれ」
「魅了の効果はそれほど長くないと言われてる。ほんの数日。馬鹿だよね、私は毎回、こうやって人間の世界に入り込んでたの。……とっくに効果は切れているはず。でも、それも吸血鬼の間で口伝えられているだけで、証明はできない」
だから、わたしの感情は作り物だと、マツバは言いたいように思えた。そうやって、わたしの想いを受け取ることから逃げているようだった。好意を迷惑がっているわけでも、わたしを嫌いなわけでもないって感じるのに、どうしたらマツバがわたしの気持ちに向き合ってくれるのかは分からない。マツバは何が怖いの?
「そんな……吸血鬼にだって本当のことが分からないなら、それなら、わたしの感情を信じてよ。マツバが納得できる言葉で伝えないとわたしの気持ちを信じてもらえないなら、そんなの無理だよ! マツバが大切で、どんな手を使っても一緒にいたいと思うって、この言葉以上にどうしたら」
どうしたら分かってくれるの?
なんで、どうして、わたしはこんなにもマツバが好きなのか。本当にマツバの言う通り、吸血鬼の魅了の力だとか、わたしが舞い上がっているだけで一時的な気持ちだったらと思うと怖い。気が狂いそうだ。感情の答えなんてどこにもないのに、それを証明しろなんて、ひどい。
「カシギ……ごめん、泣かないで……」
「……マツバが好き」
「うん」
「マツバが吸血鬼だって知る前から、好きだった」
「……うん」
「もし、きっかけがマツバの力だっていいよ。今この気持ちは嘘じゃない。わたしだけのものなの」
「……うん、わかったよ」
マツバが、水道のレバーを倒して水を止める。いつの間にか頬をたらたらと流れていく涙を拭えない。だって手は泡にまみれている。マツバがわたしを背中から抱きしめる。体温はあまり感じない。それでも、柔らかくて、心地よくて、布越しに伝わるマツバという存在に安堵した。
「誰かが自分を好きだって思ってくれることが、受け入れられないの……」
マツバの額が私の肩に乗せられる。いつもより沈んだ声。学校では聞いたことがなかった。こんな声も、マツバの家族や、人生についても。
「私ね、昔、母親に殺されかけて……あの人はそんなつもりなかったのかも。でもさ、人間って包丁で刺したら死ぬんだよ」
そんなことにも思い至らないくらいおかしくなってたの、とマツバは弱々しく笑った。わたしには想像がつかない。だから迂闊に何か言うこともできなくて、相槌だけを打つ。実の親から向けられる悪意や、それにマツバの心がどう締め付けられて、どれほど自由を奪われてきたのか、分かるわけがなかった。きっとわたしが暮らしていたうっすらと嫌気が差す普通の日々というものは、当事者が気づいていないだけで、恵まれているのだ。
「だから、人から向けられる好意を信じられないし、受け取れない。自信がない。親から教わったことなんて、私には愛情を向けられるだけの価値がないって、それだけだったから」
「……そんなこと」
「ごめんね、勇気がなくて、弱くて、卑屈で。カシギの気持ちに応える勇気が、私にはまだないの」
「そんなことない。マツバは、それでもわたしのこと一緒に連れてきてくれたでしょ。それはマツバにとって、すごく大きな一歩だったんじゃないの?」
「だとしたらそれは……カシギのおかげ」
マツバが顔を上げる気配がする。横を向けば、赤い瞳がすぐ近くにあった。瞳孔の収縮まで見とれる距離にマツバがいるのに、これ以上を望むのは贅沢なのかも。
「カシギだから、一緒に来てほしいと思ったんだよ」
そんなこと言われたら、わたしはもうずっとこのまま、全部を投げ捨ててマツバの隣にいたいって、思ってしまうじゃない。
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