第4話
思った瞬間、ぶつりと頭の思考が消えた。
同時に目の前にいた天使の胴体に横に線が入り、上半身がズレた。そのまま、上半身がゆっくりと落ちていった。
「天使を狩る天使、あなたは―――」
上と下に真っ二つにされた天使らしくない天使は最後まで感情がなかった。声の力は段々と抜けていった。ドサと体は地面に倒れた。血は流れなかった。
それにあわせて、俺の頭の中で渦巻いていた気色悪い感情も消えていた。
何が起きたのか。
「……うう」
俺は唸り、頭を抱えて前を見た。
倒れた天使の向こうに、あの時の彼女がいた。
ルビーのように紅い瞳、月よりも白く明るい肌、髪は長く銀色で、背中には美しい白銀の巨大な翼があった。
どうしようもないほど天使としか言えない。そう表現する他ない非現実的な美しい本物の天使がそこにいた。
天使の彼女は感情の乗らないルビーの瞳で、半分に分かれて地に倒れた天使を見下ろしていた。彼女は右手に白銀の剣を持っていた。剣の刃に汚れはなく、白く光っていた。
しかし、状況からみて、彼女がこの気味の悪い天使をあの白銀の剣で二つに斬ったのだと俺は理解した。
この間、ここに彼女がいたのも同じことをした直後に違いなかった。
「あ、ああ……」
声にならない声を押し出し、俺は何とか声を出そうとした。
行かないでくれ。そう思いながら彼女に向けて手を伸ばした。
「…………」
彼女は俺のそんな姿を見て察してくれたのか、すぐに立ち去ることなくその場に留まってくれた。
言わないと。
なんとしても、言わないと。
俺は回らない頭を戻そうと、無理やりに深呼吸をして、言葉を紡いだ。
「――俺は、あなたに惹かれたんだ! どうしようもないくらいに綺麗で、どうしようもないくらいに非現実的なあなたに! あなたといれば、現実の変わらない日常が変わるんだ…………。お願いだ! 俺もそっち側に連れってくれ!」
腹の底から出したつもりだが、掠れた声だった。彼女に届いたかはわからなかった。それでも、言いたいことを言おうとしてひたすら言葉を羅列した。
彼女はいつかと同じように、黙って俺を見ていた。そのルビーの瞳に感情の色はなく、俺のお願いを聞いているのか、彼女が何を考えているのか、俺にはわからなかった。
数秒の沈黙の後、彼女は小さい口を開けた。
「無理」
冷たい一言が無機質に透き通った声で発せられた。目の前の彼女が一気に遠く感じられた。
予想外、というわけではないが、明確な答えで俺は胸の奥は締め付けられた。
あれだけ待ち焦がれた出会いの答えがたった一言だなんて、信じたくなかった。
「なっ、なんで?」
「私はシステムに則って動くだけの存在だから」
「システム?」
「そう。システムに則り、歪に欲望を叶える天使を殺すだけの天使。それが私」
彼女は淡々と告げた。
表情に変化はなかった。眉は動かず、瞳は俺を見ているだけで、口は小さく動き言葉に抑揚はなかった。
右手に持つ白銀の剣も無機質に光っていた。
風が静かに彼女の髪を撫でた。
「システム、ってなんだよ」
「この世界をあるがままに保つための理の一つ。ただそれだけ」
それ以上の答えを彼女は言うつもりはないようだった。
「そうだとして、なんでそのシステムだと、この天使が俺に妙なことをして、それであなたが天使を狩るようなことをしてるんだ」
「システムだから」
彼女はそれ以上を教えてくれそうになかった。
納得できないが、俺にとって大事なのはそこじゃなかった。
「じゃあ、システムだから、あなたは俺を連れていけないのか?」
「私に人間の子をどうにかすることはできない」
はっきりとした拒絶だった。
それでも、と俺は食い下がった。ここで終わったら、俺は絶対後悔する。この機会を逃せば、俺の人生が変わることはない。
心臓が跳ね上がり、呼吸が速くなっていた。
焦る感情をどうにかしようとしながら、俺は深く息を吸い込み、一気に言葉にした。
「だけれど、俺は今の現実から変わりたいんだ。毎日毎日同じような繰り返しで、でも、世界は何も変わらなくて。明日も明後日も変わらないんだ。いくら勉強したって果てはなくて、部活をどれだけ頑張っても世界は何も変わらないんだ。だから、あなたと一緒に行きたいんだ。非現実的で、どうしようもない奇跡みたいな世界で、あなたと一緒に生きてみたいんだ」
それがきっと俺にとって正解なんじゃないかと。
どうしてそうなのかという理由はないが、俺はそう信じて疑わなかった。
理由はないが、彼女を一目見た時から、この感情だけは出し切らないといけないと思った。
俺は、天使のような彼女と一緒にいたい。
「そう」
彼女は一言呟き、
「でも、無理」
短く答え、
「君にとって非現実なのかもしれないけれど、私も、私のやっていることも、私にとってはいつもの現実。他愛のない日常」
そう静かに言った。
「だとしても。俺にとってはどうしようもないくらいに非現実なんだ」
「それは私のこと? 私が天使を殺すこと? あなたを誘惑した天使のこと?」
「全部、全部だ!」
俺は縋るように答えた。
胸がさらにギュッと締め付けられた。自分の言いたいことを、自分の思いを全てぶつけた。
これでダメなら、俺はどうしたら良いんだ。
目頭が熱くなっていた。
「だとしたら、尚更無理」
彼女は改めて拒絶を告げ、背中を向けた。
「私がいることも、私が天使を殺すことも、天使が誰かを誘惑することも。全部、私たちにとってはいつもの日常。変わることのない毎日。あなたにとって非現実でも、毎日繰り返せばそれも変わらない現実となる」
「…………」
「なんでも現実になるのなら、あなたはあなたの世界にいるべき、人間の子」
こちらの世界はどうしようもないくらいにくだらないから。最後に突き放すようにそう言った。いつかの日と同じように俺の前でゆっくりと背中の翼を広げて、虚空の夜空へと音もなく飛びたった。俺は何も言えずに見送り続けた。すぐに彼女は夜空に消えて見えなくなった。
後には、俺だけが何事もなかったかのように取り残された。
いつの間にか、半分に切断された天使も完全に消えていた。
ビルとビルの間の細い路地裏には、最初から何もなかったかのように俺だけが立っていた。吹き抜ける風が、何事もなかったかのように俺の背中を押した。落ちていたゴミ屑が転がった。表の通りから、けたたましい車のエンジン音が響いてきた。
「……帰ろう」
自分に言い聞かせるように呟いた。
一気に全てが終わった。あれだけ悩んでいたのに、頭の中は妙に静かで、胸の中は何かが抜けたようにぽっかりとしていた。
色々な感情が一気に押し寄せるかと思ったが、思ったよりも何もなくすっきりしていた。
あのおかしな天使に何かをされたからなのかとも思ったが、それは違うと断定できた。
きっと、彼女がちゃんと拒絶してくれたからだろう。
俺にこの世界を生きるようにと、言ってくれたからだ。
「ありがとう」
俺は天を仰ぎ言った。
薄暗い路地裏を抜けて街に戻ると、歩く人々は何も知らずに日常の中を歩いていた。
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