第3話
部活の終わりが遅くなった。
日が沈んで暗くなっていた。俺は早歩きで道を進んだ。会社帰りの人や、着飾って遊びに行くと思われる人々が行き交う街中にいた。いつもと変わらず、見知らぬ人々が駅に向かったり駅から家に帰る方向に歩いたりと慌しかった。車道の車は少し渋滞気味で、赤信号にもかかわらず、ギリギリで走り抜ける危ない車もいた。
何も変わらない見慣れた景色だ。
薄暗くなった空は街の明かりに照らされていた。まばらに光る星があった。
いつまでもこの日常を繰り返すんだろうな。
ふと、そう思ってしまった。
毎日、学校に行き、勉強をして、友達とくだらない会話をして、部活をして、家に帰り、寝て、朝起きる。それだけだ。街の景色は、少しずつ変わるんだろうが、大きな変化を起こすことなく、淡々と日々を過ごすだけ。そんな毎日を生き続けるのだろう。
明日も明後日も来週も来年も。
高校を卒業したら変わるのだろうが、新しい環境と新しい出会いがあっても、それが次の日常になるだけの気がした。
高校生活二年目でこれなのだ。
大学に入ってから四年の生活も、今と同じように新しいことはすぐに慣れて、ありふれた日常になってしまうのだろう。非日常を求めて、そのうち変わると信じて、そうやって日々を生きることになるのだろう。
「……イマイチだな」
ぼやいた。
ふらりと気づけば、ビルとビルの間の路地裏にいた。狭くて小汚いから人が通らない静かな場所だ。
この間、天使と出会った場所だ。
会えるはずもないのに、ついまた来てしまった。今日は急いでいないから、ここを通る必要はなかったのだが。
期待もあった
しかし、当然のことだが。
「いるわけないよな」
そこはただ静かなだけで、誰かがいる気配は微塵もなかった。たまに風が吹いて、地面に落ちていた紙屑が揺れていた。
何もないただの寂れた場所が、彼女と出会ったのはただの偶然で、二度と起こることのないものなのだと突きつけているようだった。
帰るか。
「人間の子よ。あなたの望みはそれで良いのですか」
路地を通り抜けようとした瞬間、背後から女性の声がした。
聞き覚えのない柔らく包み込むような声色だった。一言だけで聞き惚れてしまいそうだった。
俺は足を止めて、振り返った。
物音ひとつ立てずにいつの間にいたのか。彼女とは違うが、天使のような女性がいた。背は俺よりずっと高く、細身の容姿をしていた。妖艶な雰囲気を身に纏い、長い髪は艶やかで、背中に灰色の翼を携えていた。朱色の瞳が誘惑するように俺を捉えていた。
天使だ、と直感したが、なぜか俺の心は動かなかった。
待ち侘びていた非現実的な存在で、目の前にいる天使も綺麗なはずなのに、彼女と比べて、奇跡的な感じはしなかった。
「え、っと……。どちら様でしょう?」
「あなたからは救いを求める声が聞こえます」
まずい。会話が通じないタイプだ。
逃げるべきなのだろうが、目の前の天使からは絶対に逃がしてくれない雰囲気を感じた。逃げようとしても追いかけてくるに違いない。しかも何をしてくるかわからない変な恐怖もあった。
「え、っと。大丈夫です。特に求めてないです」
とりあえず拒否をした。
「人間の子よ。望みを叶えたいと思いませんか」
天使は言い方を変えて質問を繰り返した。
な、なんだよ。どうしたら良いんだ。
「いや、俺は――」
「人間の子よ。変わりたいと思いませんか」
朱色の瞳が鈍く光りながら俺を見続けていた。同意するまで質問を繰り返しそうだった。
天使のような見た目なのに、雰囲気と言っていることは妙な薄気味悪さがあった。天使とは真逆の存在のような気さえした。
断って逃げたら何をされるかわからなかった。
逃げたいが、怖くて逃げられなかった。
しかし、同意をしても何をされるかわからなかった。
そもそも、人間の子ってなんだよ。
嫌な汗が背中を伝った。足は固まって動かせなかった。
ああ、でも、と心の隅で思った。
目の前の天使の言うことを聞いたら、今とは違う何かになるのだろうか。
目の前にいる天使に恐ろしさはあるが、言っていることは間違いではなかった。俺に否定はできないし、言い返す術はなかった。
ただ、怖さだけはあった。この天使の言葉を信じて、何が起こるかわからない恐怖だ。超常の存在に出会って、話に乗って、次の瞬間どうなるかなんてわからなかった。
だけど、俺は天使の彼女に会いたいと思っていたのだ。
「変えられるのか?」
その言葉は思わず口から漏れ出ていた。
あり得ないことを求めるならば、自分から飛びつくしかないのだと、そんな気持ちが心の隅にあったのだろう。
天使は俺の言葉を待っていたかのようにゆっくりと頷いた。
「人間の子よ。変わりましょう」
天使は無表情なままで、柔らかな声が俺を包み込んだ。
俺は後悔した。言ってはいけないことを言ってしまったのだと心の奥が警鐘を鳴らした。しかし、その鐘は遅過ぎた。
天使のくすんだ朱色の瞳が俺を捉えた。俺の目を、その先にある、俺の心を――。
途端、俺の頭に声が響いた。
(本当にこのままでいいの? このままいても何も変わらない。いつまでも、いつまでも変わらない日常を生き続けるのか。どうせ明日も明後日もその先も、いつまでも日常は変わらない。当たり障りのないことを続けて、変化しない毎日を生きて、何かになるわけではなく、何者に代われるわけでもなく、そのままで生き続けるだけだ。それは面白いのか。楽しいのか。喜びなのか。素晴らしいのか? 本当に良いのか? 勇気さえあれば何者かになれるんじゃないか。勇気がなくても変わるためには何かをしないといけない。なんでも良いから何かをしないと。なんでもいい。世界を変えるために何かをするのだ。何か、何かを――)
「な、何だ、これ…………?」
頭の中をわけのわからない思考が駆け巡った。
俺のような、俺でないような、この天使のような、この天使でないような、自分なのか、他人なのかわからない、ぐるぐるとした声が回り続けた。
気持ち悪い。
頭の中で自分のようで自分でないような得体のしれない感情が溢れ出て、中から頭をカチ割りそうだった。
ああ、でも。
このまま、この感情に乗っかるのも悪くないかな、と思った。
どうこのまま生きていても何も変わらないのなら、この感情が正解なんじゃないか。
俺は自分で考えることをやめて、津波のように押し寄せる思考に体を任せようとした。
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