第2話

「はぁ……。」

 溜息が出る。ルシュアンの日常は勉強ばかりである。これも立派な王になるための帝王学というらしいが、朝から夕方までみっちり授業が詰まっていて、嫌になる。

 以前は夜会は適当に飲んで踊っていれば良かったのだが、王太子になると途端に今度は結婚相手を探そうと夜会の方も殺気立ち始めて、どこどこの国のどこどこの公爵家のどこどこのご令嬢だ、などと言われても、彼女たちに基本的に興味のないルシュアンは覚えきれないのである。最近はラファエル・イーシャが夜会に付くようになり、あの男は嘘のように女の顔と名前と詳細を正確に一目で覚えるので、ルシュアンが「うっ! こいつ誰だか分からん」と思ってもそれとなく彼がナビゲートを入れてくれて随分楽になった。

 こいつ一体どういう記憶力してんだと彼は思い、「よく覚えられますね」とそれとなく聞いてみたのだが、彼はフッと笑うと「才能ですよ」と胸を張ったので一切参考にならなかった。確かにあれが才能なら俺はその才能がないのだろうが、あんな才能別になくていいと彼は思う。

 しかしルシュアンは本当に興味ないものは勉強でも、人の顔でも、一切覚えられなかったので、ラファエルは確かに、夜会で側にいてくれるのは助かっている。とはいえ、逆にこいつがいるからいいや、などと最近なってしまっているのは自覚があるのだが。

(結婚するといい時期が来たから誰か選べなんて、他人事だと思って気安く言いやがって)

 勉強したくなかったので、ルシュアンは部屋から逃げることにした。女官の隙をつき王太子とは思えない、泥棒みたいな足取りで、そーっと部屋を抜け出した。とはいえ、王宮の中にいては一瞬で通報され、あの虎みたいな女官が激怒して駆けて来るので、彼は普段自分が絶対に行かない、一番王宮で奥まった面倒臭い場所にある庭に行くことにした。

 そうは言っても、兵士やら侍女やら行き交う王宮で、おや、王子様だみたいな顔をされて挨拶するので、どこへ行っても目撃情報があり、すぐ見つかるのだろうけれど。

 王宮はこんなに広いのに、ロクに隠れる場所もない。

 奥庭に出た。

 風が吹く。

 ここは王宮の裏手で、この時間は陰になるから、太陽を燦燦と浴びなくて済む。

 ルシュアンは少しだけ安堵の息をついた。

(俺の人生って一生、これが続くんだろうなあ……)

 結婚についても最初は、美人で優しい令嬢を見つけてやるんだと思っていたものだが、段々どうでもよくなり始めた。

 最初はルシュアンも、いい印象を与えた女性を母親や腹心のロシェル・グヴェンに教えていたのだが、結局家柄や、親などの政治状況などを彼らが話し合い、「こっちの女性の方がいい。今度会わせる」と、いいと言った覚えもない女性の話にいつの間にかなっている。俺の意見を最初から参考にする気ないなら、聞かないでくれよと思った。

 勿論自分は王太子なのだから、お気楽に気に入った子と結婚出来るなどとは、思ってなかったけど、選ばせる気なんか、はなからないじゃないかと思う。

 最近彼は、もう別に決められた相手でもいいかなあと思い始めた。

 あの母親や参謀のことだから、きっと何もかもヴェネト王家にとって都合がよくて、そこそこ美しくて、彼らの意のままになるような結婚相手を見つけて来るだろうと諦めたのだ。

「私はあまり女性を見る目が無いので、母上にお任せします」と口にすると、実際のところ、随分心は軽くなった。

 母親のセルピナは何もかも自分の意のままにしないと気が済まない性格をしているので、そんなことでも母親との軋轢が無くなるなら、気は楽だった。例え自分で選んだって、あの母親の気に入らなければ、絶対に空気が悪くなり問題ばかりになるに決まっている。

 それなら最初から自分が選んだ女だからと思ってもらった方が摩擦が減る。

 ルシュアンは揉め事が大嫌いだった。面倒臭いのだ。

 人が揉めてると、すぐに関わりたくなくなる。

 母親は人と揉めることも一切厭わない雄々しい性格をしているので、母親が怒り始めると、ルシュアンは憂鬱になって来る。怒りに満ちた母の顔を見たくないのもあるけれど、小さく済んだんじゃないかと思うことでも、場合によっては大事にすることも恐れない人なので、我が母ながらその覇気とバイタリティには圧倒される。だから、そんな母と結婚相手のことで揉めるなんて絶対に嫌だ。揉めるくらいなら、母が納得しこれぞという相手と結婚した方がずっとマシだ。おかげであの夜会この夜会と連れ回されてはいるが、なんだ俺が選ぶ必要ないんだと思うと、張りつめていた気が抜けた。

 気は楽になったが、気が抜けてしまった。

 おかげで最近勉強にも全く身が入らない。

 授業を受けてはいるけれど、最後にじゃあ今日何を学んだっけ? と思い起こすと内容すら覚えてない自分がいる。一体俺はこれを何のために勉強しているんだなどと、思ったら負けなのは分かっているが、ついつい過る。

 戴冠したり、結婚したりすれば、少しはこういう気持ちも落ち着くのだろうか。

(まあいいや。俺が馬鹿でもどうせ、玉座に座ったって母上が政はしていくんだから)

 だったら、自分が賢くなんて、なる必要ないじゃないか。

 ただ玉座に座って、欠伸をしないように気を付けていればいいだけだ。

(たったそれだけの……)

 ルシュアンは痛くなってきそうな気配を見せた蟀谷のあたりを親指で押さえた。

 思わずそうした、その時、煙草の匂いがして立ち止まると、数日前と全く同じ光景があった。真紅の軍服を身にまとったスペイン海将が、軍服の裾を風に揺らしながら水路の側に立って、煙草を吸いながら遠くの湿地帯を見ている姿があった。

 普通ルシュアンはこういう時、人が先にいると苛立つのに、その時は不思議と嫌な気分にならなかった。

(こいつあんまり、王宮で見ないんだよな)

 いることはいるのだ。新設された近衛隊の隊長なので、城に常駐しているはずだ。多分王宮と隣接する騎士団本拠地の方にほぼいるのだろうとは思う。王太子の近衛だから、ルシュアンが公に出て来る夜会の時には王宮に戻ってきているようだが、夜会が無事に終わればまたそっちに移動しているのだと思う。

 そう想像はするけど、参謀ロシェルやラファエルに比べて姿を見ないので、この真紅の軍服は目を引くのだ。いつもどこにいるんだろう。ラファエル・イーシャなんていつも王宮の色んな所で侍女やら女官やらと楽し気に話しているのを見かけるのに。

 彼は今、いかにも休憩中という様子だったが、湿地帯の方を見ている。

 あの時も湿地帯の方を見ていた。

 何かあるのかな。

(それに、こいつ、あんまり人を引き連れてないんだよな)

 王妃も参謀も、他の将軍や大臣も、大勢の人を引き連れて王城を歩く。

 守護職だからなのかもしれないが、イアン・エルスバトは基本いつも一人で行動している。部下に指示を飛ばしてはいるが、不必要な時はこうして、側に張りつけず一人でいることがあった。王宮の上級職としては、非常に珍しいことなのだ。

 これもスペイン風の気質、というのだろうか?

 特にやることも無かったので、近づいて行く。

 水路の縁に頬杖をついて寄り掛かっていたイアンは、足音に気付いて振り返った。

 彼は瞳を瞬かせると、あっ、という顔をして煙草を水路に捨て、身を正した。

 完全に気を抜いてた姿を自覚したらしく、彼は慌てて背筋を伸ばしたが、ルシュアンはその姿が少し、笑えた。実際には笑ったわけではないけど。

 休憩中くらい、一人でボーっとしたい気持ちはルシュアンもよく分かる。

「いや、いいんだ。俺が勝手に後から来たんだし……休憩中なんだろ。楽にしていいよ」

 イアンはルシュアンの言葉に一瞬目を瞬かせたが、緩めていた軍服の前を軽く閉め、身は正した。

「失礼しました」

「……なに見てたんだ? お前、この前もここにいたよな」

「いえ……別に何を見ていたわけではないのですが」

 イアンはもう一度湿地帯の方を見た。

「例の【仮面の男】の遺体がどうして出なかったのかを、考えていました」

「ああ……ロシェルから聞いた。でも、守備隊が森で仕留めたんだろ? 海に落ちたのを母上も確認なさったと」

「ええ」

 これは公にはなっていないし、城の者すら知らない。実はあの【仮面の男】が二人いることを、イアンだけはフェルディナントから聞いて知っていた。

 ラファエルと王妃が【仮面の男】を森で見たという。居合わせたのが剣も使えないラファエルで、一体どうやって生き延びたんだと思う所だが、森の守備隊が仕留めたようだ。

どこまでも悪運の強い男である。

(けど、ラファエルのやつは腐っても王家に関わっとるからなぁ。もし奴があそこで仮面の男に殺されとったら外交問題になっとったかもしれん。そうしたらあの高飛車な王妃、一体どう始末をつけたんやろな)

 案外堂々と遺体をフランスに送りつけたかもしれない。

 それでもフランス王は戦は仕掛けられないだろう。今はそういう状況なのだ。それはスペインや神聖ローマ帝国も同じだった。

 国に来る前、自分をいつになく感情的に見送った両親の姿を思い出す。

(けど……そういうことなんやろな。俺たちがここにいる限りの意味。例え俺がここで死んだって、スペインは俺の為に文句なんか、この国に言えないんや。笑っていいんですよ、国の為に任地に付いたのですからで済ますしかない。自分の息子が殺されても、国の為に笑って済ますしかないんや)

 ゾッとする。

(俺は、あの両親には絶対そんなことさせたないわ)

 イアンは思った。

「遺体が見つからなかったのがそんなに不思議なのか?」

 押し黙っているイアンに、ルシュアンが話しかけて来る。

「それは……あの塔の最上階から落ちたんですから。あるはずのものが無いと、やはり気になります」

 イアンが指で向こうに見える西の塔を指差した。

 ふーん。守護職っていうのはそういうものなのか。

 全くそんなことを気にしていなかったルシュアンは思った。

「湿地帯は場所によっては、深い所もあると聞く。そこに落ちたんじゃないか?」

 そうかもしれない。イアンは三日、文字通り湿地帯を捜索しまくった。しかし少しの痕跡も見つけられなかった。

 確かに落ちたのをこの目で見た。

 生きているはずはないのに、遺体が見つからず、王家の森に現われた。イアン個人としては、自分の前に現われた男と、王家の森に現われた男は別ではないかと考えている。でもだからこそ、塔から落ちた方の遺体を確認したかった。しかし広い王家の狩場である湿地帯をくまなく探したが、三日探しても何も出なかった。忽然と消えてしまったのだ。

 不可能ではあると思うが、遺体が出ないならばと考えてもみた。

 つまり、落ちた男と森に現われた者が同一人物である場合だ。

 まずあそこから落ちてどう無事だったんだという前提が定まらないので、想像しにくいが、仮に奇跡的に、無傷だったとする。【シビュラの塔】に向かったとして、湿地帯からは切り立った崖を上って森を越えて島に上陸しなくてはならない。イアンも見てきたが、とても人が一人で上れるような場所じゃない。だとしたら一体どこから森に向かったというのか。

(いや。やっぱどうあってもその可能性はない。仮に奇跡的に生きてても、傷くらいは負ってるはず。そんな身体であんな場所、上れるはずない。無傷な体でも無理なんや。捜索隊も迫ってたのは分かっていたはず。時間はなかったはずや。あんな短時間で森にまで上がれるはずがない。なら、やっぱ落ちた奴と森に出た奴は別人なんか……。

 あの俺の前に現われた奴の顔見たかったなあ……どう考えてもあいつがスペイン駐屯地に忍び込んで警邏隊三人をバラバラに切り刻むようには思えなかったんやけどな。

 警邏隊三人を容赦なく殺したのに、あいつ近衛隊には手を出さんかった。手を出さないというより、少しも傷つけたくないって感じだったよな。塔の所でも、あんな潔く飛び降りた。駐屯地の殺しの手口は執拗や。あいつとは重ならん)

 イアンはハッとした。側に王太子がいることを思い出したのだ。

「失礼しました」

 反対側の水路の縁にもたれかかり、湿地帯の方を見ていたルシュアンは、何をイアンが謝ったのかと思ったようだった。

「つい考え事を」

 ああ、とルシュアンは頷く。

「いいよ別に」

 自分を側にぼーっと考え事をする奴なんて、珍しい。少しくらい人を放っておいて欲しいと城の者には思っているので、放っておかれて、ちょっと嬉しいくらいだ。

「大変だったんだろ。この数日、ずっと夜中に湿地帯に捜索が出てた」

「お騒がせして、申し訳ありません」

 ルシュアンは最近あまり眠れず、夜中に目が覚めることがあった。その時窓の外を見ると、湿地帯に明かりがずっと揺れていて、なんとなく、ずっとそれを眺めていた。あれを率いていたのはイアン・エルスバトだったのだ。

「責めたんじゃない。神域に侵入者が近づくのは、母上がとても嫌がる。徹底的に捜索してくれた方がいいんだ」

「ジィナイース様! 殿下!」

 突然聞こえてきた大声に、ルシュアンは苦い顔をする。慌てたように建物の影に身を隠す。数秒後、二階のテラスに女官が現われ、また王太子を呼んだ。彼女はすぐ階下の奥庭にイアンの姿を見つけ「あっ」という顔をし、大声を恥じたように会釈をした。そそくさと姿を消す。

「ジィナイース様! どちらにおられますかー!」

 また元気いっぱいの声が聞こえて来る。ルシュアンは溜息をついた。笑う声がして、顔を上げると、イアン・エルスバトが腕を組んだ姿で笑っている。

「わ、笑うなよ……! あいつはホントにしつこいし見つかると腕力に物を言わせて部屋に連れ戻されるんだよ!」

 笑われて、赤くなってルシュアンは訴えた。

「部屋に戻りたくないのですか」

「……山ほどの勉強が待ってるから」

 目を丸くしてから、イアンは失礼だと思いながらも吹き出してしまった。

「それは、大変だ」

「本気にしてないだろ。本当にすごい量なんだよ! 頼むからあいつに密告するな!」

 イアンは組んでいた腕を解き、後ろ手に組んだ。

「ご命令ならば」

 ルシュアンは目を瞬かせる。なんだか滅多に姿を見せず仕事ばかりしてるので、もっと堅苦しい男なのかと思っていたが、あっさり彼はそう言って自分を見逃してくれた。

 イアン・エルスバトが一瞬小さく笑みを見せたが、彼はまた、湿地帯の方へと目を向けた。 勉強が嫌だから逃げるなんて子供みたいだ。ヴェネト王国を取り巻く情勢は複雑なのに、王太子は全く緊張感がない。

(あの王妃。他人には厳しくやるクセに自分の息子には随分甘いんやな。こいつはたった一人だけの世継ぎなのに、マシな教育もさせてない。やっぱり譲位しても自分が摂政として政をやっていくつもりなんやろか)

 幼い、まだ子供の王太子。

 ヴェネト王国に滅ぼされた国の人間からしたら、王太子のこの暢気な様子でさえ、頭に来るだろう。しかしイアンはこの幼い王太子を責める気にはならなかった。何か自分で考えて、意見を言ってくるならば怒りも沸いたかも知れないが、自分の国の状況も把握してなければ、王としての自覚もない世継ぎなのだ。自分の考えも持ってない子供をひっぱたいて説教しても仕方ないことくらい、彼は分かっている。 


 海から来る風は少し、涼しくなった。

 ネーリを船に乗せてやった時は、星が瞬いてもまだ温かい夏の夜だった。それはついこの前のことだと思ったのに。

 イアンはふと思い出し、ネーリ・バルネチアに急に会いたくなった。

(ネーリの絵も、また見に行きたいな)

 深緑の中、眠る竜の穏やかな絵。

 彼にはスペイン船を描いて欲しいと依頼しているけれど、絵は描いてくれてるだろうか?

 ……確かに湿地帯は所々、深い所があった。

 そこに、あの仮面の男は沈んでいるのかもしれない。

 これから季節は紅葉へ向かい、やがて冬に向かう。

 湿地帯は凍てつくだろう。

 その凍れる大地の下に、彼は永遠に眠り続ける。

(あいつは何人も殺した)

 だから同情なんてすべき相手ではないと思う。

 それでも、誰にも顔を見られることなく、存在を知られることもなく、

 何のためにそんなことをしたのかも知られることもなく、死んだ。


 それが無性に、哀れに思えた。


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