第2話 旅立ち
「ふあぁ……よく寝た……」
身体を起こして伸びをする。差し込んだ朝日が部屋を明るく照らしていた。
今日は僕にとって人生の節目となる日だ。
この八年間で色々なことを学んだ。と言っても、師匠から教わったことを基礎に、独自の勉強を積み重ねていっただけだが。
芋虫のような不出来な動きでベッドから這い出る。
大きく深呼吸をしてから下の階へと降りた。
「おはよう、グレースさん」
「おはようございます、ゼーレ」
グレースさんと挨拶を交わす。
彼女はリーチェ師匠がいなくなった後、入れ替わるようにしてこの家にやって来た。師匠とは古くからの友人で直々に僕の子守りを頼まれたらしい。
最初出会ったとき、師匠には本当に友達がいたのかと驚いたものだ。
あの事件以来、他者に心を閉ざしていた僕にとってグレースさんの存在は大きい。彼女が真摯に向き合ってくれなければ、僕はもう誰とも関りを持とうとは思わなかっただろうから。
「いよいよ今日ですね」
「そうだね。長いようで短い八年だったよ」
笑いながら椅子に座る。
――そう、何を隠そう今日は僕がこの家を出る日だ。
師匠は何も言わずに僕の元から去ってしまった。だが、彼女はこの家を離れる前に強固な人避けの結界を張っていたらしい。
つまり、師匠がいなくなっても安全は保障されていたという訳だ。
僕はこの安全地帯の中で八年間、修行に身を費やした。そして今日、僕は旅立つ。
「いつ頃出発するご予定ですか?」
テーブルの上に皿が並べられる。
グレースさんが作ってくれた朝食を食べるのは今日で最後かもしれない。
仮にあったとしても、それはかなりの時間が空いていることだろう。
「なるべく早くユートラス王国に入りたいから、これを食べたらすぐに出発するよ」
パンの入ったカゴを受け取りながら答える。
今日の朝食はパンと豚の塩漬け、それと野菜スープだ。
グレースさんが席に着いたのを確認して、いただきますと手を合わせた。
朝食後、自室に戻って旅の準備を進める。
散在していた衣服を畳み、荷物の中に押し込む。忘れ物が無いか入念に確認し、最後に古い魔導書を荷物へ入れて階下へ向かう。
「準備は万端ですか? 忘れ物はありませんね?」
グレースさんも心配性だな。
もう幼い子供じゃないのだから、忘れ物なんてしないだろう。
外出するのは実に八年ぶりだが……。
「大丈夫。昨日の夜、何回も確認したから」
僕は荷物を背負い、そう答える。
よし、準備完了だ。
「それじゃ、行ってくる」
「ゼーレ、ローブの後ろが破れていますよ」
「え、嘘?」
首を捻って背中を確認する。しかし人体の構造上、限界がある。
自分では破れた個所が見られない。そろそろ首が真後ろまで回ろうかというとき、グレースさんが告げる。
「冗談です」
琥珀の目が愉快そうに細められ、口元には薄い微笑みがあった。
その清楚な見目とは裏腹に、彼女は冗談が大好きな人だ。初めの方は僕を励まそうとしてくれているんだと思っていたが、途中から単純に冗談を言うのが好きなだけだと気付いた。
「グレースさん、素直に僕の門出を祝ってくれてもいいんだよ?」
「ふふ、すみません。湿っぽいのは嫌いなので」
にこやかに笑うグレースさん。
だが確かに、彼女の目には僅かな陰りがあった。
僕がこの家を出れば、今度はグレースさんが一人になってしまう。師匠を失って独りぼっちになった僕と同じだ。
少なからず、彼女にも寂しいという気持ちがあるのかもしれない。
「心配しないで。別にこれが一生の別れになる訳じゃない。また帰って来るよ」
そう、何も二度と会えない訳じゃない。
僕が旅に出るのは新しい人生を歩む為。そして、いなくなった師匠を探す為だ。旅に区切りが付いたら、またこの家に戻って来るつもりである。
「絶対ですよ。絶対、私に孫の顔を見せてください」
「気が早いよ」
結婚相手どころか友人だっていない。
それにグレースさんはまだ二十六歳だ。孫の前に自分が子供を産む可能性だってある。
「大丈夫、立派になって戻ってくるから」
グレースさんは僕の言葉を聞いて、嬉しそうに頷いた。
彼女に背を向けて扉を開ける。
「いってらっしゃい、ゼーレ」
背中に掛けられた声。
そこには二人分の想いがあった。
「行ってきます」
――こうして、僕は新たな人生の第一歩を踏み出した。
――――――――――
見渡す限り木々ばかりである。
空を見上げると、太陽の光が燦々と降り注いでいた。
ここはカルムメリア王国とユートラス王国の間に位置する森の中だ。
この森は商人や駆動馬車などの通り道らしく、きちんと整備されている。
初めてこの街道を通ったが、こんなにも綺麗に舗装されているものなのか。道には石畳が敷かれていてとても歩きやすい。
森の景色を眺めながら歩く。
街道にも整備が行き届いているとはいえ、夜の森が危険なことに変わりはない。なるべく早くユートラス王国へ到着したいところだ。
そう思って歩みを早めた瞬間。
地面を勢いよく蹴る音と獣の咆哮が聞こえてくる。
音のする方に振り向くと、亜麻色の髪をした少女と黒猫がこちらに走ってきていた。
その光景に対して特に思うところはない。少女の後ろから、巨大な熊のような魔獣が迫っていなかったならば……。
「そこの方ー! 少しの間、後ろのオウルベアを足止めしてくれませんか!?」
少女が叫んでいる。
僕は周囲を見渡した。生憎、付近に人はいない。
つまり、そこの方というのは僕のことで間違いないようだ。
右手をオウルベアへと翳す。
「【
空中に魔法陣が展開し、そこから二発の火の球が放たれた。
魔術の発動には基本的に詠唱が必要だ。けれども、魔術をある程度学んだ者は下位魔術であれば、詠唱を唱えずに発動できる。
例えば、今しがた発動した【火球】は『火の根源よ、自然の理を以て、その力を示せ』という詠唱が必要になる。けれど比較的イメージが容易なので詠唱を必要としないという訳だ。
放った火球はオウルベアに直撃。
顔に攻撃を食らって怯んでいる。
少女は僕の傍まで走ってくると、肩で息をしながら言った。
「すみません……、あともう少しだけ時間を……!」
頷いて了承の意を示す。
オウルベアを見ると、再びこちらに向かって走り出そうとしていた。
「【
すかさず氷結魔術を発動。
地面に青色の魔法陣が出現し、オウルベアの足元が凍った。
足止めならこれで十分だろう。まぁ、僕にできることはこれでほぼ全てなのだが……。
「これでいいか?」
隣で呼吸を落ち着かせている少女を見やる。
「はい、ありがとうございます!」
礼を言いながら、少女はオウルベアに両手を翳していた。
その巨体の上に一際大きな魔法陣が展開している。
魔素の流れが急激に速くなっているのを感じた。これは、師匠が上位魔術を放つときと同じ。
「死に絶えた大地、霜の巨人、無謀なる聖職者。その安らかな眠りを妨げる者共に罰を与えよ! 【
流れるような詠唱の後、上位魔術が発動した。
魔法陣の中から厳めしい氷の十字架が降り注ぐ。その先端は鋭く尖っており、オウルベアを容易に穿った。
魔獣は断末魔を上げる暇もなく絶命する。
……驚いた。
僕も師匠から魔術を習っていたが、あんな強力な上位魔術は修得していない。残念なことに、僕には魔術の素養があまり無かった。
上位魔術は一つ使えるが、威力という面では足元にも及ばないだろう。
「ベル、後はお願い」
足元でくつろいでいる黒猫に向けて少女が声を掛けた。
ベルと呼ばれた黒猫は音もなくオウルベアの亡骸へと近づき、おもむろに「にゃあ」と鳴いた。
黒猫の影が不自然に歪むのを見た。
次の瞬間、死体が地面に沈み始める。
……いや、影に呑み込まれていると言った方が正しいかもしれない。
じわじわと、一切の音も無く、オウルベアは影の中に消えていった。
「あの、お兄さん! 聞こえてますか?」
「ハッ……!? な、何だ?」
奇妙な光景に釘付けとなっていて、しばらくその声に気付かなかった。
我に返った僕は辺りを見回す。すると視界の下部に亜麻色の頭が映り込んだ。視線を下げると、そこには心配そうな顔をした少女と黒猫がいた。
「大丈夫ですか? どこか怪我とか……」
「……ああ、いや大丈夫。……ところで、その猫は?」
魔獣の亡骸があった場所には一滴の血も残されていない。
あの巨躯を完全に消し去った歪な影。それはこの黒猫から伸びていた。
僕が八年間も引きこもっている間に、この世界の猫は異様な進化でも遂げたのだろうか。
「この子は使い魔で、魔物の魂を食べるんです」
魂を食べる……?
生命の根源である魂に干渉できるのは天使や悪魔くらいのものだと思っていたが、どうやら僕の知見が浅かったらしい。
こんな黒猫の使い魔でもそんな芸当ができるのか。
まじまじと黒猫を見つめていると、ふいと目を逸らされてしまった。
気難しい性格のようだ。
「ともかく、助けてくださってありがとうございました。良ければ何かお礼を――」
そう言う少女を手で制する。
「僕は足止めをしただけだ。実際に魔獣を倒したのは君なんだから、お礼なんていらないよ」
精一杯、格好つけた言葉を残してその場を去る。
誰かを助けて、名乗ることなく去っていく。これはカルムメリアの王都で有名な物語、『無名の英雄』からの受け売りだ。
それにこの目のこともある。
時間が経ったとはいえ、未だに"煉獄の魔女"を忌避する人間は少なくない。
見ず知らずの少女に余計な恐怖を与えたくはなかった。
森を歩き続ける。
さっきの少女と黒猫には驚いたけれど、もう関わることはないだろう。
道が舗装されているおかげで足取りはまだ軽い。途中の宿駅で駆動馬車に乗れば、明日の夜くらいにはユートラス王国に着けそうだ。
道端に生えている草木を観察しつつ歩く。
こうしていると幼少期を思い出すな。あの頃はよく魔術植物の栽培を行ったものだ。師匠に教わったやり方で薬草を栽培したとき、何故か毒草が生えてきたのを覚えている。山盛りの毒草を師匠に持っていくと、「どんな魔術を使えば薬草の種から毒草ができるんだ!?」と普段は冷静な師匠も流石に慌てていた。
師匠は魔術のことなら何でも知っていた。
曰く、師匠にも魔術の師匠がいたらしい。僕はそれを大師匠と呼んでいた。
大師匠はこの世界に魔術を広めた第一人者なのだそうだ。魔術という学問を広めた開祖。名前は確かソロモンだったか。
リーチェ師匠は自分の他にも、ソロモン大師匠のもとで魔術を教わった人がいると言っていた。運が良ければ旅の道中で出会えるかもしれないな。
そんな風に考え事をしながら歩いている途中、奥の茂みから物音がした。
魔物である可能性を鑑みて後方に下がり、すぐに魔術を発動できるように身構える。
固唾を呑んで茂みを注視していると――。
ガサガサッという音と共に小さい何かが現れた。
それは妖精図鑑で見たことのあるものだった。
ウィルオウィスプ。人の膝丈ほどの身長に、手にしたランタンが特徴的な下級妖精。ウィルオウィスプは青白い光を放つランタンを揺らしながらてくてく歩いて行く。
しかし、どうしてこんな白昼に?
僕が疑問に思っていると、ウィルオウィスプはフードを被った頭をこちらに向けた。しばしの間、僕はウィルオウィスプと見つめ合う。
「何見とるんじゃい!!」
「えっ」
怒られた。
師匠には幾度となく怒られたことがあるけれど、妖精に怒られるのは初めてだ。そもそも声を聞くのだって初めての体験だ。
「おまえ、知らんのか? わしらウィルオウィスプは見た者を惑わす力を持っているんじゃぞ? それをわざわざ凝視するとは何事じゃ!」
彼の言う通り、ウィルオウィスプは墓や森に棲み着いて生者を惑わす鬼火の妖精だと言われている。
その情報はもちろん知っていたが、ここまで堂々と道を横断しておいて見るなとは……。治癒魔術を覚えさせる為に、僕に向けて下位魔術を連発してきた師匠並みの理不尽さだ。
「まったく……、大馬鹿だのう。まぁいい、今回はその馬鹿さ加減に免じて見逃してやるわ。感謝するんじゃぞ」
恩を押し売りして、ウィルオウィスプは去っていった。
一体、何だったんだ……?
突然怒られて勝手に見逃された僕は、急な出来事にしばらくその場で呆然と立ち尽くしていた。
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