第9話 夕ご飯
お風呂から上がって、もう一度家の中に入ると、僕とシロが汚した廊下は綺麗になっていた。
「こっちだよ」
廊下の前にある部屋の真ん中に雪之丞は、立っていた。足元には、お風呂と似た四角いものと、上から伸びる棒状のものが木魚を正中から抜き出ていて、その下に初めて見た黒くて変化な形のものがあった。
それが気になって、雪之丞の隣に立つと、お湯もないのに、足元がほかほかした。
「志水くん、ここに座ると温かいよ」
促されるように、腰を下ろしてみると、全身が温かくなって心地が良い。お風呂も良かったけど、これもいい。
「ボクもいく~」
トタトタと爪の音を鳴らしながら、僕の隣に腰を下ろした。
「シスイ、ほかほかするねぇ~。おひさまみたい」
シロは、ぐで~っと体を伸ばすと、目を閉じた。
どうやら、日向ぼっこと勘違いして、うたた寝をはじめたみたい。いつものようにシロの頭を撫でていくと、だんだん僕も、うとうとしてきた。
ここで眠ってはだめだ、と思っても、眠気には逆らえない。船を漕ぎはじめてしまえば、もう遅い。でも、早く、船を止めなくては。
雪之丞が悪いやつではないのは、わかっている。でも、まだ油断できない。何かが起きてからは遅い。
心の中で呟きながら、重たくなる瞼を上げられなくて目を閉じた。
トントン、トントン。
何かを小刻みに叩くような音が聞こえる。
トントン、トントン。
ブクブク、ブクブク。
小刻みに叩く音と一緒に、水が湧き上がる音が聞こえる。
不意に、魚の匂いが鼻を擽った。シロがまた魚を取ってきたんだろうか。
なんだろう、この匂い。
今まで嗅いだことがない匂いが鼻を擽った。
あれ。今は山の中だよね。日は多分すっかり落ちた気がするのに、どうしてこんなに、ほかほかするんだ。
だんだん、意識がはっきりしてきて、目を開ける。
スピスピと鼻ちょうちんを作りながら、寝ているシロが視界に写った。いつものように頭を撫でると、シロはゆっくり目を開けた。くかぁ~っ、と大きな欠伸をした。
「ねてた」
「そうだね……、僕もだよ」
シロは、顔を上げると折りたたんでいた両足を伸ばして立ち上がった。鼻をヒクヒクと動かして、匂いを嗅いでいるようだ。
「さかなのニオイがする」
起きる前に魚に匂いがしたのを思い出して、辺りを見渡してみる。部屋の中には、魚の匂いが立ち込めているけれど、魚自体はなかった。
「どこからだろう」
シロが、鼻を動かしながら部屋の中を散策して、匂いの元と辿っていく。僕も同じように匂いの元を探そうとした時、シロが部屋の先で立ち止まった。
「シスイ、ここからニオイがする~」
シロの隣に立って、スンと匂いを嗅ぐと、確かに魚の匂いが香っているようだった。家の中でも魚の匂いがすることもあるんだな、と思いながら、部屋の扉を開ける。
開けた途端に、より魚の匂いが強くなって、今まで嗅いだことがない匂いも一緒に、部屋の中に入ってきた。
ぐぅ~っと、思わず腹の虫が鳴いてしまうくらい、匂いに吸い寄せられていた。
「ああ、志水くん、シロくん。起きたんだね」
開けた部屋の向こうには、雪之丞が立っていた。見ると、雪之丞の手元に魚がいた。三匹いるようだけれど、ピクリとも動いていないから死んでいるようだ。
「もうすぐ、ご飯ができるから。もう少し待っていてくれるかい?」
「ごはん……? 今はいらない」
さっきは匂いにつられて腹の虫が鳴ったけれど、まだお腹が空いてはいない。そもそもご飯は、お腹が空いた時だけ食べてきた。お腹が空いていないのに食べるのはどうなんだろう。
心の中ではそう思うけれど、腹の虫は正直なようで、またぐぅ~っと鳴った。慌てて腹を押さえるけれど音が鳴り止む気配はなくて、ぐぅ~、ぐぅ~と二回続けて鳴った。
「ふふふ、口ではいらないって、言っているけれどよっぽど、お腹が空いているんだね」
雪之丞は声に出して笑うと、両手に何かを持ちながらゆっくり部屋の中に入ってきた。
「さぁ、志水くん。ご飯にしよう。こっちにおいで」
雪之丞の後をつくように歩くと、雪之丞はほかほかの四角の前に持っていたものを置いた。目の前の四角よりも、もっと小さな四角だ。その上に丸い形の中に白いものと、泥水みたいなもの、茶色になった魚が置かれていた。
「それ……なに?」
「これは、お膳。この白いは、ご飯。この茶色は、お味噌汁。これが焼いた魚だよ」
目の前に置かれているのは、どれも初めてみるものだった。山では魚を食べていたけど、そのまま食べていた。焼くというのは、聞いたこともないし、一体どういうものなのだろう。
雪之丞は、またお膳を持ってくると、一つは雪之丞の前に置くと、お膳の上に乗っていた魚が乗った皿をシロの前に置いた。
「おいしそ~!」
シロは、目の前の魚を見て目を輝かせていた。よほどお腹が空いているのか、はぐはぐ、と魚に食らいついた。
「おいしい!」
目にも止まらない速さで魚を食べ続けて、あっという間に平らげてしまった。
「うまかったぁ~」
満足と言うように、ペロっと口の周りを舐めると、僕の膝に頭を乗せてまた、スピスピと寝息を立てはじめた。食べ終わって、眠りにつくシロをいつものように、頭を撫でる。
「凄い、あっという間に食べ終わっちゃったね……。びっくりした」
雪之丞は、シロの食べっぷりに驚いたようだった。
「……シロはいつも、こんな感じです」
「そっか。さて、俺たちも食べよう」
「はい」
僕は、焼いた魚を両手で鷲づかみにして、腹の部分から被りつこうとした。すると、急に、魚を持っていられないくらいに手の平が熱くなり出して、投げるようにお膳の上に落としてしまった。落とした魚は、丁度ご飯と味噌汁の間で止まった。
何が起きたのか。よくわからなくて、魚を見つめる。
「志水くん! 大丈夫かい?」
相向かいにいた雪之丞がいつの間にか近くにいて、僕の手を見つめていた。
「あ……、はい」
これが大丈夫で言える事じゃないのは、なんとなくわかるような気がした。
けど、どう返したらいいんだろう。
「そうか……。焼いてから、かなり冷ましたんだけど、足りなかったみたい……。ごめんね」
雪之丞は、僕の手を見たまま変な顔をした。眉が寄って、目がちょっとだけ細くなっている。出会ってから、笑ったり、変な顔をしたりする雪之丞のことが、よくわからない。顔はそんなに変化していくものなのだろうか。
「少し火傷をしてしまったのかもしれないね。今、冷やすものを持ってくるから、待っていて」
雪之丞は指先で僕の手の平を触ると、先の部屋まで駆けていくと、すぐに戻ってきた。
「火傷は冷やすのがいいから、少しだけ両手に濡れた布を巻いていくね」
僕の両手に持ってきた布を、ゆっくりと巻いてくれた。
「これでしばらくは大丈夫だろう」
丁寧に巻いてくれた布を見ると、冷たいはずなのに不思議と温かさを感じる。それを何度も感じる度に、また、ソワソワしてきて落ち着かなくなる。
でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
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