第7話 雪之丞の家
川沿いにずっと真っ直ぐ歩いていくと、雪之丞は立ち止まった。
「さぁ、着いたよ。ここが、僕の家さ」
雪之丞が手で示す方向には、低く小さな木が家全体を取り囲むように植えられていた。低木には白く、小さな花々が咲き誇っていて、花の中に家があるように見えた。
はじめて見る光景で、じーっと眺めていたら、カラカラと聞き慣れない音が聞こえた。見ると、雪之丞は家の敷地に入っているようで、家の扉を開けていた。
「志水くん、シロくん。中へどうぞ」
そう言われても、家の中に入る、というのは初めてで、どうやって入ったらいいんだ。頭を抱えて悩んでいると、微かな笑い声が聞こえた。
「志水くん、こっちにおいで?」
雪之丞、笑みを浮かべながら、長く細い指を折り曲げたり、伸ばしたりして、僕を手招いている。
「シスイ、行ってみよ!」
悩む僕とは違って、シロは颯爽と中へと入っていった。
「あ、待って——」
何も考えずに僕は、追いかけるように雪之丞の家の中に入った。すると、トットッ、と爪の音を立てながら、走り回っている音が聞こえた。オオカミは静かな一面が多いけれど、シロはイヌみたいに新しいものとか、面白いものに目がないから、気が済むまで走ったり飛び跳ねたりする。
山の中なら好きなようにさせるけど、ここは雪之丞が住んでいる家。好きなようにさせちゃいけない。
走る音を頼りに僕も家の中を走ってシロを探していく。見た目と同様に、家の中も広いようで同じところをぐるぐると回りながら、ようやく道の真ん中に佇んでいるシロを見つけた。
「捕まえた」
シロが逃げないように、ぎゅっと、両手でしっかり抱きしめる。
「シロ、あまり暴れちゃだめだよ」
声を掛けるけど、僕の言葉が聞こえていないようだった。何かを捉えたのか、真っ直ぐ廊下の外を見ている。
つられるように外を見ると、複数の小さな木々たちと、地面を覆いつくす草たち。木々たちの下には小さな水たまりがあった。さっき見た川と同じくらい透き通っている水の中には、三匹の赤色の魚が泳いでいた。
シロはきっと、泳いでいる魚に夢中になっているはず。
大人しくさせなくちゃ。
僕は抱きしめる力を少しだけ強める。
ふと、視界の端に、何かが揺れ動いている気がして目を向ける。そこには、赤と白の花びらをした何故か葉っぱがない、不思議な花が、風に揺れてユラユラと動いていた。
その花が気になったからか、長く意識をそこに向けていたらしい。
「志水くん、シロくん。はしゃぎすぎ……! 君たちは泥だけ……、って、わぁあっ!」
雪之丞の驚いた声と、水が弾け飛ぶ音が聞こえて、ハッとした。気が付くと、抱きしめていたシロがいなくなっていた。
まさか、と思いながら水たまりの方を見ると、口に一匹の魚を咥えていた。飛び込んで捕まえたようで、周囲は水浸しになっている。
「シスイ、見て~! さかな、つかまえたよ!」
シロは咥えたまま、尻尾を振りながらトコトコと近づいてきて、座っている僕の前に魚を置いた。魚はまだ生きているようで、ビチビチと尾ひれを動かしてうねっていた。
ここが山の中なら問題はない。けど、雪之丞が住んでいるところにいる魚だ。こんなことをして、雪之丞が何も言わない訳がない。
僕は、シロを見るふりをしながら、こっそり雪之丞を盗み目で見る。
はぁ~、と長い息を吐いてから、言葉を口にした。
「やれやれ。シロくんは、わんぱくだね」と、口元に手を当てながら笑っていた。
僕はその姿を、ぼーっと見つめていた。雪之丞は僕の隣に来て屈むと、うねっている魚をゆっくりと両手で掬い上げた。そのまま、水たまりがある方に歩く。シロが飛び込んだせいで、大分水の量が減ってしまった水たまりの中に、魚を放った。
「返しちゃうの~? せっかくのシスイのごはんなのに~」
シロは雪之丞の行動が気に食わなかったのか、ガウ、と吠えた。
「ごはんなら、あとでちゃんとしたものを用意するからね。それまでの我慢さ」
雪之丞はシロの言葉をまるでわかっているかのように呟くと、シロの頭を撫でた。
「ちぇ~」
雪之丞に撫でられたシロは、唸り声を上げることはなく、不満そうにくぅーん、と鼻を鳴らした。
「まぁ、その前に君たちは泥を落とさないと。少し待っていてね」
雪之丞はそう言い残すと家の奥へと入っていった。その後ろ姿が気になって、僕は目で追っていく。
雪之丞がいなくなると、シロが顔をこすりつけてきた。
「ユキノジョウ、いいやつだね!」
「いい、やつ?」
いい人、なんだろうか。
よくわからない。
だけど、シロを傷つけてきたりしないし、ここまで連れてきてくれた。
「うん! だって、ボクがシスイの為に取ってきたさかなだってこと、わかってたよ!」
「それは、そうだね」
僕はシロを撫でながら、家の中を見渡した。今まで見たことがないもので沢山溢れていて、どこもかしこも、透き通る川と同じで綺麗だ。だけど、僕が通ってきたところを見ると、オオカミの足跡と、人の足跡があって、そこだけが汚れていた。
その足跡は、間違いなくシロと僕のものだ。自分が住んでいる家を汚されたら、罵声の一つや、二つを浴びせるところだ。なのに、雪之丞は罵声とは程遠い言葉を口にして、しかも笑っていた。
こんなことは、今までに一度もなかった。
雪之丞と出会って、まだ一日も経っていない。初めてのことが沢山ありすぎて、頭がいっぱいいっぱいになってきて、どうしたらいいのか分からなくなる。
汚れ一つない雪之丞の家にいると、どうしてか、そわそわして落ち着かなくて。
山に帰りたい。
心の中で呟きながら、シロを両手で抱きしめると、少しずつ気持ちが落ち着いてくる。
すると、奥から雪之丞がやってきた。両手には木で出来た何かを持っていて、落とさないようにと、慎重に歩いている。水たまりの近くに、持っているものをゆっくり置いた。
「ふぅ~、重かった」
額から流れ落ちる水の粒を、雪之丞は手の甲で拭っていた。
置いたものを遠目で見ると、そこには水が入っていた。どうして水なんか持ってきたんだろう、と思っていると。
雪之丞は服の中から布を取り出して、水の中に漬け込んだ。水を吸い込んだ布を両手でねじって絞ると、僕の前にやってきた。
「志水くん、顔が汚れているから、俺が拭いてもいいかな」
雪之丞は首を傾げながら、小さく笑っていた。
どうしてだろう、雪之丞を見るとさっきまであったそわそわが、完全になくなった。
「……いいよ」
本当は触れられるのは嫌だけど、雪之丞ならいいと思ってしまっていた。
「わかった、少し熱いかも。ごめんね」
雪之丞は、布で僕の顔を拭いた。布はひんやりではなくて、ほかほかとしていて心地が良い。シロに毛づくろいをしてもらっているみたいで、なんだか落ち着く。
少しだけ眠気がやってきて、目を閉じる。
「よし、顔はこれで平気かな。大丈夫だった?」
目を開けると、雪之丞は覗き込むように顔を近づけていた。
びっくりして、少しだけ距離を取って、「別に」とだけ答える。
「よし。それなら、志水くんとシロくん。お風呂に行こうか」
「おふろ?」
「おふろ~?」
初めて聞いた言葉で、頭の中でシロの声が木霊した。
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