第6話 江戸の町
「そしたらこの先にある、町へ向かおう」
「わかった」
雪之丞が僕の前を歩きだした。どうやら、道案内してくれるようだ。道を歩くといろんなところに雑草が生えていたり、道自体が少し
昨日の雨のせいで日陰のところは、まだ濡れたままだ。と言っても、山とは違って遮蔽物が少ないから、すぐに乾くだろう。
先頭を歩く雪之丞の背中を、じっと見つめる。今まで自分の前を歩いていたのは、オオカミたちだけだったから、少し不思議な感覚がした。
「志水くん、この道を真っ直ぐ行けば町に着くからね」
少しだけ顔を振り返って教えてくれる。
でも、僕は——。
「知ってる」
小さな声で呟く。町に行くのは、今日が初めてではないから。
雪之丞は、振り返って聞き返すようなそぶりはないから、聞こえなかったんだろう。別に、聞いて欲しいとも思っていないし、好都合だ。
でも、町に着いたら、きっと思い出してしまう。嫌な何かを。
不意に思い出したりしないように、唇を強く噛みしめながら歩いていく。
「シスイ、へいき?」
頭の中で、シロの声が響く。言葉にしたら、雪之丞に聞かれてしまうから、“だいじょうぶ”と口を動かした。シロは、薄く目を細めながら、「わかった」と、返事をした。でも、僕を見つめる目は鋭いままで、逃げるように周りの景色を見渡す。
開けた道に、所々生えている木と、ぽつんと立つ家々。家の数は、奥に進むのにつれてどんどん増えていく。今まで全く
歩いている人たちは同じ方向に進んでいるけれど、その流れに逆らって僕たちは歩いていく。
家は一軒や二軒ぐらいしかなかったのに、いつの間にか、沢山の家々が立ち並んでいた。人の数も、さっきと比べると、あっという間に多くの人で溢れかえっている。町は、あの頃とさして変わりなかった。
「さぁ、着いたよ。ここが、江戸の町さ」
前を歩いていた雪之丞が立ち止まって、景色が見えるようにと、体を横にずらしてくれた。
そこが、江戸の町と言われているのは、初めて知った。町というだけであって、どこもかしこも、人、人、人だらけ。人で溢れていて、気分が悪くなる。
「志水くん。ここは特に人通りが多いから、はぐれないようにしよう」
「……はい」
雪之丞から離れないように、人波に逆らって歩き出す。行き交う人たちは、みんな笑っている。どうしてそんなに笑っているんだろう、と思いながら、少しだけ人々の顔を盗み見た。
そして、すぐに後悔した。
ずっと、忘れていた。
僕みたいなやつが、こんなところにいてはいけないことを——。
「——ねぇ、見てあの子。髪の毛が真っ白よ。気味が悪いねぇ」
「——それに、あの恰好。服は泥だらけで、素足だ。まるで、山の中から降りてきたみてぇじゃねぇか」
「——もしかして、町外れにある山に住んでいるっていう、人斬りなんじゃねぇか? 刀は持ってなさそうだが……」
「——おい、目を合わせるな。災いを招くかもしれねぇ」
「――それにしても、忌まわしい子だねぇ。なんでこんなところにいるだい」
数人の男女が僕をじろじろと見ながら、聞き取れるギリギリの声で、ぼそぼそと呟いて通り過ぎ行く。
誰の話しているのかは、考えなくてもすぐに分かる。
全部、僕のことだから。
雪之丞は、僕の見た目のことを何も言わなかったから、忘れかけていた。
本来、僕はここにいてはいけない人間だ。
そう思うと、急に目の前が真っ暗になってきて、何も見えなくなった。このまま、何も見えないままでいいや。
暗闇に呑まれるように、僕は目を閉じた。
「志水くん、行こう」
暗闇に差し込んでくる光のように、雪之丞の声がはっきり聞こえてきて、目を開けた。少し遠かった雪之丞の背中が近くにあった。
溢れかえる人波に逆らって歩いているのか、行き交う人々は僕たちとは逆向きに、どんどんすれ違っていく。歩いているというより、走っているのに近い感じ。
ふと、足元にいるシロを見ると、やっぱり、小走りだ。きっと、僕の足も小走りになっているんだろうなと思った時、右手の方からぽかぽかと温かいものを感じて、目を向ける。
僕よりも一回り大きな手が僕の手を掴んでいた。この手はまぎれもなく、雪之丞の手だ。雪之丞に手を引いてもらいながら、走っていた。
けど、雪之丞は足が長いから、歩幅を合わせて歩くと、小走りになるし上手く足を動かせなくて、転びそうになる。どうにか、転ばないように意識を集中すると、少しずつ慣れていった。
人通りの多い道から外れた小道に入っていくと、太陽がまだあるのに薄暗く感じた。ひと一人が通るのがやっとな細い道を抜けると、一気に光が差し込んできた。眩しくて、目を細めると、ちゃぷちゃぷ、と水が流れる音が聞こえてきた。徐々に光に慣れていくと、目の前に大きな川が現れた。
そよ風に揺られて、水面が揺れ動いていた。
辺りを見渡すと、葉っぱが落ちて裸になった木や、川の近くにある石には苔と小さな草が生えていた。川向こうには、渡るために道のようなものがかかっていた。
騒がしかった町と比べて、とても静かな場所。
「ここは……?」
雪之丞は、ふーっ、と息を吐くと、僕から手を離した。
「ここは、俺の家の近くだよ。急に手を引いてごめんね、びっくりしたよね」
振り返った雪之丞は、笑っていた。でも、その笑い方は、町の人とは違って見えた。
「さぁ、もうすぐ俺の家だ。ゆっくり、歩こう」
雪之丞は、ゆったりと足を動かした。その後ろを、僕はついて歩く。小さな風が僕と雪之丞の間に吹いた。風が止むと、雪之丞は口を開いた。
「……すまなかった。志水くんに嫌な思いをさせてしまったね」
雪之丞が今どんな顔をしているのかは、分からない。けど、声が震えている気がする。
どうして雪之丞がさっきのことを気にするのだろう。悪いのは、雪之丞じゃなくて、あいつらなのに――。
浮かんだ言葉を飲み込んで、
「……別に、大丈夫」と、だけ呟く。
今まで気に留めた事なんて一度もなかったし、初めてじゃないから、心の中で付け加える。
隣を歩くシロは、クゥ~ン、と喉を鳴らして、「ほんとうに?」と頭の中で問いかけてくる。シロに言って聞かせるように、「そうだよ」と口をパクパクと動かした。
「そうか」
雪之丞は、静かな声で呟いた。
「町には人が多い。志水くんには居心地が悪いかもしれないけれど、ここは人通りがほとんどないから、さっきのようなことは無いと思うんだ。保証はできないけど、どうか安心してほしい」
「わかった」
居心地がいいも、悪いも、僕には関係ないよ、と心の中で付け加えた。
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