第二章 感情とは

第5話 オオカミ達との別れ

 山を外から見ると、見慣れた木々たちを覆いつくすように無数に葉っぱが生い茂っていて、昼間なのに夜みたいに暗く見えた。


「志水くん、どうかしたかい?」


 雪之丞の声が聞こえてきて、振り返る。人と話したことがほとんどなかったから、どう返したらいいんだ。


「山……、見てた」

 頭の中で思いついた言葉を口にしながら、雪之丞を見つめる。

「そっか」とだけ呟くと、目を細めていた。


「山を外から見るのは、初めてなのかな?」

「……うん」と、軽くうなずく。

「町の人たちは、この山が不気味で恐ろしいと言うけれど、俺は凄く神秘的で、厳かな山だなぁと、思うんだ。志水くんには、この山はどう見える?」


 雪之丞の口からは、初めて聞くものばかりで、何を言っているのかさっぱり分からない。どうして、そんなことを聞くんだろう、と思いながら、もう一度山を見上げる。


 木々が風にあおられて揺れ動き、枯れた葉っぱが地面に向かってチラチラと舞いながら落ちていく。いつも見てきた光景で、どうも思わない。


「……別に。特になにも」

 頭の中で浮かんだ言葉をそのまま口にしながら、雪之丞を見ると、眉をひそめて痛み堪えるように、顔が歪んでいた。


 さっきからずっと、雪之丞の顔がコロコロ変わっていて、変だ。そんなに顔って変わるものなのか、と自分の顔をペタペタと触ってみる。でも、いくら触ったところで、水がなければ自分の顔を確認出来ない。そこに気が付いた瞬間。


「ぷっ、ははは!」


 雪之丞が突然、口を開けながら吠え出した。人も吠えるものなんだ、と思いながら見つめる。


 ふと、隣を見たらシロがいないことに気が付いた。どこへ行ったのだろう。キョロキョロと辺りを見渡してみるけれど、姿形も気配も感じられなかった。


 群れに帰ったのだろうか。それもそうだ。シロはオオカミで、僕は人。僕は雪之丞についていくけど、シロも同じようにする必要はない。元々、一緒にいることがありえないのだから。


 頭の中ではわかっているのに、ソワソワして落ち着かない。


「急に笑ってごめんね。志水くんがあまりにも面白いことをしていたから、つい、ね。驚かせてしまったかな?」


 頭上から聞こえてくる雪之丞の声は、落ち着かない気持ちを静めてくれた。足元を見ていた目は、気が付けば雪之丞の顔に向けられていた。何より、初めて聞いた言葉に引っ掛かった。


「笑う……? 笑うって何?」

「ん? ああ、笑うっていうのはね、こうだよ」


 雪之丞は、目を閉じると、口の両端を両指で、にっ、と持ち上げた。すると、さっきも見た不思議な顔に変わった。これが笑うっていうことか。


 なんだろう、笑顔を見ていると胸のあたりが春風を浴びているみたいに温まるような気がした。


 真似したら、もっと温まるかな。雪之丞を真似して口の両端を持ち上げてみる。


「ふふふ、志水くん。もうちょっと笑わないとね」

 少しは笑えているらしいけれど、あまり実感がない。雪之丞が僕の指先に触れた瞬間、雷を打たれたような衝撃が体中を巡って、手を払いのけてしまった。ドクドクと脈打つ心臓がいつもより忙しなく動いていて、走ってもいないのに苦しい。


 何が起きたんだろう、と雪之丞を見ると、笑顔が消えていた。


「ごめん、びっくりさせちゃったよね。もうしないから」


 雪みたいに冷たい顔をしていた。そうさせたのは、きっと僕だ。そうだとわかっても、もう一度雪之丞に笑ってもらう方法なんて、わかりっこない。


 だんだん雪之丞の顔と顔を見合わせるのもできなくなって、足元に目線を落とした。


 ワァオォ~~ン。


 山の中から、オオカミの遠吠えが聞こえた。この遠吠えは、シロだ。山の方を見れば、入り口のところあたりに、シロが佇んでいた。その後ろには、五頭のオオカミ達が顔を出していた。


 もう一度、シロが遠吠えをすると、後ろにいるオオカミたちが答える。幾つもの遠吠えが連なって聞こえる。いつも聞く遠吠えなのに、今はどうしてかずっと聞いていたいと思った。


 シロはオオカミの群れのボス。ボスが遠吠えをやめれば、周りのオオカミたちも遠吠えをやめた。


 そして、オオカミが遠吠えをするのは、狩りをする合図。だから、きっと、シロは僕を食いにくるんだろう。僕は、群れから離れた裏切り者だ。仲間意識が強いから、絶対に裏切り者を見過ごすことはない。


 シロをじっと見つめれば、気づいたようでこっちを見た途端に、シロは駆けだした。


「志水くん、ここは逃げた方が……」

「大丈夫。シロは、きっと僕を狙っているから。見て、真っ直ぐ僕に向かってる」

「なおさら、逃げるんだ!」

 怖い顔をした雪之丞は、僕の手を引いてくれるけど、払いのける。


「志水くん!」

 今度は、雪之丞が吠えた。人はオオカミよりも弱いのに、本気で威嚇をするシロよりも迫力があった。


「……いいんだよ、これで」

 シロとの距離は、あともう少しまで迫っている。もうすぐ僕はあの牙に体を食いちぎられて、無残に死んでいくのだろう。


 痛みに耐えるように目を閉じて、命の終わりを待った。

 けど、その時は来なかった。

 おかしいと思って、うっすらと目を開ける。


「……シロ?」

 いつもと同じように、尻尾を振っていた。


「食べないの?」

「なにが?」

 頭の中でシロの声が響く。


「だって、僕は、群れから外れた。みんなの同意もないのに。はじかれものは食う。それが、君たちでしょ?」

 シロは舌出して、ヘッヘッと息をしている。


「それはそうだけど、シスイにそんなことはしないよ」

「どうして?」

「シスイは、ボクの仲間だよ。はじかれものじゃないよ」

 シロは、足元にすり寄って頬ずりをしてきた。足から伝わる温かさを逃がさないように座り込む。


「シスイは、ユキノジョウについて行くの?」

 その言葉に、首を縦に振る。すると、ぺろっと、僕の顔をひと舐めした。


「じゃあ、ボクもいく! ずっと、いっしょ!」

 ぐりぐりと、シロは僕の肩口に顔を押し付けてきた。


「……だめだよ。君は、群れのボスなんだから、みんなと一緒にいないと」

「へーき! ボスの座はもうゆずったから!」

「譲ったって……」


 山の入り口で佇んでいるオオカミ達に目を向けると、「そうだ」と言うように、先頭にいる子がバウッ、と小さく吠えた。


「だから、ボクたちのことは、しんぱいしないで」


 オオカミ達の言葉が頭の中で響いた。

 どうしてシロたちがそうしたのか、皆目見当もつかない。その理由を考えれば、考えるほどに、本当に、オオカミの群れを抜ける選択肢が良いのか、悪いのかもわからなくなってしまった。


「シスイ、だいじょうぶだよ!」

 シロや、入り口にいるオオカミたちは、まるでの僕の考えを見越したように、尻尾を大きく振っている。


「どうやら、彼らは志水くんの門出を祝ってくれているみたいだよ」

「かどで……?」


 雪之丞が、僕の隣に腰を下ろして、笑った。


「ああ。彼らはきっと感じているんだよ。志水くんが、自分たちとは違う場所に行こうとしていることをさ。それを、彼らも喜んでいる。俺にはそう見えるかな」


 そういうものなのだろうか。


「ユキノジョウは、わかっているね!」と、尻尾を振って、はしゃぐような声が頭の中で響く。


 シロの頭を撫でながら、また考えてしまう。


 そもそも、どうして、あの時。

 手を取りたいと思ってしまったのか。

 雪之丞の手を取ってしまったことは、正解だったのか。


 僕は、これでいいのか。


「シスイ、行こう!」

 ぺろぺろと、シロが僕の顔を何度も舐める。群れの中で一番警戒心が強いシロが、ここまで言うのなら、選択は間違ってはいないかもしれない。


「うん、行こう。シロ」

 撫でる手をやめて、立ち上がると、視界の端にいる雪之丞も立ったのが見えた。


 僕は、山の入り口にいるオオカミに目を向ける。ゆっくり息を鼻から吸って、口から吐く。


 行ってくるという気持ちを込めて、アオーンと遠吠えをしてみた。するとオオカミ達は、それに答えてくれた。


 アオォ~~ン。


 いくつもの遠吠えに耳を傾けながら、背を向けて足を動かした。

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