第7話 優しい人

 最初の仕事の翌日。慎は、再び退屈な日常に戻っていた。


 レイメイ曰く、バランサーは仕事の時間以外は生前と同じ日常を過ごすことが許されるらしい。普通の人間からバランサーの姿形を覆い隠すあの黒い靄も、ミソギの機能で解除してくれるという。とは言っても、戦闘時は機密保持のために戻されるようだが。


『機密保持といえば……自分がバランサーであるということ含め、バランサーの情報を生きている人間に漏らしてはならない。これを破れば、即消滅刑が執行される』


 もう一つ、レイメイが釘を刺してきたのがこれだ。たとえ近しい者であろうとも、自分がバランサーであることを知らせてはならない。知られてはいけない。

 しかし、慎からすればそれらのことはどうでも良かった。ぼんやりと席につき、昨晩のことを考える。


 春との落下。レイメイと、バランサーたちとの出会い。関本の死。そして――


「二千三百と八日、か……」

「二千三百日? 何のことだ?」


 いつの間にか傍にいた藤山に声をかけられ、慎は椅子から飛びあがりそうになった。というか実際にちょっと飛んだ。


「なんでもない。こっちの話」


 念のため藤山に見えないようミソギを確認するが、特に警告などは出ていない。どうやら今のはセーフだったらしい。


「えーなんだよ、水臭いな教えろよー」

「近い」


 慎自身は特に仲がいいつもりもないのに、やたら距離が近い藤山の顔を押しのける。そこへ、教室のドアの方から「加賀君、ちょっといい?」と声を掛けられる。

 振り向くと春がドアの向こうでちょいちょいと手招きをしていた。


「ごめん藤山、ちょっと出てくる」

「は? おい、お前、そのおなごは誰だ! キサマまさか……!」


 何やらうるさい藤山の声を無視して、慎は春に連れられ教室を出た。


  *


 二人がやってきたのは、全ての始まりの場所である奥宮高校の屋上だった。

 屋上のドアを閉めると、春が上目遣いでこちらを見つめながら口を開いた。


「昨日の、さ……。夢じゃ、ないんだよね」

「ああ。俺も覚えてる」


 慎は頷き、床に腰を下ろした。流石に以前のように屋上の縁に腰かける気にはなれない。


「そっか。……あんた、結局何やらかしてあんな刑期を課せられたの?」


 そう言いつつ、春も慎の隣に腰を下ろす。慎は空を見上げて「知らないよ」と答えた。


「昨日も言っただろ。俺は人殺しなんてした覚えもない。ただ、平凡に生活してただけだ」


 ただ。慎は右手で自分の目の周りにそっと触れた。他の人間と違うところがあるとするなら、この能力。もしかしたら、慎の長すぎる懲役と何か関係があるのだろうか。

 春は黙り込んだ慎を見て少しだけ自嘲気味に笑い、膝に顔を埋めた。


「だよね。加賀君、殺人なんて犯す人には見えないもん」

「そういう斑鳩は、心当たりがあるのか?」


 慎が尋ねると、しばらくの沈黙が下りた。あと五分で朝礼のチャイムが鳴る、というところで、春はようやく喋り始めた。恐る恐る、それでいて誰かを嘲るように。


「……あたしね、目の前で弟を亡くしたの」


 そこへ提示された突然のカミングアウトに、慎は驚かなかった。


「それは、ご愁傷様……って言えばいいのかな」

「あはは、やっぱり全然動じないね。そういう反応の方が話しやすくていいや」


 ゆっくりと、春は膝から顔を上げた。


「可愛い弟だった。お姉ちゃん、お姉ちゃん、ってずっとあたしの後ろをついてきて。あたしが高校受験で参ってる時なんかは、自分も野球部の練習で疲れてるはずなのに、夜遅くまで起きて夜食を作っててくれた」


 今にも切れそうな糸を手繰るように、そっと紡がれる春の記憶。

 家族との温かい思い出など記憶にない慎は、ただ黙ってそれを聞いていた。


「あたしが受験に受かって、家族みんなでお祝いのご飯に出かけた日。弟は、楽しそうにあたしの前を走ってた」


 その時のことを、春は淡々と語った。

 信号は確かに青だった。だけど、そのエンジン音は止まらなくて。


「あたしには見えてた。横断歩道に踏み出すあの子も、スピードを緩めないトラックも」


 声の一つでもかけられていたら、運命は違ったかもしれない。

 だが、咄嗟のことで春の声帯は言うことを聞いてくれなかった。弟が危ない、という危機感と鉄の塊が突っ込んできている恐怖が、彼女をがんじがらめにしていた。

 その結果、声をかけることも手を引いて救い出すこともかなわず、弟は――


「あの時あたしがちゃんと動けていたら、あいつは死なずに済んだかもしれない。もう二度と、あたしは救える命を取りこぼしたくないの」


 だからか、と慎は納得した。

 この屋上で、赤の他人である慎をあんなに必死に救おうとして、そのせいで自分の命が危険にさらされてもバランサーにさせられても、恨み言一つ吐かなくて。

 それらはすべて、目の前で弟を失った経験と自責の念に裏打ちされたものだったのだ。


 だけど、それで慎や他の人たちを救って、春には何の得があるのだろう。

 納得はしたが、理解はできない。助けられたところで慎はそれを望んでなどいないし、返せるものだって何もない。慎が生きていて春の人生が豊かになることもない。ないないづくしに命を懸けられる彼女のことが、わからない。


「君のつらい経験はわかった。だけど、それでどうして他の人を助けたくなるんだ?」


 わからないので訊いてみたら、春は困ったように笑った。


「ただのあたしのエゴだよ。……なんて偉そうなこと言っといて、結局関本さんを救えなかったけどね。あたしはまだ、何も変われてないんだ。ままならないね、人って。生きたいと思っているからこそ、恐怖で足がすくんじゃうなんて」


 目を伏せた春に、慎は思わず言った。


「彼が死んだのは君のせいじゃない。弟さんもだ」


 春の背負った罪が、救えたはずの弟を救えなかった――弟の死を防げなかった、ということなのであれば。それはあまりにも理不尽だ。


 この国において、「人の死を招いたことがある」「そのうえで死んだ」というバランサーの要件を満たす人間が少ないからこその、強引な解釈なのか。とにかく、この快活で真面目な少女を凄惨な戦いに投げ込むほどの罪になるとは思えない。


 普段よりほんの少し強い語気に驚いて顔を上げた春は、眉を下げてへにゃりと破顔した。


「ありがと。優しいんだね、あんた。……そういうあんたこそ、なんであたしを助けたり、関本さんが危ない時に真っ先に飛び出していったりしたの? てっきり見捨ててもおかしくないぐらいに思ってたのに」

「俺は確かに、自分がいつ死んだっていいと思ってる。だけど俺以外の人がそうじゃない、ってことも理解してるから。自分の信条を人に押し付ける気はないし、なれるなら『死にたくない』と思ってる人の代わりになった方が良いだろ」


 面倒臭そうに言う慎を見て、春はフッと笑った。視界の端に少しだけ映ったその笑顔が、慎には何故だかとても綺麗なものに見えて。

 気付かれないように、視界から彼女を外した。


「やっぱりあんた、変。……でも、優しい人」

「自分勝手なだけだよ」


 慎が敢えてぶっきらぼうに言ってみても、春はめげなかった。


「ううん、とっても優しいよ! 決めた! あたしは自分の刑期を清算して、日常に帰る。その時は絶対、あんたも一緒に戻したるからね!」

「俺のことは気にしなくていいって……第一、君がバランサーになってしまったのは俺にも原因があるんだぞ」


 うんざりしたように言う慎の何が面白いのか、春は楽しそうにけらけらと笑った。

その笑い声がとても心地よくて、そんな自分が理解できない慎はせめてもの抵抗にぶんぶんと首を横に振った。どうも春には調子を狂わされる。

 慎は自分のペースを崩される前にと、尻をはらいながら立ち上がった。


「とにかく、俺は別に解放されようだなんて思わない。俺が死んだって、この世界は何事もなく回り続けるんだから」

「はいはい。でも、なるべく最後まで足掻いてよね」


 軽口で返され、慎はため息をつきながら屋上を出た。


  *


 次の仕事の知らせが入ったのは、それから二日後のことだった。

 ミソギのディスプレイに浮かぶ「ラルヴァ出現警報」の文字を見て、ついに来たかと慎は自室で嘆息する。


 ミソギによる転送まではまだ時間がある。その間に慎は白のワイシャツと黒のチノパンに着替え、その上から紺色のチェスターコートを羽織る。この装いなら懐に武器も忍ばせやすいだろう。


 しばらくして転送が始まり、慎の視界が白に染まる。脳裏に浮かんだのは、屋上で交わした春との会話だった。


『ままならないね、人って。生きたいと思っているからこそ、恐怖で足がすくんじゃうなんて』


 慎に死への恐怖はない。だから、何が起ころうと冷静でいられる。それは、命が懸かったバランサーの仕事においては大きな強みになる。


『もう二度と、あたしは救える命を取りこぼしたくないの』


 そのうえでこの信条や能力が役に立つのなら――それもいいな、と慎はおぼろげに思った。

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