第4話【この世界のこと】

 刃というものは

 用途によってここまで姿を変え得るのかと愕然とする。

 平常に生きていて知る姿というものは、まるで飼いならされた犬のように大人しく、従順な様に過ぎなかったのだ。他者から向けられる刃というものは──ここまで冷たく、強大に見えるものなのか。

 反射する光すら威力を持つようで、目を合わせることも叶わない。

 私は刃の主を見た。

 灰色の瞳が、薄雲を裂く月のように燃える。

 時間がこの一点に、圧倒的なほどに集中していた。自分が生き残る術を探し出すために頭の全てを回転させる。動き、騒ぐ目玉。遠くの風音まで轟と響いて傷になる。冬の朝のように鼻が鳴った。

 しかしその全ての緊張を断ち切るように

「なんてねえ」

 彼の視線はどろりと溶けた。刃は放つ光ごと、再び鞘に納められた。

「冗談だよ、本気にしてくれるな。ある程度のことは冗談で流せないと人生って重いよ?」

 そういうことは冗談を言った側が言うことではない。

 柔和な輪郭の言葉に、しかし息は吐けない。骨の芯から伝染した震えがあらゆる平和な思考を塗り潰してゆく。黙ったままでいれば圧し潰されるという確信があった。握り込んだ拳の中で爪を立てて、吠える。

「冗談と本気の区別くらいつきます」

「そっか。なら安心だ」

 なんとか吐き出した渾身の一滴は、しかしまるで微風のように容易に流される。

 そう、そんな単純な区別などついている。

 彼の納めた切っ先が、真に私を裂こうとしていたことなど理解している。

 今平然と背中を見せているこの人は、本当に私を殺そうとしていた。 

「歩きながら話そう。教えてあげるよ、この世界のことを」

 そうして何でもない事のように。慣れているかのように。

 彼は了承も得ずに歩き出した。



 私と彼が初めに訪れたのは町の入り口から東の方向(太陽の方角からしておそらく東である)にしばらく歩いた先にある、広大な森だった。恐らく向こうの山の麓まで広がっているであろうそれには、林檎の美しさを凝縮したような果実が鈴なりになっている。葉が黒いこと、森全体が暗いことも相まって、まるで暗幕に灯る宝石のように輝いている。

 彼は慣れた手つきで果実をもぎ取ると、手の中でくるくると弄んだ。

「この木の実、美味そうでしょ。種も無いから喰いやすそうだ。でも残念、味は超まずい。噛めば噛むほどまずい。しかも毒があってそのまま食ったら七日は立ち上がれない。だから誰も食わない」

 彼は両手で果実を掴むと半割にした。断面からは、喉が渇くくらいに透明な水が止めどなく流れ出る。

 こんこんと、涙のように流れ出る水分は明らかに果実の質量よりも多いように思われた。少しして滴も出なくなると、果実は萎み枯れ葉のように砕けた。

「この通り。めちゃくちゃに水を吸いまくるから土地の栄養が全部無くなる。種が無いのは、この樹が果実をただの貯水タンクくらいにしか思ってないからだ。存在してるだけで損にしかならない最悪の樹。【嘆きの実】【魔女の樹】なんて呼ばれてる。んで次が面白ポイントなんだけど」

 彼は樹の幹をノックする。

「この植物はね。どうも二十年前にいきなり現れたらしい」

 私は辺りを見渡した。延々と続くこの樹の全てが、たった二十年で生育したものだとは思えなかった。

「こういうことは割とある。魔物とか呪いとか、そういうどうしようもない災厄が唐突にこの世界に舞い降りる。そして対抗策が出来るまで、人類は一方的に蹂躙されるだけだ」

 語りながら、彼は次々と果実をもぎ取っては地面に放り投げた。そして踏み潰すと、中身の水分が爆ぜて飛び散った。

「昔の人は必死に理由を探した。何故友人は死んだのか、何故親が狂ってしまったのか、何故子どもが早死にするのか。理由が欲しかったんだ、納得に足る理由がね。そうでもしなきゃやってられなかった」

 一心不乱に砕いた果実の破片が無残に風化していても、彼の語り口は変わらない。木々が風を遮り、動物も居付かないこの場所は、不自由なくらいに静寂だった。毒の花粉の幻覚に刺されて喉が痛んだ。

「君たちの世界にもいたかはわからないけれど、ここには何の役にも立たないフィロソフィーを頑張って研究してる学者がいてね。昔……二百年くらい前かな。偉い哲学者がこんなことを言った。要約すると、」

 飛沫を上げて崩れてゆく果実を冷酷な瞳で見下したまま、仮面の下で唇が詩う。

「『神はこの世界にゴミを捨てている』」

 辺りは小さな池のようになっていた。土がまるで水を吸わないのだ。失くしてしまった水分が久し過ぎて、受け入れられないかのように土は撥水している。ああ土地が死ぬとはこういう意味なのだと言外に理解させられた。

「俺は信じてない。この世界に来るものにはみんな意味があるって教えてもらったからね。ただ……他の人はそうじゃない。だってそうだろう、この世界には災厄が多すぎる」

 彼は潰し損ねていた最後の一つを踏みにじると、ようやく顔を上げた。

「触れれば自我を失う屍の呪い。土地を殺す魔女の樹。骨花。火喰い病。激情を食う羽虫。真実の悪魔。混命の呪い。挙げればキリが無い」

 指折り数えて、最後にその手は虚空を握り潰した。

「そして何より最悪なのは──こんなものを持ち込む支配神」

 拳の圧力は不動だった。怒りに似た赤黒い感情が彼の神経を逆立てていた。

 軽い物がぶつかり合う音が聴こえる。

「この世界のほとんどの人は災厄を忌避してる。君がなんでこっちに来たのかはわからないけれども、知られたら碌な目に遭わないよ」

 腐肉の揺れる臭いがする。

 死の気配が息を吐く。

「例えば──」

「後っ……ろ」

 災厄の一つは剥き出しの彼の首をめがけて腕を振るった。遠心力任せで、しかし自らの痛覚を加味しない一撃は、大きな威力となって襲い掛かる。粘性を伴った破壊音が響いて、彼の首に打撃が入った。勿論彼もただ大人しくしていたわけではない、彼はもまた自らの武器を振るい、屍の頭部を横断した。

 ただし、私の背後の者を。

 続いて自らに危害を加えた者を切り捨てた。

 私の頭の中は真っ白に砕け散った。あらゆる安堵がまるで下らない呼吸に過ぎないように感ぜられて、浅く、短く千切れてゆく。屍の呪いは触れるだけで感染する。彼のその首には確かに腐肉と乾いた血が付着してしまっていて、それは即ち、嗚呼。今直ぐにそれを取り払えば呪いは止まるのだろうか? 対処方法は、治療法は? 私はこの世界のことを何も知らない。

 無力が足元から這い上がり、心臓に貼り巡る。

 急激に体温が低下してゆくのがわかった。同時に論理的な思考が出来なくなっていって、世界は即物的な感情に満たされてゆく──

 だが、私の狼狽とはまるで異なって、

 彼は最期の屍を斬り捌いた。

 立てなくなった私の服に、土地の涙が沁みてゆく。膝の震えが止まらないのは、その冷たさ故ではなかった。理解できないものが──平然と立っていたからだ。彼は最後の死体が水に浸からないように蹴り飛ばすと、やっと私を見た。

「邪魔が入ったね」

 左目が笑う。

 彼は打ち付けられた首に手を添えて、何度か回してみせた。するともう何でもなかったかのように、私と同じ目線で膝を突く。

 恐ろしい存在がいた。

「この世界で気を抜くと酷い目に遭う。例えば……首から上だけ死んじまって、誰とも触れ合えずに化け物を切る暇人になるとかね」

 彼は右の人差し指で仮面を叩く。無機質な音は、閉鎖されたこの矮小なる空間に、下品な程に響き渡った。

 そして左の手は剣に添えて離さない。

「気を付けなよ。世界は──広い。無駄にね」





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