第3話【突き出した拳】
学ランの青年は完全に寝こけていた。顔の前で手を振ってみても柏手を打っても起きる様子はまるで無い。
『触らない方がいいよ』
彼の言葉が頭の中で何度も反響して出てゆかない。きっと理由があるのだろう。潔癖症なのかもしれないし、何か私の知らないこちらの世界の常識があるのかもしれない。
ただ、私は彼と話さなければならないと確信していた。
恐る恐ると伸ばす手が、肩に触れそうになった瞬間。
するりと流水のように避けて、彼は目を開けた。
「あっぶねえなぁ……」
「やっぱり、起きてるじゃないですか」
「あんだけ喧しくされたらそりゃね」
仮面越しの欠伸を手で押さえて、彼は立ち上がる。私よりも頭半分くらい背が高かった。ひどい猫背だったから、本当はもう少しスマートなのかもしれないが、今はどうにも出不精の引きこもりにしか見えない。こんな平原を背景にそんなオーラを醸し出せるのだから恐ろしいものである。
「失礼なこと考えてない?」
「すみません」
「考えてたんだぁ……そっかあ」
左目が細くなる。
「そっ……かあ……」
結構傷付いているようにも見えた。猫背が一層酷くなる。
「まあいいや。よくあることだし」
「よくあるんですか」
「そこ深堀しなくてよくねーか」
気を悪くされたかとも思ったけれども、彼はケタケタ軽く笑う。不自然な音程を奏でながら体を伸ばすと、ようやく視線は真っ直ぐに繋がった。
「君が此処に来た理由が……うん、多分あるんだろうね。勿体ない」
彼の目は眩しさを堪えるように細くなったままだった。私にはそれが同情に見えて、煮え切らない気分になる。
「やらなきゃならないことがあるんです」
その感情は憤りに似ていた。目元が不快な方向へ歪む。自分をコントロールできていない感覚があった。
私はまるで彼を睨みつけて言い放つ。
「だったらやらなきゃ……今までの全部嘘になる」
「堅苦しいねえ、まだ若いのに。まあそういう万有たる蛮勇を応援するのも大人の仕事なの……かな? そもそも俺って大人なのかーとか言い出したらめんどいけどね」
何事か薄い理屈を吐き出して、彼は自分の顔に指をさす。
「どう? 幾つくらいに見える?」
最高にめんどくさい質問だった。どちらに寄っても人に依る。
そもそも顔面の殆どを仮面で覆っておいてする質問ではない。
「仮面取ったらわかるかもしれないですね」
「それは無理ー」
へらへら揺れる。
アレ、だるくないかこの人。
そんな意識というものは、一度出てきてしまうと、もう無視はできないものだ。
身を引く動作は心得ていた。なるべく音をたてないように、そして視線は縫い付ける針のように刺したままにすることが、円滑に人間関係を断つ動作である。
「まあ待て。路銀もなく装備もなく、どうやって何を探すと言うのだ」
そしてこれは相手が空気を読んでくれる場合に限定される手法であって、例えばこういう人には中々通じなかったりする。
「それは……」
「君が世間知らずの修道女なのはわかったし、君が一人でなんとかしたいと思ってるのもわかる。覚悟も気持ちもわかるつもりだ。ただ──こうしてすれ違ってしまったんだから、お節介な心配くらいさせてくれ」
身軽さを気持ち悪いほど活かして退路に回り込んだ不審者は、しかし言うことばかりは正しいものだった。
「君はこの世界でどう生きる?」
気持ちばかりが高ぶって失敗したとして──コンティニューは残されていない。人間は一機を大切に生きている。だから一期は一会なのだ。
目の前に道は多数用意されている。
しかし、それが自分の望む場所へ続くかはわからない。
自然瞑っていた瞼を開ける。俯いていた顔を上げる。
彼の目は片目だったけれども、どうにも──信用したくなる目をしていた。黒の上に灰色を重ねてしまったかのような、どちらであるとも決めきれない臆病な瞳。けれどもそれは、俯瞰して世界を見ることを強いられたヒビの入った石にも見えた。
「私は」
私はこの世界でどう生きるのか。
見知った常識も学んだ理屈も通じない世界で、改めて自己を再構築する必要があるとして──私はどうなりたい? 何ができるようになりたい?
生き物は成長して変わってゆく。私も空っぽの赤ん坊の状態から少しずつ周りの温度に触れて、自分の形を整えてきた。
けれどもなんだか、今は虫のような気持ちだった。
一度蛹の中で完全に溶けてしまってから、少しずつ自分を作ってゆく。羽を伸ばして生きられるようにと願いながら、夢現の世界で光を望む。
別の世界に落とされて、どうしようもなくなって、死にかけて。けれどもそれは確かに特別なきっかけであって──普通の生き方をしていては絶対に与えられないやり直しの機会でもあるはずだ。
それでも今までを意固地に求めるほどに……私は
元の世界で幸福だったか?
「私は」
「うん」
「この世界の神様を殴ります」
「最高」
サムズアップにはサムズアップで返せと習ったから、私たちはこの瞬間一つの印に結ばれた反逆の同盟だった。
嗚呼何度思い返しても。どれだけ露骨に振り返っても。
あの輝かしい日々は──絶対に譲れない、掛け替えのない生だった。
私は絶対に元の世界に帰る。そして、神様の腹に一発くれてやるまで死なない。おちおち死んではいられない。
「でも俺以外に言っちゃ駄目だよ。そんなこと言うシスターがいて堪るかってもんだから」
「……気を付けます」
それから少しの間、誰も喋ろうとはしなかった。
私はこの世界での初めての真っ当な交流に、何処か胸が熱くなっていた。言葉で言い表しては陳腐になってしまう、何処か友情に近い距離感の感動が募って、目を開いているだけで精いっぱいだった。今、何かを語ろうとすれば、きっと甘えた台詞が零れるとわかっていたから、私は何も言えない。そして彼もまた、そんな私を見かねてか、口元は仮面に隠したままだった。
二度救われたと考えてしまうのは、少々驕っているだろうか?
穏やかな風が草木の隙間をなぞって去ってゆく。広い世界は、もっとずっと広くなったように感じられたし、見るべきものを知ったからか、視界は少しだけ集光してゆく。
彼は放り出した剣を拾った。
「一つ質問に答えて欲しい。言いたくないなら言わなくてもいいけれど、大事なことだ。出来るだけ答えて欲しい」
「はい」
自分でも驚くほど素直な返事が出た。
そして流るる清水のように、彼の言葉は芯まで響く。
「別の世界から来たのかな?」
「はい」
「そっか。じゃあ殺しとくか」
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