第2話【終わりかけの世界】

 命火を切って走った。

 鋭く吸い込んだ息は喉を冷たく焼いて、鉄の味が滲む。肺からこみ上げるぬるい空気が吐き気を呼ぶ。明確な苦痛がそこにあって、しかし立ち止まる訳には行かない。

 死が目前に迫っているくせに立ち止まれるほど、私は老いぼれちゃいない。

 野草に覆われた平野は先日の雨を吸い込んでぬかるんでいた。手招きする水分に取られた足を無理やり持ち上げて、不格好に走る。

 帰るべき場所がある。帰りたい場所がある。

 殴りたい奴がいる。

 こんな終わりかけの世界へ私を堕とした神様の腹に一発くれてやるまで、私は死ぬわけにはいかないのだ──!

 しかし

 どれだけ気を張っても。どれだけ魂が前を向いていようとも。

 肉体の限界というものは存在していて──

 一瞬のうちに視界が大きくブレた。すわ落とし穴かと視線を降ろしてみれば、笑ったまま立ち上がってくれない脚が、朽ちた古木のように倒れていた。絶望よりも先に怒りが湧いて、動けと叫んで殴り付ける。

 感覚は無い。

 痛みすら無い。

 背後から死が迫って来る。呼吸が短く、浅く繰り返す。

 生臭い腐臭と動物のような鳴き声。手を伸ばす理由はなに故か、きっと彼らもわかっていない。人は本能で人を求めるのだろう。例え彼らが既に死んでいたとしても──

 仲間が欲しいのか、血の巡る肉が羨ましいのか。腐肉を纏った骨が八体、縋るように迫る。

 動かない脚を置き去りに匍匐前進で足掻いた。泥と砂に塗れて、肌に刺さった小石が血を流す。取り逃さないように、余すことなどないように、口で大きく息を吸って、吐く。乾燥した舌は泥と苦渋が沁みていた。瞼に入り込んだ砂が擦れて止めどなく涙が零れた。痛みで涙が止まらないのか、それとも、なのか。誰よりも自覚的であるべきの自分すら、滲んだ目では見定められない。

 崩れてゆく視界と朦朧とする意識は、私の終わりを予見していた。

 遂に一歩も動けなくなって、無様に転がる。最期の時が目前に迫った時、人は一体何を望むだろう? 私は必死に考えた。この世界は何物なのか、どうして此処に落ちてきてしまったのか、前後も左右も不明瞭で、しかしただ一つ明確に理解できていたのは、自分に残された時間は──最早少ないということ。

 最期に空が見たかった。

 終わりかけの世界の空は、元いた世界と全く同じ蒼穹の様相を呈していた。『傲慢だ』。口の中で呟く。誰にも聴かせる必要は無いからだ。

 生ける屍の跋扈する世界。

 死が終わりではなく、安寧の国の無い世界。彼らに触れられた者は、同じく動き続ける屍となって、永遠の旅路の中で自分の肉体を朽ちさせてゆく。嗚呼此処で私は死ぬのだろう。彼らに触れられて、同じく腐って誰かを襲うのだ。眼前に広がっていたはずの全ての希望と活路を毟り取られて、惨めに誰かの敵になる。

 腐肉が迫る。

 土と草木を棺にして、私という人間は──今。死んだ。


 この世界に神はいない。少なくとも、まともな奴はいない。

 だから彼が私を助けたのは、気まぐれか、それとも運命の輪が偶々噛み合ってしまったのか、神すら知らずに時計の針は進む。

 眩む視界の端に現れた【誰か】の脚は、溺れる者の元へ堕とされた一本の藁のように思われた。だから苦しくて仕方がない私は手を伸ばして──

 ひょいと、避けられた。

「触らない方がいいよ」

 飄々と笑う。けれども微塵たりとも楽しそうではない。その笑みは些細な儀式だった。自らの背負う青い感情に見切りを付けるための、簡単な理。

 彼の口元は不格好な仮面に覆われていたから、その表情を見ることは叶わなかった。左目と鼻以外を隠す割れた白い仮面は機能性などまるで感じない。だからきっと、そんな仮面は譲れないものの為に被ったのだ。

 彼は鞘から剣を抜いた。

 傾けて、日に溶けて。薄氷の剣はその身を消した。


 そこから先はどうも覚えていない。

 確かなことは、私が今も生きていること。そしてそこに付随する事実は、彼が屍の飛沫さえ私に触れさせずにアレらを撃退したこと。彼が私を近くの町まで運んでくれたこと。

『触らない方がいいよ』と言われて、けれども確かに運んでくれたのだ。

 触らない方がいい、とはどういう意味だ?

 この終わりかけの世界において触れてはいけないものは、火と刃と毒と──

 完璧な解答が浮かんで、しかしそれで笑えるほど私は愚かじゃない。

 訊かなければならないことがある。貴方は誰ですか? どうして助けてくれたのですか? どうして貴方に触れてはならないのですか? 貴方の故郷は何処ですか?

 私は教会で拾った数枚の白紙を取り出した。文明が進んでいないからか、色は黄ばんで紙質は荒かったけれども、志を書き記すにはむしろ似合うように思えた。

 私の目標、その1

【元の世界に帰る】

 その2

【神を殴る】

 その3

【人を探す】

 書き記して日差しに透かして、それで満足してはいられない。

「ありがとうございました。神のご加護を」

 言って頭を下げると宿屋の婦人もまた頭を下げる。どうも、この町にはまだ大きな宗教は根差していないらしい。この世界に溶け込むために教会の箪笥から拝借した修道女服は、彼らの警戒心を大きく解してくれた。……二礼二拍ってやったら流石に怪しまれるだろうか。ちょっと試してみたいけど、言葉が通じるだけに逆に怖い。

 手足の傷もすっかり癒えて、適当な準備体操をする。アキレス腱の痺れが、私に歩けることを教えてくれた。

 最後に靴ひもを結び直すと扉を押した。

 現代日本とはまるで異なる風の吹く空間が、ずっと遠くまで続いていた。つい挙動不審になる。セピア系の色を主にした、無理におしゃれにしない町。こういう空気はなんだか好きで、旅行に来たような気分に一瞬陥った。けれどもはっと頬を叩く。

 帰るべき場所がある。帰りたい場所がある。

 殴りたい奴がいる。

 会いたい人がいる。

 だったら──歩みを止める訳にはいかない。


 怪しまれないように、急いでいない風を演出しながら町の門まで向かう。野生動物や屍の侵入を防ぐための門は鉄のような鈍色の鉱石で出来ていた。荷物の搬入のためであろうか、五メートルほどの高さがあって、開ける際には門番に声を掛ける必要があるらしい。だから息を吸って、

 ──そのまま吐いた。

 緊張に喉も体も震えて、止まってくれない。

 また屍の跋扈する大地に出なければならない、また命の危機に晒されなければならない。今度は誰かが助けてくれるなんて、そんな保証は無い。だが──

「あの!」

 私は大声で呼びかけた。声ばかりは死者をも起こすような気持で、きっと人生で一番覚悟を込めて叫んだ。腹と、足の底に満身の力を込めた。九死の中に一生がある。だったら私の人生を取り戻す為に、何度でも

 向き合ってやる──!

 少し間が空いて

 閂の外れる音が響いた。自分で開けろということなのだろう。恐る恐ると力を込めると、案外簡単に門が開く。

 息を呑んだ。

 頭の中まで全部染め上げてしまうような燃える緑が、一つのランドスケープを構成していた。

 ずっと遠くの森まで、永遠に草原が続く。現代日本では絶対に見られない光景。息を呑んで、青くて猛々しい草木の薫りが昂って、

 けれどもその全てを塗り潰して、彼がいた。

 町を囲む壁にもたれ掛かって呑気に昼寝をする彼は、自らの愛刀を適当にその辺に放り投げて眠っていた。あの時の格好良さは何処で捨てたのやら、重力に従ってうつらうつらと傾く彼は随分間抜けに見えた。

 そして衝撃はそれだけではない。

 彼の服装には見覚えがあった。明らかに知っているものだった。

 この生ける屍の跋扈する世界には到底似合わない、別の世界の代物。首元までキッチリと襟が立ち、金のボタンは宵の明星のように黒地に映える。

 学ランを来た青年は、仮面の内で目を覚ました。

  




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