第5話 WILDFLOWER
あれから時計はぐるりと2周回り、地球時間の24時間が経過したことを示している。
コウはあれから一度、見張りをルールに任せ、睡眠をとっている。
潜水艇に積載した弁当と保存食はコウ1人に対し3日分。ルールの身体は口腔からの有機物の摂取を必要としないため、
先ほど、4度目の食事を終え、残りは細かくわけてもせいぜい2日分。
2人はヘルメットを外し潜水服を緩めた姿で、聞くともなく、セツの最後の録音を聞いていた。
話し相手がいる分かなりマシとは言え、日の光を見ないままこの不安な状況を漫然と過ごすことは、2人にとってはかなりストレスのかかることだった。
暇を潰すため、仕方なく互いにくだらないクイズを出し合ったり、ここから出たらなにをしたいだの、まじめに老後の資産運用の計算をしたり、セツの残した録音を聞きなおしたりと、この狭い空間でできるあらゆる対話を試みた。
コウに至っては、幼少期の思い出まで話したが、これだけの時間を費やしても、状況の変化はない。
「……まだイカの気配はあるようですね」
現在、カメラを乗せた小型の無人調査艇を切り離し、周辺を探らせている状態だ。
時折、カメラにはイカの影が映り込む。触腕の端であったり、本体の巨大な影であったりとその時によってまちまちだが、どうやらこの潜水艇の付近を周回しているらしいことだけはわかった。
コウが、ルールの後ろからモニターをのぞき込む。
「ずいぶんねばるな。前回とは動きが違う……別個体ということか、それとも単に獲物を取り損ねて必死になってるのか。ここに俺たちがいるとわかってるのか……?」
「だとしたら、すぐに触腕を突っ込んできてもよさそうなものです。回遊しているのは、私たちを見失っているからですよね?」
「念のため、潜水艇のライトは消してある。むしろ無人調査艇はライトをつけて飛び回っているというのに、イカの方はほぼ反応していないな」
「光で見ている訳ではないのかもしれませんね……そもそもこの冥海に、光が差し込むこともない訳だし、視覚は退化しているのかも」
「視覚で認知しないとしたら……」
――聴覚。
二人が気づいた瞬間に、ちょうど潜水艇の傍に戻そうとしていた無人調査艇が、巨大な影をとらえた。
「まずいまずいまずいまずいっ! コウ、あいつ近づいてきてるぞ!」
「慌てるな、こっちの姿が見えてる訳じゃない――いや」
触腕が、明らかに潜水艇をめがけてくるのを見て、コウは久々にコントローラーに手を伸ばした。
レバーを引き、可能な限りの速度で急発進を試みる。
泥を巻き上げながら発進した潜水艇の後を、触腕が追ってきた。無人調査艇のカメラから見れば、今にも潜水艇に届きそうだ。
「クソ……ッ!」
ルールは咄嗟に機械腕のコントローラーを動かし、触腕を防ぐように振り回した。即座に機械腕を
怖ろしい力で潜水艇を引かれ、船体は45度にも及ぶほどかしいだ。
「ぅ、わ……!」
直後、触腕は外れた機械腕だけを回収していった。
走行中の移動エネルギーと、触腕によって引かれ横転する移動エネルギー、その両方の対角線の方向へ――すなわち、想定とは明後日の方向へと潜水艇は吹っ飛んでいく。
当然ながら、内部ではルールが壁に吹っ飛んで激突しそうになっていた。
危うく、横から割り入ったコウが、その身体を抱きとめる。
「――
「ま、ちょ――コウ!?」
潜水艇の上下が戻った途端、ずり落ちてきたコウを抱きとめ、身体を確かめる。
割れた計器のガラスに頭をぶつけたらしく、額を伝って血が垂れ落ちていた。
慌てて辺りを見回したが、清潔な布などここには既にない。
潜水服を脱ぐと、下着代わりのシャツの裾を引きちぎり、コウの傷口に押し当てた。
「コウ、押さえてるからあんまり動くな」
「……大した怪我じゃない、頭の傷は派手に見えるだけ……」
顔を上げながら言いかけたコウの視線が、ルールの胸元で止まった。
ルールとしては、ちぎれたシャツの内側の身体など、今更見えたところで恥ずかしいものでもない――ない、が。
反射的にはだけた潜水服を掻きよせ、それからルールは自分の動きに自分自身で驚いた。
「ああ、悪かったな……」
「気にしないで。どうせ配給のシャツだし、こ、こんなもの、別に――人工の身体を今更見られたところで、特に……その」
「ああ、そう……か」
「そ、それより君、傷は本当に大丈夫なんだな? 上に戻ったらすぐにCTを撮って、脳に損傷があったりしないか探って……」
しどろもどろになったルールを、コウはごく慎重に脇に押しやった。
「いい、とにかく今はあの化け物から離れるぞ」
落ちていたコントローラーを拾い上げると、コウは再び潜水艇を動かし始めた。
慣性の法則で流れるように移動していた潜水艇は、改めてエンジンを動かし始める。
そのときには既に、潜水艇を追っていた化け物の姿は見えなくなっていたが。
それを確認してから、ルールは改めてコウの傷口を確かめる。
出血はかなり減っており、本人の申告通り傷自体は大きくないことがわかった。
少し乱暴だが、シャツを裂いて包帯の形に整え、コウの頭へ巻き付ける。
手当の途中、ふと手を止めてコウの顔を覗き込んだ。
「……なんだ」
「君ね、なんで私なんかを庇ったんだ。私はアンドロイド、君のように脆い身体はしていない。放っておけば、君が怪我をすることもなかったのに」
「じゃあ、言うが」
コウもまた、ルールの目を見返してきた。
「お前、人間だろう」
「……は?」
ルールは思わず動きを止めた。
間違いなくこの身体は機械製だ。食事をとらない、睡眠をとらない、その様子は君も見ているだろう、と言い募りかけて――コウの手が、ルールの髪に触れる。
いや、正確に言えば、頭に。
「ここ。お前の身体は機械だが、脳は生体脳だ――違うか?」
「な、んで……」
「おかしいと思っていた。本当にアンドロイドなら、潜水艇の操作なぞいくらでもプログラムをインストールすればいい。俺と張り合う必要どころか、張り合う気さえ起きないはずだ。妙に人間臭いわ不器用だわ、そのクセやりたいことは全力でやる」
「そ、そそそんな状況証拠」
「本部に直接確認した」
「本部はっ、それには返答しないはずっ」
「返答しなかった――だが、今の反応で確信した」
言われて、ルールは目を見開いた一瞬後、がくりと肩を落とした。
苦笑するような泣きそうなような、妙な表情で、コウは穏やかに答える。
「脳の破損が死につながるのは、お前も同じだ。なら、守らない理由はない」
「そんな、どっちが死ぬかの話にするのやめろよ」
「もう5年も乗ってるんだぞ、俺にとっては自室みたいなもんだ。最近乗り始めたお前よりは、どこになにがあるかわかってる。多少はぶつかる場所を選んだつもりだ」
「でも、怪我してるじゃないか!」
「これくらい許してくれよ、5年前は、代わりになる選択肢すらなかった……」
コウの目が、ふとモニタの脇にささったままの携帯メモリに向かう。
「あのとき、何故わかったか教えてほしい」
「え」
「録音の声。最初に喋っていたのは一緒に死んだ同僚のジュディで、2番目がセツ。どっちがセツか、どうしてわかった」
「それは……声、が君に似てた、から」
「どちらかと言えば、ジュディの方が俺と声質は似ていると言われることが多い。昔の仲間からも」
しばし返事を待って、しかしコウはルールの答えがないままに話を続けた。
「他にもある。お前が胸につけているペンダントのリング――セツが左手につけていたものによく似ている」
ルールの手が、我知らず胸元を押さえた。
指に当たる、硬いリングの感触。
「リングなんて……どれも似たり寄ったりだろ」
「ああ、そうだな。それだけなら気にしなかった。だが、整備の時にスパナを回していただろ。あれもセツがよくやっていた」
「そ、れは――」
「――お前、本当はセツなんだろ? あいつの死体はまだ見つかってない。実は生き延びて、どうやってかその機械の身体を手に入れ、お前は戻ってきた。お前を
まだ誤魔化すことはできるように思えた。
だが、ここに至ってなお、もはやコウを騙すことに意味はあるのだろうか。
悩んでいる沈黙の間が、既に真実を幾分か伝えていた。
「コウ、私は……」
言いかけた言葉を、ふと、ルールは自ら止めた。
「……録音? そうだ……今、録音は止まっているね、コウ」
「そうだが。俺が聞いているのは別に」
「――それだ、コウ! きっと5年前、あのときになにか、録音されてたんだ!」
モニタに這い寄ったルールは、ささったままの携帯メモリを両手で包み込むように手に取った。
「なあ、コウ! これ、このデータを――」
ルールの言葉を聞いて、コウはゆっくりと目を見開いた。
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