第5話


 ラファエルはそこに静かに佇んで、夜の海を見ていた。

 轍の走る音がして、馬車が戻って来る。側に守備隊もいたが、ラファエルが振り返ると、馬車は彼の側で止まった。王妃が顔を出す。ラファエルはゆっくりと歩いて行き、一礼する。

「こんなところで待たせて、申し訳ないわ」

 彼は優雅に微笑んだ。

 戦闘の後、王妃は【シビュラの塔】を一度見に行きたいと望んだ。ラファエルは、辞退して馬車には乗らなかった。

 王妃にとっては、自分が危険な場から逃げ出さず、その場に残っても、侵入者が近づくことを恐れ忌み嫌った場所である。ラファエルは個人的な理由で、【シビュラの塔】は見たかった。国の代表としての責任感では正直なところ全くない。古の最強の古代兵器、と説明されても、彼個人の感想はただ「ふーん」というその程度である。そもそも本当に神が作った古代兵器ならば、そんなものを見たとして自分が何にも出来ないことを、ラファエルはよく理解していた。だから別に使命感で見てみたいとは思っていない。

 ……ジィナイースが気にしていたからだ。

 彼は幼いころに見たことがあるらしいが、今はどうなっているのだろうと非常に気にしていた。ラファエルに違いは分からないが、今度ジィナイースに会う時に、仔細を話してやれれば、城に忍び込もうとしているジィナイースに、それは不要だと言ってあげられることがあるかもしれない。彼を危険な目に遭わせたくなかったから、これは正直かなり切実なラファエルの望みだった。

 ――ただし、自身の欲望が強ければ強いほど、それを自覚して、秘めようとすることが、彼の優れた外交官としての素質の一つだった。強く願ったからこそ、本能的に己を制御させた。

「私は守備隊とここに残りましょう。塔はヴェネトの神域と、妃殿下はおっしゃいました。

私はヴェネトに来て、温かな歓迎を受けておりますが、まだ王に謁見が叶っておりません。

ヴェネトの主である、両陛下にご挨拶ないまま、最も神聖な場所に足を踏み入れるのは、気が咎めます。どうぞ。私はお帰りをここでお待ちしております」

 王妃は、明らかにラファエルを連れて行ってもいい、という空気を持っていた。

 それは分かった。

 あえてそう言うことで、王妃がどう受け取るのかは、ある意味賭けだった。

 今回の戦功で、王妃はこちらに今までになく心を開いていたのだから、ここは素直に彼女の供をした方が、無難だったかもしれない。

 全てにおいて媚びられ、形式ばることも、この王妃は嫌うからだ。その匙加減は非常に難しい。だがラファエルは賭けた。逆に考えれば、この時仮に「いいのよ来なさい」と王妃に言われたら、行けばいいのである。

 この一言を王妃に掛けて、彼女に例え心に壁がある、出来過ぎだと思わせても、ラファエルはその後自分の力で、どれだけでもそれを否定してみせる自信があった。

 ただ、この一言が優位に王妃に働きかければ、今回のことと掛け合わせ、間違いなく自分は、王妃から絶大な信頼を勝ち取ることが出来るだろうと考えた。

 王族の為に命すら張り、そして、他国の神域に対して敬意を見せる。

 ここにいる究極の目的は王太子ジィナイース・テラが戴冠する時に、創立される聖騎士団を掌握することである。現在その母体となる組織を、王妃の命令を受け、スペイン海将イアン・エルスバトが作っている。何もしなければそれはこのまま彼のものになるかもしれない。自分なら聖騎士団団長以外にも、特例としてヴェネトに残る術は模索できると思うが、客人として残っても無意味なのだ。

(俺はいつか、ジィナイースと必ずこの国を出て行く)

 その為には地位と権力を得なければならない。

 王妃セルピナ・ビューレイは欲に満ちた女だが、……侵入者を前に自分の命は張った。

これは特筆すべきことだった。他国の王妃なら、しなかったことかもしれなかったのだから。

 冷静に、ラファエルはそれを最も重要視して、「彼女の神域に踏み込むべきではない」という結論を選んだ。

 王妃は「わかりました、ここでしばし待っていてください」といい、今はとにかく塔の許へと急いだ。戻って来た彼女の表情は穏やかだった。

 馬車の扉を開き、王妃自ら、ラファエルに手を差し出す。

 これは勿論、供回りがいないこの場限りのことで、それでも異例のことだったが、王妃の顔を見て、そこに今まで以上の自分への信頼を、微笑みの中に見つけるとラファエル・イーシャは遠慮を止め、自らの手でこの夜の勝利の褒美を握りに行ったのである。


◇   ◇   ◇


「塔は変わりはありませんでした」

 来る時よりは穏やかなスピードで、馬車は山道を帰った。

「そうですか。安堵いたしました」

 ラファエルは微笑む。こういう時に、言葉に皮肉めいた響きが出ないことが、彼の最大の美点だった。

「……ラファエル。改めて、貴方に感謝を」

「私は騎士の務めを果たしたまでのこと。そうお声を掛けていただけるだけで光栄です」

 優しい声と表情で返すのを、王妃は見ていた。

 フランスの貴公子は表情も、全くいつも通りだ。

【シビュラの塔】の全景など、きっと今この地に集った三国の全てが、見たいと望むだろう。だがこの青年はその唯一の機会だったかもしれない時に、場を辞した。

 それだけなら、単なる外交を疑ったが、今宵のラファエル・イーシャの剣技が、彼の人となりを王妃に真実として見せた。口先だけの男ではないのだ。


「ラファエル。なぜ……あれほど優れた剣を使うことを、隠しているのですか?」


 彼は穏やかに微笑んだ。

「ということは、妃殿下も私にまつわる、武芸の噂をご存じなのですね」

 王妃は気付いたような顔をする。

 そうなのだ。ラファエルは確かに自ら「私は剣が出来ない」と公言しているが、実際噂をする者達の多くが、彼が剣を振るう姿を、あるいは振るえていない姿を、見ているわけではないのだ。噂を鵜呑みにして、彼は剣だけは出来ないと、面白おかしく広げているだけなのである。

「隠しているわけではないのです。妃殿下。戦が嫌いなのは事実ですし。国では『怖いから戦場には行きたくない』と公言したこともあります。戦場の兵士からすれば、間違いなく私は腰抜けですよ」

 彼は言った。

「ただ、フランス王だけは真実を知っておられます。一度、こうして馬車をご一緒した時に、良からぬものに襲撃されたことがあります。その時に王は私の剣技をご覧になり、素晴らしい才能だと誉めて下さいました。騎士の称号を下さるというので、そんなことをされたら戦場に駆り出されるからおやめくださいと、まあそういう冗談の分かる陛下なので、それならばご自分や王太子の側で、護剣のように私を使って下さるようになったのです。

私は陛下や殿下が私を無能でないと思って下されば、それでいいのです。そして自分で自分を信じることが出来れば、他の者が自分をどう思うと、私は興味が全くありません。フランス全土が私の武芸をバカにしてくれるおかげで、ヴェネトの妃殿下までもが、私が人並み以上の剣を使うことを、こんなに喜んで下さる」

「まあ」

 王妃セルピナはさすがに目を大きく開き、笑ってしまった。

「フランス王はご存じだったのですね?」

「はい。全てご存じです。私の師は、陛下にもお仕えしたことのある立派な騎士なので。

 ただ、人嫌いでおられたので、私に彼が剣を教えたことを、知る人がいないのですよ」

「何故彼に剣を教わったのですか?」

「私が頼み込んだのです。個人的にですが。王国最高の騎士であったと人づてに聞いたので」

「お父様の助言が?」

「いえ。個人的な話になりますが、私の剣のことは、父も母も兄弟も誰も知りません。両親は幼いころから私に何も期待してなかったのです。今でこそ、陛下が重用して下さる背景から、父も私に声を掛けてくれるようになりましたが、幼い頃は兄弟で一番出来が悪かったですから。早くに失望されて、放っておかれました。私にとってはとても気安く声を掛けられるような人ではない、立派すぎる父親だったのです」

「貴方はご両親にも陛下にも愛されてる方だと聞き及んでおりますわ」

 今はね、とラファエルは笑った。王妃が自分に興味を抱いていることが分かったので、今は彼は話すことを遠慮しなかった。こういう時は、話していいのだ。

「私の兄弟は誰もが優秀だったので、幼い頃は私が一番の出来損ない。家でも夜会でも、のけ者でした。いつも泣いてばかりいて、祖母だけが優しかったので、よく彼女の別荘へ行っていました。長閑なフランスの田舎です。そこに隠居した王国最高の騎士が住んでいたのは、まったく、神の思し召しですね。強くなりたいと望んで、彼に師事を頼みました。

最初は見所が無いと言われましたが――……」

 ラファエルは頬杖をついた。

「……たった一人だけ、幼いころの私の、馬鹿にされてばかりだった心を庇ってくれた人がいて……。その人は私の全てを肯定してくれた。希望があることも、希望を持っていいことも、全てその人が私に教えてくれました。その人だけは守れるようになりたかったのです。私の剣は王を守るというような大層なものじゃない。だからどれだけ剣を覚えても誰にも言いませんでした。陛下にもこの話を同じようにして、お詫びは申し上げました。

 私は今の陛下が好きです。

 好き、という表現は臣下が使うにはおこがましいですが、優しい方なのです。この話を聞いた時、お怒りにならず、人を愛することは素晴らしいことだと仰ってくださいました。

そして騎士でもない私をご自分の側で重用して下さった。

 ――私がこの国に来たのは。

 陛下が、ヴェネト王国との親交を結ぶことを、願っていらっしゃったからです。戦場ならば来ませんでしたが、そうではなかった。それなら、私にも出来ることがあるかと」

 それは半分嘘で、半分は真実だった。

 だが王妃は、信じた。

 この人は無慈悲な神じゃない。人の心を全て見抜ける、そういうものではなく、やはり人間なのだとラファエルは思った。

「貴方は幼いころから聡明でしたでしょうに」

「とんでもない。出来の悪い子供でしたよ。自信もなかったし。性格も暗かった。いつも周囲が自分を苛めて馬鹿にしてるように感じられていたから、きっと怯えていたんですね。

今では確かに自分でも、かなり暢気になったなあと感心するんですが……。まあ私も領民を持つ公爵の一人なのですから、あんまり暢気ではいけないのでしょうけど」

「貴方はその方の為に剣を学んだのですね」

「何も持ってない頃の、幼い私にとっては、手も届かないようなとても高貴な人でしたから。もしその人に何かあった時は、必ず守って差し上げられる自分になりたかったのです」

「私は貴方は素晴らしい騎士であると、褒め称えてもよろしいのかしら」

「大層な秘密というわけではありません。ただ、フランス王と社交界をからかって遊んでいただけです。私が剣だけは扱えないと悪口を言っている貴族を見つけると、『そうだなぁ』と言いながらにやにや出来るのだとか」

「まぁ」

 セルピナ・ビューレイは笑った。

「自分が出来ると言って出来ないことは、誰かの迷惑になるかもしれませんが、出来ないと思われていることが出来ても、得した気分になるだけで、別に誰の迷惑にもなりませんしね」

「では、私だけは、貴方とフランス王の秘密の遊びに混ぜていただいてもよろしいのかしら?」

 ラファエルは優雅に頷いた。

「どうぞ。いつか陛下と私と三人でお会いした時に、三人で笑いましょう。フランス全土が私は剣の持ち方も分からない奴だと思っておりますよ」

 珍しく楽しそうな声を出してセルピナが笑った。

「ええ。そうね。楽しみだわ」

 セルピナは馬車の窓の景色を見遣った。

「貴方のおかげね、ラファエル。こんなに笑ったのはいつぶりかしら……」

 ふと、ラファエルは前に座る、王妃へと目を向けた。彼女は横顔を見せて、外を見ている。彼女はヴェネトを牛耳り、今や【シビュラの塔】の威光にひれ伏す欧州の社交界を牛耳り、日々楽しそうだ。手に入らないものは何もない、彼女はいつもそういう自信に満ちている。その、覇気に満ちた一人の王妃の気配が消え、寂しさを知る、一人の貴族の女の顔を見た気がしたのだ。

 自分への信頼をはっきりと感じる。これは思い過ごしではない。

 自分がジィナイース・テラを、フランスに連れ帰りたい、何もヴェネトには何も関わらないようにするから、もう自由にしてやってほしいと今、頼んだら、この女はどういう表情にこれを変えるのだろう?

【シビュラの塔】がこの世に存在しなかったら、口に出していた。

 平手打ちくらいは全く我慢出来たから。しかしこの女を侮ってはいけない。この女の怒りは、神の怒りにも等しいかもしれない。彼女が例え神でなくても、それ相応の報いを受けさせる手段を、握っているのだから。

(そもそも何故、ジィナイースをそんなに憎むんだ)

 兄のルシュアンを引き取ったとして、弟が敵になるわけじゃない。この女が引き取り、同じように大切に育てれば、ジィナイースは兄を支える弟になったはずだ。あの明るい魂で、いつも怯えて周囲を警戒しているような兄を包み込んで、幼いころの自分がそうだったように、安らぎを与えたはずだ。

 何故、あの優しい魂を、そんなに警戒し、排撃しなければならないのか。

 人を魅了し、この人の為なら命さえ捧げても構わないと思わせる素質が、ジィナイースにはある。彼は一族で、ユリウス・ガンディノに最も似た子供だ。

 例えばルシュアン・プルートが本当にこの王妃の子供で、ジィナイース・テラが妹姫の子供だというのなら、排撃は理解出来る。自分の子供に何としても家督を継がせたいと望む母親の執念というものを、生まれてから貴族の社会で生きてきたラファエルは何度も何度も見てきた。例え自分の姉妹の子供でさえ、「自分の実の子ではない」なら、敵のように扱う女もいる。セルピナ・ビューレイのジィナイースへの敵意は、まさにそれに近かった。

(でも、元々ルシュアンだって貴方の子じゃないんだろ? だったら、二人とも愛してやればいいじゃないか。区別なんてつけずに)

 ラファエルはその時、何かが引っ掛かった。


【区別なんてつけずに】


 ジィナイース・テラの名を与えられたあの王子……。

 ユリウスの顔が過る。どんなに彼がジィナイースを愛していたかを知ってる。

 自分の死がいかに唐突でも、彼はその死の混乱に覆いつくされて、愛するジィナイースをその運命に奪われるような……そんな迂闊な男だっただろうか?

(ちがう。あいつは……。もっと、男だ)

 目の前の女にとっては、実の父親。

 セルピナ・ビューレイは父王のことを、どう考えているのだろう。

 彼がジィナイースを愛していたことを、正しく知っていたのだろうか?

 もし知らず、知ったのなら、今の自分のやり方を、考え改める女だろうか?

 ラファエルは言葉を濁した。

 自分はイアン・エルスバトなどと比べると相当暢気だとは確かに思う。

 しかし『家族』というものの複雑さは、よく理解している。あれは確かなものに見えて、本当に曖昧な線引きだったりするんだ。嘘などつけない距離に見えても、実は大きな嘘すら許容する、そういう関係性にも出来る。それを誰が望んで、誰がそうさせたのかも分からないことがある。

 家族とは厄介だ。ラファエルはそれが分かっていた。

 彼は今は家族を愛しているけれど、それは出来損ないだった自分を忘れ、愛してくれる寛容さへの感謝であって、彼らが無力だったころの自分にした仕打ちを、決して忘れてはいなかった。恨みは人を醜くするから、彼らが自分を許したように、自分もまた彼らを許そうと思い愛してはいるけど。例えば、家族の輪から小さい頃に外れて生きてきて、ラファエルの幼少期に関わらず、大人になってから出会った妹であるアデライード・ラティヌーに対しての愛情ほど、無垢ではないと思う。出来れば他の家族とも、同じように無垢な信頼で結ばれたかったが、それはもう無理なのだ。

 彼らが自分を蔑ろにした時の記憶は、許せても、忘れられはしない。

 ラファエルがジィナイースをフォンテーヌブロー領の屋敷に連れ帰りたいのは、それも理由の一つだった。ラファエルは家族に希望が持てないのだ。女性は好きでも、この人と家族を作るのかと思うと、時折憂鬱になることがある。

 彼の場合今では身分が邪魔して、出会う女性は有力貴族ばかりだ。その背景には歴史があり、大勢の家族がいる。社交界で楽しく踊るのと、家族になることは全く意味合いが違う。

(時々全てを投げ出したくなる)

 逃げと言われればそうかもしれないけど。

 ラファエルは真実の心で、ジィナイースに自分の家族になって欲しいと願っているのだ。

 恋人でも兄弟でも、親友でも何でもいい。彼の気に入る呼び方で、関係性はなんであれ構わない。

 自分の人生に、彼という家族がいてほしい。

 自分の幼いころを知っていて、知っていてもなお、虐げなかったたった一人のひと。

 昔を懐かしみながら過ごして、例え、お互い誰かを見つけたとしても、一人を望む時には、フォンテーヌブローのあの湖畔の城に行けば、いつでも二人きりで会える。

 そんな聖域を作りたいのである。

 自分の魂の、安らぎの場所、多分そんなだ。

 自分の過去や少年時代にジィナイース・テラと過ごした時期以外、安らぎの場所や記憶を持てなかったラファエルにとって、たった一つの願いなのである。

(貴方が本気で、【シビュラの塔】を守りたいのは分かったよ。例えばそれが、あの古代兵器を自分だけのものにしたいという独占欲だとしても、賊が現われた時、貴方は王妃という身分を捨ててでも、そこに残って戦おうとした。その勇敢さは、見事なものだ)

 剣さえ持ったことがないという女性が、そうしようとしたのだから。

(だけどいくら幾重にも協定を結んだって、貴方がジィナイースを排撃するなら、俺は貴方と戦ったって彼を守る。俺は今日、貴方の神域に対して敬意を示した。だから貴方も、俺の『聖域』に敬意を払って欲しいんだよ)


 それが出来ないなら、いくら仲良くなっても、俺たちは敵同士さ。



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