押し入れと人形の夢
その日は寝つきが悪かった。
夏の熱気と妙な寝苦しさで何度も寝返りを打った。
古い家が奏でる家鳴りが、時折耳を刺激して意識をかき乱す。
寝ているのか寝ていないのか自分でもよく分からない居心地の悪い時間が永遠と続く、そんな夜。
ふと……何か音がした。
何かを叩く音。
それは明らかに人為的な音だった。
それが私の眠りを妨げる。
気だるい目を開けると視線の先で押し入れの戸が揺れていた。
ドンドンドン、ドンドンドン
中に人がいるかのようにそこから叩く音が聞こえてくる。
でもあそこには布団などの荷物が詰まっていて、人が入れるスペースなんてないはずなのに。
ドンドンドン、ドンドンドン
なおも叩く音は続く。
ネズミでも入り込んだのだろうか。
古い家だしなぁ。
ズッ…………
と思ったら私の見つめる先で押し入れ戸が少し開いた。
ほんの少し開いた隙間、そこから暗闇がのぞいている。
小さな手が、はみ出ていた。
白い手。
暗闇の中その白さがくっきりと浮き出ている。
その手が戸を開けようとガタガタ揺らす。
ありえない光景。
だけどそれは見間違えなんかじゃ絶対にない。
冷や汗が出た。
さっきまで寝苦しいくらいの暑さだったのに急に寒気がする。
一際大きな音がして扉が軋んだ。
「出して」
甲高く乾いた声が押し入れの奥から聞こえた。
その瞬間恐怖に耐えきれなくなった私は叫び声を上げて………………
目を覚ました。
暗い自室の中自分の荒い息遣いだけがやけに大きく聞こえる。
夢……だったらしい。
にしては嫌にはっきりした夢だ。
目が覚めたというのに恐怖の記憶が頭にこびりついて離れない。
嫌な予感がして、押し入れに目を向けると…………少し開いていた。
きっちり閉まっていた……そう言い切れないところがなんとも気分が悪い。
白い手がないところだけがまだ救いだろう。
嫌な夢を振り払うように戸を閉める。
また妙な夢だ。
あの黒犬顔の男の夢と同じ。
夢のくせにそれは現実に変化を及ぼす。
なかったはずのティーセット、整頓された漫画、開いた押入れの戸。
今日見た夢は前のよりさらに悪い。
犬男からは悪意を感じなかったけど、さっきの夢からは何か執着のようなものを感じた。
嫌な感じだ。
私は寝ることを諦めて布団から這い出る。
水でも飲んで少し落ち着こう。
あんなものを見た後ではとても眠れそうになかった。
「あれ……?」
ところが廊下に出てみると真っ暗なはずのそこに見慣れた明かりが射していた。
また、洋間の電気が着いている。
もしかして…………私まだ夢の中?
「今晩は、お嬢様」
扉を開けると、案の定そこには犬の顔をした男が座っていた。
存在しないはずの扉も健在だ、私は完全に夢を見ているらしい。
「目が覚めたと思ったら、また夢の中」
ふらふらとソファーに座り込む。
机の上には当たり前のように紅茶が湯気を立てていて、逆になんだか安心した。
「お可哀想に、夢に惑わされているのですね」
「あんたが惑わしているんでしょうが」
胡乱な目を向けても彼は笑うだけだった。
「よろしければ、夢と現実の区別の付け方をご教授して差し上げましょうか?」
「そんなもの……あるの?」
犬男はティースプーンでカップを2回リズムよく叩いた。
凛とした音がする。
そのあとは意味ありげな目で私を見つめるばかり。
何……?
紅茶を飲め、ということだろうか。
私はカップを持ち上げ澄んだ色の紅茶を口に含む。
「お味はどうです?」
「味?どうって……美味しいよ、いい香りで、暖かくて、安心する」
「本当に?」
「……え」
「本当にぃ?」
黒犬はニマニマといやらしい笑みを口に浮かべる。
なんだろう。
意味深げに笑っちゃってまぁ、むかつくなぁ。
意図が分からずもう一度それを口に含んでみる。
ほら、別に変な味は……
「あれ?」
いくら口の中でお茶を転がしても深みなどどこにもなかった。
味がしない、香りも。
それどころか温度すらも感じなかった、カップからは確かに湯気が立っているというのに。
「貴方は依然布団の中なのですよお嬢様。無いものを飲んでも何も得られませんよ」
「ええ!?」
「古来より夢か確認したくば頬をつまめと言いますが、私はお勧めしかねます。頬など寝ぼけていてもつまめます。それより鼻か舌で確認するのがよろしいでしょう」
なる……ほど?
しかし夢から夢の講義を受けるのはなんだか変な感じだ。
私の見ている夢なのに、なぜ私の知らない知識が出てくるのだろう。
それに、彼からは明確な意思を感じる。
「あなた……なんなの?」
「ようやく私に興味を持ってくださいましたか。私は魔女の夢、名をロクと申します」
「魔女の、夢?」
「左様で。全ては茉智お嬢様の夢の中なのです」
茉智お嬢様って……祖母のことだよね、あの人が魔女?
なんで私が彼女の夢の中にいるんだ。
あの人はもう亡くなっているのに。
そういえば、前に夢の中で見た駅の駅名も魔女の館駅だったな。
魔女と夢……一体なんの関係があるのだろう。
「夢と言ってもただの夢ではありません。魔女に繋がれているとはいえ私は魔夢、その存在は現に半分踏み込んでいます」
「うつつに踏み込む?」
よく分からない。
なんの話だろう。
「お婆様から魔夢の話を聞いたことは?」
「……ない」
何もかも初めての概念だった。
そもそも変な夢を見始めたのも最近のことで、夢に関することなんてほとんど知らない。
祖母との話は私が一方的に話すばかりで、夢の話なんて聞いた記憶はなかった。
「私の淹れたお茶は目を覚ましても残っていたでしょう。魔夢とは夢路と現実を行き来する夢なのです」
「そう!それ!食器を片していないの、やっぱりあなただったんだ!!」
「え?いや……まぁ、はい」
私が非難がましく見つめるとロクは気まずそうに目を逸らした。
やはりそうだった。
私はきちんと片している。
片付けをサボっているのはこいつだ。
「やめてよね!洗い物はきちんとシンクに、分かった?」
「…………承知しました」
いつものニヤニヤ声はなりを顰め、ロクはしゅんと肩をすくめた。
叱られるのはどうやら苦手らしい。
「とにかく!我々は現に現れる夢であり、あなたのお婆様はそれらを従える魔女だったのです」
気まずい空気を変えるようにロクは咳を1つ、そう締め括った。
なるほど?
まだよく分からないことも多いけど、なんとなくは把握できたかもしれない。
「つまりあなたは現実で悪さをしていた夢で、お婆ちゃんはそれを取り締まってたってこと?」
「概ね、そういうことです」
なんだか不服そう。
悪者扱いされたから?
でも実際悪いじゃん、あんたのせいで私は伊都さんに冤罪きせられたわけだし。
「それで……そんな夢が私になんの用?」
こいつは度々この家に訪れている。
私と会うのは2度目だが机の上に食器が残された回数はそれより多い。
祖母のために紅茶を出していたと言っていたけど、彼はもう知っているはずだ……あの人の死を。
なのにまだ紅茶を用意している。
何か理由があって洋間に居座っているとしか思えなかった。
「忠告しておこうかと思いまして」
「何を?」
忠告……?
なんだか不穏。
夢が現実に対して何を忠告するというのだろう。
いや、そうかこいつらは現実に顔を出せるんだっけか。
「魔女が亡くなったせいで我々の首輪が緩み始めています」
首輪……
ロクの首筋を見てみると確かにそこには首輪がかかっていた。
犬顔に違和感がないから気が付かなかったよ。
「我々としては自由になるのは大変歓迎ですが、茉智お嬢様には恩もありますし」
「自由になると、どうなるの?」
「無害なものであれば問題ありませんが、悪夢の夢魔が解き放たれるのは危険です、とても」
先ほど見た悪夢が脳裏をよぎる。
さっきのは夢だったけどあれが現実に出てくる、そう考えると文字通りの悪夢だ。
「古来から魔女は現に這い出る悪夢を封じてきました」
「聞いたことないけど……」
魔女ってもっとこうファンシーなものじゃないっけ。
魔法で火を出したり、ドラゴンと戦ったり。
夢に首輪をする魔女って……聞いたことのない概念だ。
「本来であれば魔女組合が後を引き継ぐはずなのですが……生憎茉智お嬢様とは折り合いが悪く」
「何それ、じゃあ誰が封じるの?」
「………………」
意味ありげに笑うな。
つまり祖母が管理してた猛獣に手がつけられなくなっていて、それを止められる人がいないってことじゃん。
「そんなこと忠告されたって私にどうしろっていうのよ!」
逃げろって?
この家を引っ越せって?
私がどんな思い出この家に越してきたか知りもしないで。
家族との思い出の家も引き払うしかなかった。
私に選択肢なんてなかった。
「継ぎますか?」
「…………は?」
「魔女、継ぐつもりがあるならどうぞ」
「えー……」
私が何を継ぐって?
にやけ顔と共にロクが私の鼻先を指差す。
「私は何夜も待ちました……お嬢様の帰りを、ですが彼の方は帰らなかった。代わりにあなたが来た」
「それはただ単に私が越してきたきたというだけで……」
「いいえ。断じてそうではありません。もう1人のお方、お嬢様の息子様は私を夢見ることはありませんでした。魔夢を見るというのもまた才能なのです」
私に才能……?
確かに伊都さんがこの家に来てから妙な夢を見たという話は聞かない。
私は何度も見ているというのに……そういう意味では才能があるのかもしれない。
「どうです、もし悪夢を見たというのであればそれを貴方の手で封じるのも手です。手を、貸しましょう」
そう言ってロクは私へ手を差し出した。
いつもの胡散臭い笑みを浮かべて。
……………………………
…………………
……
「今日遅くなるから」
「うん」
「昼と晩は冷蔵庫に入ってる、あとアイスもある、お前の好きなやつ」
「うん」
「なぁ」
「?……何」
伊都さんの声音が変わったのを感じ取って、私は朝食を食べる手を止めた。
なんだろう?
「大丈夫か?落ち着きがないが」
「え?」
彼の瞳に浮かんでいたのは純粋な心配だった。
いつもみたいに小言をいただくと思っていた私は拍子抜けしたようにポカンとした。
「何か悩み事があるなら言えばいい」
「ううん、大丈夫だよ」
伊都さんの心配を慌てて否定する。
そうか、今私は落ち着きがないように見えるのか。
頬へと指を這わせる。
いつもと同じようにしていたつもりだった。
でも私の知らないところで何かが漏れていたのかもしれない。
「体調が悪いなら、休みを取るが……」
「大丈夫だって!」
なおも食い下がる彼をきっぱりと否定する。
休みだなんてとんでもない、これ以上彼の負担を増やしたくなかった。
「ただ……変な夢を見ただけだから」
「本当に?」
「ほら、仕事遅れちゃうよ」
私は誤魔化すように朝食のシリアルをかっこんだ。
伊都さんは何か言いたそうに出社していったけど、私は閉まるドアを見てホッとため息をついた。
奇妙な夢の話なんてしたところで信じてもらえるはずがない。
「さて…………」
1人になった私は台所へとまた戻った。
冷蔵庫を開け目的のものを探す。
『夢を見ていると自覚するために匂いの強い食べ物を持参するといいでしょう』
昨夜夢の中でロクからもらった助言を思い出す。
夢の中では鼻も舌もきかない、だからそれを確認できるものを持っていれば突然夢に入ってもそれと分かる……らしい。
これなんていいだろうか。
お菓子の入った段ボールから私はドロップの詰まった缶を見つけ出した。
爪を立てて金属製の蓋を開けると甘い香辛料と微かなハッカの匂いが鼻につく。
味は舐めなくたって想像がつく。
外出用のお気に入りのポシェットへとそれを入れる。
他にも懐中電灯やお気に入りの小説など思いつく限りのものを詰め込んだ。
ずっしり重たくなったそれを肩にかけ私は気合いを入れる。
今から私は悪夢を封印するのだ。
ポケットから“鍵”を取り出す。
重たくて冷たいそれは手の中で鈍く光った。
夢の中でロクから手渡された鍵だ。
目を覚ましても、それは変わらず手の中にあった。
『いいですかこれは夢を封じ込める首輪の鍵です』
ロクはそう言いながらこれを私へと預けた。
『これで夢に鍵をかけてください』
夢の中のそれはピカピカだったけど。
今私の手の中のにあるものはメッキがはげ、鈍い地肌が露出してしまっている。
夢は所詮夢ということか。
夢の中では見てくれがよくても、現実では古くてボロい。
「これで夢と現実を繋ぐ“通い路”に鍵をかける訳ね」
魔夢は夢と現実を行き来する、しかし自由自在というわけじゃない。
その夢の起点となる物を辿って現実へと踏み込むらしい。
例えば空飛ぶ車の夢なら車、ナイフを持った殺人鬼の悪夢なら血濡れたナイフ、そういった現実への足がかりがある時、夢は現実へと踏み出せる。
それを夢の通い路、と魔女たちは呼んでいるらしい。
私が見た悪夢は押し入れから出たがる何かだった。
つまり悪夢の通い路は押し入れにある可能性が高いということだ。
私は自室の押し入れをまじまじと見つめる。
この中に悪夢で見たような腕が入ってるとは思えないけど。
悪夢で見た通りに押し入れは少しだけ空いていた。
それに指をかけ、開け放つ。
「………………」
押し入れの中に入っているのは布団や段ボールだ。
特にこれといって特別なものはない。
悪夢で見たような怖いものが入っているかと身構えたけど……杞憂だったようだ。
しかし布団が私に悪夢を見せるはずがない。
となると件のものはいくつもある段ボールの、その中にあるということだろう。
「……んしょ」
ずりずりと布団を押し入れから出す。
布団を出し切ってみると奥の段ボールが顔をだす。
結構多いけど伊都さんが帰ってくるまでには確認しきれそうだ。
試しにダンボールを一箱引きずり出して開けてみる。
中は……アルバムだった。
めくってみると写真がびっしりと入っている。
大半がデジタル写真であり比較的最近のものだと気が付く。
押し入れの一番手前にある段ボールだったのだから新しいのも当然と言えば当然か。
私の写真もあったりするのだろうか。
「……あ」
一枚の写真が私の手を止めさせた。
家族写真だった。
私の知るよりも白髪の少ない祖母。
その横には母と父がいた。
母の手の中には赤ん坊が抱かれていた。
大口を開けて今にも泣き出しそうな、どこか見覚えのある赤ん坊。
私の姿は…………ない。
きっとこれは兄が生まれた時の写真なのだろう。
切り抜かれた幸せそうな瞬間。
ここに写っている人たちは、もうどこにもいない。
全員、死んだ。
「何してんだろう……私」
不意に全てが馬鹿らしくなった。
アルバムを放って、床に積んだ布団の上に身体を投げ出す。
意味のわからない夢を見て、そこに登場した訳のわからない犬男の言うことなんて律儀に聞いちゃって。
悪夢がなんだと言うのだ。
現実に出てくると言うならば出てくればいい。
そんなものがなくたって私の現実はずっと悪夢だ、あの日から……ずっと、ずっと。
目を閉じれば家族の顔が浮かんでくる。
お婆ちゃん、魔女だったって本当?
何を考えてそんなことをやっていたんだろう、隠していたんだろう?
私のように魔女の才能があったから?
分からない。
分からないよ、何も教えてくれずに死んじゃったら。
ねぇ、あなたたちに後悔はなかったの?
私は…………後悔ばかりだよ。
……………………………
…………………
……
怖い夢を、見た。
それは暗くて大きくて猛獣みたいに私の首を絞めた。
怖くて、隣にいるお母さんを揺すったけど全く目を覚ましてくれなかった。
そうしている間にも闇は私を取り囲み、私は逃げ出した。
怖くて、泣き叫びながら。
逃げても、逃げても、闇は追ってきた。
だから私は光を目指した。
闇とは正反対の鮮やかな綺麗な光を。
それは見覚えのある色鮮やかな光だった。
あの扉のステンドグラス、そこから差し込む光。
私は扉を開けた。
あの洋間の。
「牡丹ちゃん?どうしたのかしら」
そこには祖母がいた。
いつものように微笑み、お茶を嗜んでいた。
いつもの、洋間で。
「こわい夢を見たの」
私は振り返る。
扉の向こうでは、まだ闇が私を飲み込もうとのたくっていた。
祖母は何かを確かめるように紅茶に口をつけた。
「確かにあなたは夢を見ているみたいね」
ソファに座った祖母の影が不自然に長く伸びた。
私の下を通り過ぎたそれは私の恐れた闇と同じだったけど……不思議と怖くはなかった。
影が扉の向こう伸びると私の悪夢は潮が引くように去っていく。
そんなものなど最初からなかったかのように。
「あの子達にはなかったのに……この子にはあるのね、やはり血かしら」
祖母が私の頭を撫でてくれる。
私はその温かさにただただ安心した。
錠の閉まる音がした、私の首元から。
顔を上げると祖母はしわがれた指でピカピカの鍵を弄んでいた。
「鍵を閉めなきゃね。あなたの才能はきっとこのままでは悪夢を現実に溢れさせてしまうから」
「なんのおはなし?」
「お婆ちゃんが怖いものから遠ざけてあげる、だから今はおやすみ」
「うん」
祖母は私の手を引いてくれた。
私のために布団を敷き、眠るまでそばにいてくれた。
「よかったわ、あなたを守れて」
祖母がそう言うのを沈みゆく意識の中で確かに聞いた。
小さい頃の記憶。
一夜にして姿を消し、遠く離れた祖母の家で発見された子供の話。
あの時私がどうやって祖母の家まで行ったのか、誰にも分からなかった。
ただ祖母だけが落ち着いた声音で、大丈夫だと、こんなことはもう2度と起きないと、そう太鼓判を押した。
昔の記憶。
……………………………
…………………
……
目を開けると窓から差し込む太陽の光が先ほどより傾いていた。
少しの間寝てしまったようだ。
懐かしい夢を見ていた。
身体を起こすと首元から何かが滑り落ちる。
「首輪?」
赤いリボンで飾り付けられた可愛らしい首輪。
今の私ではとてもサイズ合わないような小さな首輪。
金のメッキが施された鍵穴が陽の光を反射して光った。
鍵は閉まっていなかった、だからこそこれははずれ、私の首から落ちたのだろう。
なぜ私が今になって妙な夢を見るようになったのか。
封印されていたのは私も……か。
祖母が死んで封が解けたのは夢だけじゃない。
魔女としての私もまた解き放たれた。
知らないだけで、私はずっと守られていた。
目を瞑ると祖母の顔が今でもはっきりと思い出せる。
私を守れてよかったと微笑む顔が。
きっとあの人に後悔なんてなかった、だって愛するものを守れたんだから。
私も、そうなれるだろうか。
押し入れに目を向ける。
陽が傾いた分、そこに広がる闇はより深く見えた。
でももう怖くはない。
もう子供じゃいられないから。
立ち上がり気合いを入れ直す。
この家に住んでいるのは私だけじゃない。
伊都さんを守らなきゃ、魔女の血を引く娘として。
段ボールを次々と引っ張り出し、中を見分していく。
ロクの話では通い路はきっとここにあるはずなのだ。
古着、本、子供用のおもちゃ、この家の思い出を掘り起こすように中身をぶちまけていく。
でも悪夢を感じるものはなかなか見つからない。
手前のダンボールは探し切ってしまった。
次の段ボールを出すために私は足をかけ、押し入れの2段目に身体を乗り上げる。
「ん……重いな」
段ボールを持ち上げるため、私は押し入れの中に入った。
何も警戒していなかったし、疑問も抱いていなかった。
段ボールに手をかけた瞬間、あたりが暗くなるまでは。
ズズッ…………
え?
振り返ると、私の目と鼻の先で押し入れの戸がゆっくりと閉じていくのが見えた。
「う、嘘?!」
手を伸ばすその瞬間、戸は音を立ててピシャリと閉まった。
真っ暗。
戸の隙間から漏れる細長光だけが唯一の光源になった。
ドクンッと心臓が跳ねる。
暗闇に恐怖したからではない。
私以外の存在が確かにここにいる証拠を突きつけられたからだ。
伊都さんが帰ってくるわけもない時間、家には私1人だけだったはずなのに。
魔夢が、いる。
暗闇の中手探りでポシェットの中を探る。
手がドロップの缶に触れて微かな音を奏でた。
それを取り出して封を開ける。
でも匂いは何もしなかった。
缶を振って手のひらに転がしたドロップを舌で転がしても何も感じない、味がない。
夢だ、私は今夢を見ている。
夢が現実に介入してきた。
懐中電灯を点灯する。
照らされたそれは変哲のない押し入れの中の光景。
それでもこれは夢だ。
何かを打つ音、それが不意に耳につく。
ドンドンドン、ドンドンドン
悪夢で聞いたあの音だ。
あの夜は私は布団の中でこの音を聞いた。
押し入れから出ようとするあの音を。
でも、あの時とは違い今の私は押し入れの中にいる。
それってこの音を奏でている存在と同じ空間にいるっていうことで……
ドン
一際大きな音がして私は肩を震わせた。
音源へと懐中電灯を向けると段ボールが置かれたその奥から小さな白い腕が伸び、戸を叩いていた。
「あ……っ」
私が逃げようと押し入れの戸に手をかけるのと、その腕が私への伸びるのはほぼ同時だったと思う。
戸と壁の隙間に爪を引っ掛け、開け放つと一目散へ外へと飛び出す。
押し入れの外では陽の光が私を出迎えてくる…………はずだった。
「え?……嘘」
押し入れの外は押し入れの中だった。
「う、えぇ?」
変わらぬ天井の低さ、狭さ、そこには暗闇が横たわるばかり。
唯一の光源は戸と壁の間の一筋の光だけ。
そうだ、光が射しているのだから戸の外は明るいはずなのに。
その戸を開けても見える景色は同じだった。
まるでコピーアンドペーストしたような瓜二つの光景。
なんで!?
夢だからってこんなのあり。
「出して、ここから」
甲高い声が背後から私へと投げかけられる。
白い腕が半開きの扉に手をかけ、だんだん開けていく。
私は慌てて腕と私の間にある戸を閉めた。
まずい、あれに捕まるのは絶対嫌だ。
それからはもう追いかけっこだった。
戸を次々開け、押し入れから押し入れに私は逃げ惑う。
後から聞こえてくる戸を開ける音が聞こえなくなるまで、ひたすら。
「痛っ」
何度目だろうか、戸を開ける私の爪に痛みが走った。
毎回狭い隙間に爪を引っ掛けて開けていたから負担がかかったのだろう。
大体、押し入れの戸は内側から開けるようにできていないのだ。
引き手は基本外側に取り付けてあり、中には戸を動かす取っ掛かりがない。
だからこのような開け方にならざるをえない。
爪が痛むのも無理はなかった。
でも痛みで我に帰った。
逃げていても何も解決しない。
鍵をかけなきゃ。
白い腕は現実で眠っていない私を夢へと誘った、ということは通い路は確かにあるはずなのだ…………あの犬男の言葉を信じるならば、だけど。
慌てて押し入れの中を探るけど、そんなもの本当にあるのか心配になる。
あるとして、私にそれをどうやって見分けろというのだろう。
きっとそれと分かるオーラがあると漠然と思っていたけど、そんな上手い話ではないのかもしれない。
冷や汗が背中を流れ、気分が悪い。
押し入れの戸を開ける音が先ほどからどんどん近づいてきている。
残った段ボールの中の最後の一箱に手をかける。
中身は…………変哲のない電気ミシンが入っていただけ。
考え方を変えた方がいいのかもしれない。
そもそも本当にここにあるのか?
戸の動く音がもう目と鼻の先のように聞こえる。
押し入れから出たがるナニカの悪夢だからってその正体が本当に押し入れにあるとは限らないのではないだろうか。
目の前の戸が揺れる。
もし本当に祖母が魔女だったとしてだ、あの人は悪夢の根源となるような物を押し入れに雑に保管するのだろうか?
私でもすぐに手が届くような場所に。
戸がうっすら開き、白い指が顔をのぞかせる。
心臓が早鐘を打つように脈動し、胸が痛い。
それでも私は考えることをやめない。
あと少し、あと少しで何かが掴めそうだった。
戸が開き闇が私の前に顔をのぞかせる。
奇妙な光景だった。
まるで騙し絵のように永遠に続く押し入れ、そこを一直線に伸びる白い、腕。
まるで関節などないかのように伸びるその腕が私の首筋を這う。
その冷たく、硬質な感触に、あぁ……これは人形の腕なのだなと、そう思う。
人形……?
何かが私の頭の中を掠めた。
人形。
小さな時、私はそれを見た。
その思い出が私の中で弾ける。
……………………………
…………………
……
「おばぁちゃん!」
「まぁ、牡丹ちゃん久しぶりねぇ」
家についてすぐ私は廊下を走り、洋間へと突撃した。
そこにお目当ての人がいたから。
「すいませんお母さん、全くこの子は……」
「おじゃましまーす」
私の背後で母が申し訳なさそうに頭を下げ、兄と父はのらりくらりと荷物を下ろす。
私は家族をそっちのけで洋間のソファへ飛び乗った。
スプリングが私の身体を弾ませる。
「伊都は?来てないの母さん」
「あの親不孝ものは来ないよ、まったく」
「ねぇ!おばあちゃん!!」
祖母と母は何やら話がありそうだった、でも私はそれを遮って大声を上げた。
「お誕生日おめでとう!」
ずっと背中にに隠していたそれを私は祖母に差し出す。
人形。
ちょっと出来の悪い、手作りのお人形。
祖母を模して作ったつもりだった。
「あら、ありがとうねぇ」
にっこりと微笑んでそれが祖母の手に抱かれる。
ほらやっぱりそっくり、私はそう思った。
チェック柄の黒い洋服を着た人形、それは祖母の好んで着る黒服とよく馴染んでいる。
「よくできてるわね、牡丹ちゃんが作ったの?」
頭を撫でてもらって、私はご機嫌だ。
「まさか、ほとんど私ですよ」
背後で母が無情にも真実を告げていたが、私は気にしない。
あの黒い布を選んだのは私なのだから。
「おめでとうございますお義母さん」
「おめでと」
父と兄も荷物を置き終わったのか、洋間へと顔を出す。
久しぶりに顔を見せた娘とその家族に祖母は嬉しそうに顔を綻ばせた。
いつもは烏みたいに黒い服を纏って澄ました顔をしていても、こういう時だけ顔をくしゃくしゃにして笑う。
そんな祖母が私は大好きだ。
祖母の家に来た時だけ飲める砂糖とミルクがたっぷり入った紅茶もまた好きだった。
この家にはこういったおめでたい日にしか顔を出さないから、特別感があって高揚した。
兄なんかはここに来るとすぐ退屈そうな顔をしてゲーム機を起動するけど、私は洋間のガラス棚の中を眺めて過ごすことが多い。
そこには私の日常にはない珍しい物品が所狭しと並んでいた。
「そうだ牡丹ちゃん、私もお人形持っているのよ」
「え?本当」
その言葉に私は振り返った。
この家には私たちが遊びにきた時用のおもちゃがいくつかある。
でもそれらのほとんどが兄の時に買ったお下がりであり、女の子用のおもちゃはなかった。
私はそのことにちょっと不満を覚えていた。
だから人形がある、というのは初耳で、嬉しい知らせだった。
「よっと」
どこにあるのかと思ってついていけば、祖母は押し入れを開けた。
押し入れ、そんなところに人形があるなんて盲点だった。
ところが押し入れを開けた祖母は私が予想もしていなかった行動をとった。
押し入れに足をかけ、上の段に上がるとその天井に手をかけたのだ。
その手が押すとあっけなく天井の板はズレ、闇が顔をのぞかせる。
「ほら、この中よ」
そう言われても、そこは暗く、その闇に私は尻込みした。
子供の頃の私にとって闇は恐怖そのものだった。
そんな私に笑顔を向けると、祖母は手を2回叩いた。
まるで何かを呼ぶように。
すると暗闇の中から何かが顔を出す。
それは、古めかしいフランス人形だった。
まるで生きているかのようにその人形はにっこり笑って天井裏へと手招きをする。
「なにあれ!なにあれ!」
それだけで私の恐怖は吹き飛んだ。
だって、人形が動いたのだから。
祖母に持ち上げてもらい天井裏を覗き込んだ私が見たのはとても不思議な光景だった。
天井裏がまるで劇場のように改造されており、眩いばかりにライトアップされた舞台で人形がお辞儀をした。
フランス人形が私にダンスを披露する、そのあり得ない光景に私はポカンと大口を開ける。
綺麗な光景だった。
まるで夢みたいに。
大はしゃぎする私を祖母が満足そうに見つめていた。
その日の晩、私は夕食の席で祖母に見せてもらったものを家族に話した。
自分が見た素晴らしいものを家族にも伝えたかった。
「何言ってんだよ、昼間はお前ソファでずっと寝ていただろ」
「え?」
兄が小馬鹿にしたように笑う。
「楽しい夢を見たのね」
両親もまるで微笑ましいものを見るように微笑む。
そんなはずはない私は確かに踊る人形を見た、祖母と一緒に。
祖母を見ると彼女は私にだけ見えるように人さし指を口元で立てた。
秘密にね。
そう祖母が言いたいのだと分かった。
私は何か特別なものを見せてもらったのだと、そう思った。
特別な思い出。
だけど忘れてしまった思い出。
なぜ忘れてしまっていたのだろう?
夢……だから?
あの日見たのは魔夢だったから?
夢は人の記憶には残らない。
それは儚く美しく、仄暗く恐ろしい。
なのに見たという事実だけを残して私たちの記憶から消えていく。
それでもあの日見た光景は確かに現実だった。
……………………………
…………………
……
陶器でできた人形の腕が首筋をなぞる。
まるで懐かしむように。
なぜ彼女を恐ろしいと思ってしまったのだろう。
それはただ押し入れから出ようとしているだけだった。
懐かしい友人の気配を感じ取って。
ただ、私に見つけて欲しいだけだった。
上を向く。
天井の板がずれ、屋根裏の空間が見えていた。
その隙間から白い人形の腕が、寂しそうにぶら下がっていた。
ああ、彼女はあの日からずっとそこにいたのだろう。
私が忘れてしまっても、たった1日のショーを思い出に。
背を伸ばし、天井の板を持ち上げる。
埃が舞う。
天井裏はあの日私が見た光景とはかけ離れていた。
蜘蛛の巣が張り、剥き出しの木材が静かに天井を支えている。
記憶よりずっと暗くて狭い。
ライトアップされた舞台などなく、くたびれた舞台のポスターが壁に貼り付けられているだけ。
そして、そこにあの日の人形がいた。
埃を被り、静かに私を待っていた。
気配を感じて振り返ると、私と同じ身長になった人形もそこにいた。
彼女は記憶と違わず、優雅で綺麗だった。
「おかえり、牡丹」
あの日見た記憶と全く同じ動作で彼女はお辞儀をした。
なぜだろう、涙が頬を伝った。
おかえり。
おかえり。
私はその言葉を言う側だった。
仕事にから帰ってきた養父におかえり。
この夏休み、私はこの家で1人だ。
学校から帰った私にその言葉をかけてくれた人たちはもういない。
おかえり。
その言葉がどんなに恋しかったのだろうか。
彼女は私の帰りを待ってくれていた。
私の帰りを待ってくれる人がいた。
「ただいま」
そうして私は鍵を閉め…………初めてこの家に帰宅した。
……………………………
…………………
……
「ただいま」
その言葉を発しても返事はなかった。
そのことにおやっと思う。
ここのところ、お帰りなさいと言うどこかよそよそしい声が毎日のように聞こえてきたというのに。
引き取った姉の娘とはあまりうまくいっていない。
特別問題はなくお互い喧嘩もしないが、それはただ単に距離を取られているだけだと、そう感じる。
無理も無いあまりにも突然のことすぎた、なにもかも。
自分自身まだあの人たちがいないなんて信じられない。
あの娘が自分の殻に籠ったって誰も責めやしないだろう。
自分は大人だから、悲しくても働いて生きていかなければならない。
人の生き死にで立ち止まることは……できない、例えそれが肉親でも。
残酷だけど、それが現実だ。
だけどあの娘は子供だ。
子供なのだから、存分に立ち止まり、泣けばいい。
親の代わりにはなれないと自分を罵ってくれたっていい。
ただ自分の存在がせめてもの慰めになればと思った。
どこか懐かしさの抜けない母の家であの娘を探す。
返事がないと言うことは出かけたのだろうか?
どこへ?
結局自分は彼女のことを何も知らない。
年頃の娘の考えることなんてわからないし、子育ての経験も皆無だ。
最近そのことが頭を悩ます。
彼女が寝室に使っている和室を覗くと、そこにあの娘はいた。
とんでもなく部屋を散らかして。
押し入れから引っ張り出したであろう布団の山に横たわってだらしなく眠っていた。
埃まみれの人形を抱いて。
これは……説教した方がいいのだろうか。
どうしようもない状況に頭を抱える。
どこから引っ張り出したのだろうか、段ボールがこじ開けられ、アルバムや玩具があたりに散らばっている。
今日まで大人しく言うことを聞いてくれていたのだが。
そういえば今朝はなんだか様子がおかしかった。
起こして、片付けさせなければいけないだろう。
そう思ってかけようとした声が喉元で止まる。
彼女の頬に涙の跡を見つけたから。
そうだ。
悲しいに決まっているじゃないか。
たとえ自分の前で弱音を吐かなくったって……泣いているに決まっているじゃないか。
そうだ。
暴れればいい。
誰も責めやしない。
それだけの悲しみがその肩には乗っているのだから。
ただ、静かにその部屋を出た。
彼女を起こさないように。
ただ……あの娘の慰めになれない自分が…………あの娘をひとりぼっちにした現実が
ひどく残酷だった。
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魔女は夢見る 黒葉 傘 @KRB3
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