第8話 過眠症


「ルルン、優しい人好き。芳杏、願い事できたらルルンに言う。わかった?」

「……わ、わかりました」


 彼女の気持ちは素直にうれしいし、厚意をむげにするのも気が引けて、とりあえずうなずいておいた。

 まあ、顔を合わせる期間は約二ヶ月。特別お願いするようなこともないだろう。


「それより、気になっていたことがあるんですけど、なぜ池の中にいたのでしょう? 泳いでいて足をったんですか?」

「違う! ルルン、泳げない。ルルン、橋の上から池見てた。そしたら誰か、ルルンの背中押した」

「……橋の上から押された?」


 確か、彼女が溺れていた池の中央部には赤い虹橋があった。泳げない人が池の真ん中に落ちたら無事では済まない。


「誰がそんなひどいまねを……?」

「わからない」


 ルルンは悲しそうに首を横に振った。


「当然、東廠とうしょうや宦官を動員して調査したが、目撃者が誰もおらず、犯人の特定は難しい状況だ」

「昨日、他の秀女も危ない目にあいましたよね。そうだ、香蓉様は……?」


 朧月の説明を聞き、明琳は香蓉のことを思い出して尋ねる。


「彼女も無事だ。毒が回らないように安静にさせているが、命に別状はない。ただ、こちらも犯人に結びつく手がかりがなくてな。もちろん調査と警戒は続けるが」


 ――秀女が入宮した日に、倒れた妃候補が二人も……。これって――。


「お待たせいたしました。白牡丹と蒸留酒をお持ちしましたが」


 ある可能性について考えを巡らせていると、部屋の外から女官の声が響いた。


「入れ」


 朧月が女官に許可を出し、運ばれてきた品から明琳に視線を移して尋ねる。


「ご所望の品が届いたぞ。それで、どうするつもりだ?」


 まあ、考えたところでどうにもならないし、今は目の前の問題から片づけよう。

 明琳は気持ちを切り替え、ふところから取り出した手巾ハンカチに蒸留酒を染みこませた。


「ちょっと、何をしているのよ?」


 暁華が怪訝そうに尋ねてきたが、何も言わずに手巾を桂玉の鼻柱に近づける。


 数秒間、蒸留酒の匂いをがせると、桂玉はパッと目を開け、勢いよく上体を起こした。


「起きたわよ!? どれだけ揺さぶっても目覚めなかったのに……」


 暁華が桂玉に驚きの眼差しを向け、朧月は不思議そうに明琳を見て尋ねる。


「いったいどういう原理だ?」

「意識を覚醒させるのには、匂いってかなり効果的なんです。気付け薬にもよく香料が用いられているんですよ。蒸留酒は特に芳香性と刺激性が強いので、この匂いを嗅がせれば一発かと思って」


 本当は度数の高い洋酒が一番効果的なのだが、ここにはないだろうから。

 蒸留酒でも十分効果はあったようだ。


「桂玉様、立ちあがれそうですか?」

「……まだ頭がボーッとします……」

「でしたら、こちらをどうぞ」


 明琳はすぐにお茶を淹れ、桂玉に茶杯を手渡した。

 桂玉はお茶を口に含み、覚醒したような顔をしてつぶやく。


「これは……。白牡丹?」

「飲んだだけでわかりますか。さすが豪商のお嬢様ですね」

「……何か、少し頭がスッキリしました」


 暁華が珍獣でも見るように桂玉を観察しながらこぼす。


「この子が目をちゃんと開けているところ、初めて見たわ……。今度はどんな医術を使ったのよ?」

「医術ではないですよ。白牡丹に含まれる咖啡因カフェインの効果です。咖啡因には眠気を覚ます作用があるんです。疲労の軽減や運動能力向上効果もあります。この国で最も珈琲因が含まれている飲み物が緑茶や白茶。特に芽や若葉を多用した白牡丹が――」


 ぺらぺらと効用を語る明琳だったが、しゃべりすぎていたことに気づき、言葉を呑み込んだ。

 皆、ポカンとした顔で明琳を見ている。

 ……つい蘊蓄うんちくを垂れ流してしまった。


「この白牡丹があれば眠気から解放される……?」


 期待の眼差しを向けてくる桂玉に、明琳は気を引き締めて答える。


「いえ、一時的なもので根本的な解決にはなりません。睡眠障害に咖啡因の過剰摂取は禁物ですよ。桂玉様は年がら年中眠気に悩まされているのですか?」

「……ええ。日中もずっと眠くて、半日寝ても眠気が収まらないんです」

「寝入りばなに金縛りにあったり、現実と区別がつかない夢を見ることはありますか?」

「……はい。よくあります」


 腕を組んで考え込む明琳に、暁華が首を少し傾けて尋ねた。


「彼女が単に寝穢いぎたなくて物ぐさなだけなんじゃないの?」

「違うみたいですね。ずばり、桂玉様は過眠症です」

「過眠症!?」


 秀女二人が驚きに声を揃え、朧月も目を見開いて質問する。


「そんな病があるのか?」

「ええ。まれにそういう症例の患者がいると、西洋の医術書に書いてありました。中枢神経系の機能異常が原因と考えられているそうです」

「中枢神経系って、脳のことよね?」

「……一生治らないのですか? この眠気」


 暁華と桂玉が不安そうに明琳の顔を見た。


「そんなことはありませんよ。過眠症に効果のある漢方薬があります。酸棗仁湯さんそうにんとうっていうんですけど。今、処方箋しょほうせんを書きますね」


 明琳はすぐに筆や墨を用意し、中央の卓子で紙に文字をつづっていった。

 構成生薬は酸棗仁さんそうにん川芎せんきゅう甘草かんぞう茯苓ぶくりょう知母ちもの五種。主薬となる酸棗仁は実太棗さねぶとなつめの種子を用いた生薬だ。この種子には精神安定作用があり、睡眠障害を改善させると言われている。


「すごい知識量だな。医術書を全て暗記しているのか?」

「い、いえ、漢方にも興味があって、偶然覚えていただけでして……」


 明琳は謙遜けんそんして言葉尻をにごした。本当は父の医院で調薬も担当していたから知っていたのだが、言えるわけがない。


「芳杏、すごい! 優しくて頭もいい!」


 ルルンは明琳に尊敬の眼差しを向け、桂玉も目を輝かせながらコクコクと頷いた。


 ……まずい。医院を手伝っていた時の癖で、つい薬学の知識まで披露ひろうしてしまった。目立ちたくなかったのに。

 でも、ここまで関わって知らんぷりをすることもできないし、仕方がない。


「どうぞ」

「ありがとうございます。でも、これをどこに持っていけば……?」


 処方箋を手渡すと、桂玉が戸惑った様子で訊いてきた。


 ――あっ、ここは町じゃないから、恵民けいみん薬局とかないんだった。


「後宮の北に医療所と併設した生薬庫せいやくこがある。そこへ持っていけばいい。案内しようか?」

「い、いえっ、提督東廠様のお手をわずらわせるわけには……! 講義が終わったら自分たちで調べて行きますのでお構いなく。今は時間もありませんし」


 朧月の申し出を明琳は慌てて断った。これ以上提督東廠と接点を持つわけにはいかない。


「そうだわ。早く準備しないと講義に遅れちゃう!」


 明琳の言葉を聞いた暁華がハッとして告げる。


「急いで食べましょう!」


 これ幸いと、明琳は運んできてもらった朝食に手を伸ばした。

 さすがに朧月も遠慮して部屋から出ていくだろう。

 これ以上彼とは関わらないようにしなければ。

 朝食をかき込みながら、そう心に強く決意した。

 のだったが――。

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