第6話 医者を目指す理由
「あとは毒を吸い出すだけなのですが……」
少し
「何か問題でもあるのか? 毒を吸い出すだけでいいなら俺がやろう」
「お待ちください! 口に傷や虫歯があったりしませんか? その場合、毒が歯茎や傷口から体内に浸透して危険です」
傷口に顔を近づけようとした朧月に、明琳はすかさず忠告した。
「そうなのか……。俺は唇が少し荒れているからやめておいた方がいいな。口に傷や虫歯がない者はいないか?」
朧月は暁華と侍女に目を向けて尋ねる。
「お嬢様のお役に立ちたい気持ちはありますが、私は虫歯があるので……」
「わ、私もちょっと……」
侍女と暁華はばつが悪そうに答えた。
自覚症状はなくても毒に冒される危険はあるので仕方がない。
明琳は苦悩に満ちた顔をして考え込む。
自分も少し前に口内炎ができていたから、やめておいた方がいい。でも、口に傷や虫歯がない人を探していたら、毒が回ってそのぶん危険が大きくなる。
毒の治療には迅速な処置が必要なのだ。躊躇している場合ではない。
「芳杏様!?」
傷口に唇を寄せた明琳に驚き、暁華が声をあげる。
明琳は傷口から毒に冒された血を吸い取って、水が入っていた桶に吐き出した。
それを数回繰り返し、清潔な布巾で口もとを拭って告げる。
「とりあえず、できることはやりました。あとは
朧月は少しの間、明琳を無言で見つめ、心配そうに問いかけた。
「そなたは大丈夫なのか?」
「ええ、今のところは」
明琳は平然として答え、卓子の近くにいた侍女に依頼する。
「普洱茶を一杯淹れてもらえますか? そこにある冷めたお茶で構いません」
「……は? はい!」
不可解そうな顔をする侍女だったが、すぐ茶杯にお茶を注いで明琳に手渡した。
「あなた、こんな時にお茶を飲むなんて、何を
注意しようとした暁華が、次なる明琳の行動を見て、目を丸くする。
お茶を口に含んでいた明琳は、口内を丁寧にゆすいですぐ桶へと吐き出した。
「ちょっと、何をやっているのよ!?」
「消毒ですよ。普洱茶はお茶の中でも
淡々と説明する明琳を、暁華と朧月は
「そなたも口内に虫歯か傷があったのではないか? 消毒できるといっても、茶では限度があるだろう。なぜあんな危険なまねを……?」
「そうよ。あなたも彼女にひどいことを言われていたじゃない! こんな人のためにどうしてそこまで……」
「相手がどんな人かなんて関係ありません。目の前に患者がいたら誰であっても全力で助ける。それが医療に携わる者が果たすべき責務ですから」
明琳は胸に手を当てて答え、以前父に言われた言葉を思い出す。
『明琳、医者を目指すのであれば、良心と尊厳を持って医療にあたらなければいけないよ。何よりも人命を尊重し、患者に尽くすこと。それができない者に医者になる資格はない』
医者を目指すようになってから、ずっとその言葉を胸に生きてきた。
明琳は父の本当の娘ではない。幼い頃、記憶を失い瀕死の状態で倒れていたところを助けられ、養女として育てられた。父から医術と献身、無償の愛を与えられたことで、憧れを抱くようになったのだ。自分も父のように誰にでも手を差し伸べられる立派な医者になりたいと。
「……芳杏。そなたは……」
過去に思いを巡らせていると、朧月が静かに声をかけてきた。
明琳はハッと我に返って言い
「って、知り合いのお医者さんが言っていたんですよね! 今のは受け売りです。私も医療を施すのであれば、そうあるべきだなと思って。ははは……」
……まずい。つい医者まがいの言葉を口にしてしまった。
感情の
――医者の娘だってバレていないよね……?
内心あせる明琳を感慨深そうに見つめ、朧月は微笑を浮かべて言った。
「そなたのような女もいるのだな。今後、医学にまつわる問題で何かあれば、そなたを訪ねよう」
「いや、そういう時は私じゃなくて後宮の医官を訪ねてください! 私は官吏の娘で、ただの秀女なんですから!」
明琳は必死に訴え、心の中で「ひぃ~」と悲鳴をあげる。
――つい首を突っ込んでしまったけど、これ以上目立たず大人しく過ごしたいんだってば~!
叫びたくなる明琳だったが言葉を呑み込み、医官が来るやいなや逃げるように部屋から出ていった。
◇ ◇ ◇
執務室の外から扉を叩く控えめな音が響く。
卓子の前に座って執務をこなしていた朧月は、「入れ」と許可を出した。
「失礼いたします」
黒い
朧月の警護を勤める
「調査を頼んでいた事件のことだな? 報告しろ」
星宇は「はっ」と返事をし、戸口に立ったまま口を開く。
「李香蓉は一命を取り留め、回復に向かっているようです。溺死しかけた秀女も命に別状はないとのこと。毒蛇の侵入経路はまだわかっておりません。ただ、何者かが持ち込み、李香蓉の部屋に忍ばせたのは間違いないかと」
朧月は頭痛をこらえるように
「秀女たちが入宮した日から問題だらけだな」
四夫人候補が二人も殺されかけるとは。
早くも皇后の座を巡る争いが始まったということか。
「あの、あまり関わりになられない方がよろしいかと。争いに巻き込まれては危険です」
「問題ない。俺にも武芸の心得はあるからな。それに、身分を隠しているのだ。わざわざ『提督東廠』に手を出す
「……御意」
星宇は少し不服そうに答え、拱手をして部屋から出ていった。
彼の
だが、新しい後宮が開かれて早々、立て続けに事件が起こるとは……。
――本当にうんざりするな。
この日あったことを思い出し、朧月は再び溜息をついた。
だが次の瞬間、芳杏の顔が
目はつぶらで顔の形も丸く、小柄な体をせっせと動かしていた。まるで小動物のような印象を持つ女性。
伴侶に相応しい相手がいないか個人的に探していた時期もあったが、あんなに気骨があって義侠心に満ちた女性には会ったことがない。誰よりも賢く、真っ直ぐで思いやりもある。
医療を施している姿は気高くて美しいのに、慌てた顔はかわいらしかった。会うたびに興味を惹かれてしまう。
「本当に面白い」
朧月は窓から明琳がいる部屋の方角を眺め、楽しそうに微笑むのだった。
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