第5話 毒の治療法


「どうした? 悲鳴が聞こえたが、何かあったのか?」


 騒ぎを聞きつけたのか、誰かが後ろから駆け寄りながら声をかけてきた。

 明琳は聞き覚えのある声に嫌な予感を覚えつつ振り返る。


 提督東廠の朧月だ。明琳の天敵でもある彼が宦官を伴い、部屋に入ってきた。

 いくら関わりたくなくても、この状況で彼を無視することはできない。


「香蓉様が……」


 明琳は倒れている香蓉を指し示し、朧月と一緒に彼女に近づいていった。


「おい、しっかりしろ!」


 朧月は香蓉のそばに膝をつき、彼女の上体を抱き起こして呼びかける。

 だが、香蓉は息をしていたものの、何一つ反応しない。


「直ちに医官を呼べ!」

「はっ、ただ今」


 駆け去っていく宦官から明琳たちに視線を移し、朧月は厳しげな表情で尋ねた。


「第一発見者は誰だ? 状況を説明しろ」


 いまだにふるえていた侍女が、おずおずと手をあげて答える。


「わ、私です。お嬢様に頼まれてお茶をご用意した後、しばらく部屋を離れていたのですが、戻ったらお倒れになっていて……」


 医官が来るのを待った方がいいだろうか。

 でも、早めに処置を施さなければ手遅れになる可能性がある。

 明琳は香蓉の隣に膝をつき、脈を取りながら彼女の様子を注意深く観察した。

 意識が混濁こんだくしていて、脈が速い。発熱と発汗があって呼吸も苦しそうだ。

 彼女は少し前まで元気に動いていた。


「香蓉様に何か持病はあるのですか?」

「い、いえ。昔から体はお丈夫で、健康そのものなはずです」


 侍女の返事を聞いて、明琳は香蓉の容態を観察しながら考える。

 健康な人間が突然こんなふうになる原因として考えられるのは一つ。


「これは毒による症状かもしれません」

「毒!? まさか、そんな……」


 侍女が驚きの声をあげ、更に大きく体を震わせた。


「はっきりとはわかりませんが……。何が原因であるかによって処置は変わってきます。まずは病因を突き止めなくては」


 明琳の話を聞いた朧月は周囲を見回し、近くにある卓子つくえの下に着目する。


茶杯ちゃはいが落ちて割れているな。あのお茶に毒が含まれていたのではないか?」


 明琳も朧月が指差した茶器に注目し、卓子へと近づいていった。

 卓子の上には茶葉の入った茶壺チャフー茶海ピッチャーが置かれ、床には割れた茶杯からお茶がこぼれている。


「……まさかあなた、香蓉様に毒入りのお茶を……」


 暁華に疑いの目を向けられた侍女は、すぐにかぶりを振って主張した。


「違います! 私が出したのは普通の普洱プーアル茶です! 渋めのお茶がお好みなので、要望に合わせてご用意しました。毒なんて盛ってません!」

「でも、この状況はどう考えても……」


 尚も疑う暁華だったが、明琳が取った謎の行動に驚いて声をあげる。


「あなた、いったい何をしているの!?」


 明琳は髪に挿していた銀のかんざしを外して、茶海の中に浸しながら答えた。


「このお茶に毒が含まれているか、調べているんです。毒が入っていたら、銀が黒く変色するはずですから」


 刺客が標的の毒殺を謀る際に用いる一般的な毒物といえば砒霜ひそだ。無味無臭で混入させやすく疑われにくい。ただ、銀を用いると砒霜に含まれる硫黄いおうに反応して硫化し、黒くなる。

 しばらく様子をうかがうが、簪を取り出してみても色に変化はない。


「変わらないな。では、お茶が原因ではないのか?」

「断定はできませんが、お茶以外の可能性が高いでしょう」


 明琳は朧月にそう答え、部屋の入り口にいる侍女に目を向けた。


「彼女は他に何か口にしていましたか?」

「いいえ。ここではそのお茶以外何も口にされていないはずです」


 毒は口から体内に入るだけとは限らない。外的要因の可能性もある。

 明琳は再び周囲を観察し、少しだけ開いていた窓に着目した。


「窓が開いていますね」

「ええ。少し暑いと言われて」


 窓の外に人気ひとけはない。夕日を浴びて黄金色に輝く竹林が静かに広がるばかりだ。

 窓はとても人が侵入できるような大きさではないが、何かを忍び込ませることはできる。毒を塗った刃物、あるいは――。


 ある可能性が頭をよぎり、明琳は香蓉の裙をめくって足もとやふくらはぎを調べる。

 すると、右のふくらはぎに赤い二つの傷跡があった。

 右のふくらはぎだけ青く変色して腫れている。


「これは……?」

ヘビみ傷のようです」


 瞠目して尋ねてきた朧月に、明琳は答えてすぐ注意を促した。


「気をつけて! どこかに毒蛇がひそんでいるかもしれません!」


 近くにいた暁華は「ひぃっ」と怯えて、部屋の外まで逃げる。

 朧月は動じることなく部屋を歩き回り、蛇が潜んでいないか調べた。

 そして、臥牀しんだいの下に隠れていた蛇を発見し、腰にいていた剣を抜き放つ。


「こいつのようだな」

「毒液を飛ばす場合があるので注意してください!」


 朧月はそでを盾にしながら剣で蛇をつつき、臥牀の外へ追いやって体を両断した。


「きゃ~!」


 入り口から様子を見ていた暁華の悲鳴があがる。

 明琳はおびえることなく蛇に近づき、じっくり体を観察した。

 緑褐色の体には不規則な黒斑こくはんがあり、胴の側面には紅斑こうはんが散在している。


「この蛇は山楝蛇ヤマカガシ! 猛毒を持つ毒蛇ですね。この蛇の毒が原因で間違いないようです」


 山楝蛇の毒性は飯匙倩ハブマムシの十倍とも言われ、毒蛇の中でも特に危険度が高い。カエルや魚を捕食するため、多くは湿地や水田地帯に生息している蛇なのだが――。


「なぜ、後宮の部屋にそんな危険な毒蛇が……?」


 明琳も抱いた疑問を朧月が口にする。


「猛毒って……。彼女、助かるの?」


 息をんで尋ねる暁華に、明琳は神妙な顔で答えた。


「素速く正確な処置をすれば。すぐに清潔な水と布巾を持ってきてください!」

「は、はい!」


 明琳に指示された侍女は直ちに部屋から飛び出していく。


 本当は抗毒素こうどくそがあれば一番いいのだが、あれは西洋でもなかなか手に入らない最新の薬剤だ。陽黎国の後宮にあるはずがない。

 ただ、香蓉は栄養状態のいい若者だ。山楝蛇の毒なら処置を間違えなければ、命を失う危険性はそこまで高くない。


 明琳は胸もとの帯をほどき、噛み傷の上を静動脈が軽く浮き出る程度のきつさで縛った。そして、香蓉の頭の下に枕と丸めた布団を置き、心臓を傷口より高い位置にする。毒が心臓に回らないようにするための処置だ。


「持ってきました!」


 治療の下準備を続けていると、侍女が水の入ったおけと清潔な布巾を数枚手にして戻ってきた。


「ありがとうございます」


 明琳は礼を言って受け取り、まずは桶の水で傷口を丁寧に洗い流す。


「これが毒蛇に噛まれた際の治療法なのか。よく知っていたな?」

「え、ええ。知り合いのお医者さんが山楝蛇に噛まれた子どもを治療していたので、それをまねて。昔から医療に興味があったんですよ」


 朧月の問いかけにギクリとして答え、傷口の洗浄を続ける。

 嘘はついていない。父もこうやって山楝蛇に噛まれた子どもの治療をしていた。昔から医者になりたいと思っていたので、父の医療はずっとそばで見て覚えていたのだ。


 傷口を洗い終え、ふくらはぎについた水を布巾で優しく拭き取っていく。

 最後の作業を残し、明琳はいったん手を止めた。

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