第3話 天敵や級友との出会い
身代わりがバレたら克宇はもちろん、自分の首まで飛ぶかもしれない。
何とかごまかさなくては……!
「実は、知人にお医者さんがいまして! 川で溺れた子どもにしていた処置を思い出して、真似てみたんです。いやぁ、うまくいったみたいでよかったですねぇ」
明琳はひやひやしながら答え、作り笑いを浮かべる。
うまく弁明できたはずだ。嘘は言っていない。
「あのような医術は見たことがないが?」
青年は尚も
「そのお医者さん、西洋の医術を学んでいたんですよ~。なので、あちらの医術かと~」
嘘はついていないが、声が少しうわずってしまった。
――お願いだから、これ以上
心の中で祈る明琳を吟味するように見つめ、青年はおもむろに口を開いた。
「……そうか。まあ、助かったからいい。追及はやめておこう。そなたの名前だけ聞かせてもらえるか?」
「は、はいっ。め――芳杏と申します」
つい本名を口にしかけたものの、即座に修正して答える。
どういうつもりで訊いたのかわからないが、すぐに忘れてほしいものだ。
「芳杏か。覚えておこう」
――覚えんなっ。
心の中で抗議しつつ、警戒感をあらわに青年を観察する。
年は二十代半ばくらいだろうか。目は切れ長で
長身で引きしまった体にまとっているのは、
そういえば、この青年は何者なのだろう。
「あの、あなたはどちら様でしょうか?」
後宮は男子禁制だから、女性以外で存在するのは皇帝と宦官のみ。さすがに皇帝ではないはずだ。皇帝がこんな場所に突然現れて池に飛び込み、溺れた人を救うはずがない。皇帝なら
ただ、身なりはよくて態度も少し偉そうだから、警備を担当している責任者あたりだろうか。それにしては、ずいぶん若く見えるけど。
少し考え込むように沈黙する青年だったが目が合うや、かすかに微笑んで答えた。
「俺の名は
「て、提督東廠!?」
思いも寄らない回答に、明琳は驚きの声をあげる。
東廠とは、宦官によって構成された不正を取り締まる特務機関のことだ。官吏や宦官の他、秀女や妃嬪も監察しているという。後宮や遠方の町にまで秘密捜査官を派遣しているらしい。
提督ということは、東廠の長官だ。こんなに綺麗な顔をした若い男性が……。
「どうした? 俺の顔に何かついているか?」
朧月をまじまじと見つめていたことに気づき、明琳は慌てて彼から目を
「いえ、何もっ。あなたも早く着替えて体を温めた方がいいですよ。風邪を引いてしまいますから」
「まあ、そうだな。まずは着替えるとしよう」
「そうしてください。医官も来たようですし、私はこれで失礼しますね!」
殿舎の方から駆け寄ってくる白衣の男性を見て、明琳は立ちあがった。
まずい人に目をつけられてしまったかもしれない。自分には調べられたらまずい事情がある。彼は明琳にとって天敵のような存在だ。これからは関わらないようにしなければ。
急いで朧月から離れ、近くにいた案内役の女官に声をかける。
「案内の途中ですみません。部屋に連れていってください」
「は、はい」
女官は少しビクッとして返事し、殿舎に向かって歩き出した。
後宮を出るまで目立たないように大人しくしていよう。
明琳は胸に誓って女官の後についていく。
後ろから「おもしろい」とつぶやく朧月の声が聞こえたような気がしたが、気のせいだと思うことにした。
池の脇を通り過ぎ、黒い
女官は宿舎の
「こちらが芳杏様のお部屋になります。秀女の講義は明日からとなりますので、今日は自由にお過ごしください。夕食時にまたうかがいますね」
「はい。ありがとうございました」
明琳は案内役の女官を見送り、息をつきながら扉の
まだ後宮に来たばかりなのに、命に関わる大変な目にあった。
――何か気疲れしてしまったし、夕方まで寝ていようかな。
そんなことを考えながら部屋に足を踏み入れた時、室内から女性の声が響いた。
「あら、三人目が来たようね」
明琳は鏡台の前に座っていた女性を見て、動きを止める。
小柄な体に花柄の赤い襦と桃色の裙をまとった佳人だった。年齢は明琳と同じくらい。髪は左右の側頭部で輪っかに結わえ、簪と
明らかに女官ではない。おそらくは秀女だろう。
「あの、ここは私の部屋ですよね?」
明琳は女性と部屋を観察しながら尋ねた。
「あなた、聞いていないの? 秀女はだいたい四人部屋。一人部屋を与えられる秀女なんて、宰相の娘か冊封国の王女くらいよ。あなた、父親のご身分は?」
明琳が勤めていた邸の主人・克宇の役職。
――確か、祭祀や外交を司る部署の次官だったはず。
「
「だったら、この部屋で合っているわ。私だって
「そうなんですね。不勉強ですみません」
何しろ昨日秀女になることが決まったから、予習する時間もなかったのだ。身の回りの整理と入宮の支度だけで精一杯だった。
「私は旺芳杏です。これからどうぞよろしくお願いしますね」
「私は
「そ、そうなんですね」
明琳は奥の
先を越されてしまったようだ。暁華を放って、自分まで寝ているわけにはいかない。
「始めに確認しておきたいのだけど、あなたはどの官位を目指しているの? 同室とはいえ、競争相手になるわけだから。ちなみに、私は
昨日、克宇から聞いた情報を思い出して考える。妃嬪の官位は確か、上から四夫人、九嬪、二十七世婦だったはず。暁華は上昇志向が強い女性のようだ。
敵視されたくはないし、正直に話した方がいいかもしれない。
「実は私、父に無理やり後宮に入れられて、妃嬪にはなりたくないんです。講義は真面目に受けますが、二月後には後宮から出ていくつもりでいます」
「あら、もったいない。家柄も重視されるから、礼部侍郎の娘なら上級妃嬪も狙えるのに。まあ、目指すところが違うのはいいかもね。同室同士でいがみ合いたくはないから。あなたの意思は尊重するわ」
明琳は「ふぅ」と小さく息をつき、安堵の笑みを浮かべる。
彼女には正直に言ってよかったみたいだ。
「桂玉様は何を目指していらっしゃるのでしょうか?」
「聞いたけど、二十七世婦の才人がいいらしいわ。最下級でも妃嬪になれば衣食住は保証されるから。ここではなるべく働かず、寝て過ごしたいのですって」
「な、なるほど」
確かに、かなり変わり者のようだ。そういう考えの秀女もいるとは……。
唇を引きつらせていた明琳に、暁華が明るく問いかける。
「ねえ、このまま部屋にいてもつまらないし、後宮を見て回らない? 選抜試験を勝ち抜くために情報収集はしてあるけど、全てを把握しているわけではないから。暇なら私に付き合ってよ」
明琳はどうするべきか少しの間考え込む。
部屋で大人しくしていたかったが、散歩に付き合うくらいならいいか。同室の秀女とは問題が起こらないようにうまくやっていきたい。
「いいですよ。軽く歩き回る程度なら」
「ありがとう。同室にまともな人がいてよかったわ。さっそく行きましょう!」
笑顔の暁華に腕を引かれ、明琳は後宮の散策へと繰り出した。
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