第2話 心肺蘇生術


 色鮮やかな衣裳いしょうを着た秀女たちが後宮の門前に集い、名前を呼ばれるのを今か今かと待っている。

 皆、化粧もバッチリ決め、さも自分こそ妃嬪に選ばれるのだと言わんばかりの自信に満ちた表情だ。


 そんな集団の隅に浮かない顔をしてたたずむ秀女が一人。

 結いあげた長い黒髪の一部をかんざしを挿してまとめ、残りは背中に流している。

 細身の体にまとっているのは、薄桃色の地味なうわぎに、足もとまで垂れる白いスカート。化粧も薄く、他の秀女に比べるとずいぶん飾り気がない。

 もっとも、彼女としては十分にめかし込んだつもりだったのだが。

 

 ここに来て、場違いだと気づいた明琳はうつむいて肩を縮めた。

 好条件に引かれて、後宮の前までやって来たけれど、やっぱり不安すぎる。

 周りにいるのは、名家のご令嬢と思われる美しい女性ばかりだ。


「――芳杏様。旺芳杏様はいらっしゃいませんか?」


 周囲を観察していた明琳は呼ばれていることに気づき、慌てて返事をした。


「はいっ! 芳杏様は私です!」


 女官や秀女たちが面食らった顔をして明琳に注目する。


「お、お部屋までご案内いたします。こちらへどうぞ」


 案内役の女官が明琳を見てわずかに唇を引きつらせ、門に向かって歩き出した。


 明琳は内心ひやひやしながら女官の後についていく。

 うっかり自分の名前に『様』をつけてしまった。……すぐにはお嬢様にはなりきれない。

 こんな調子で二ヶ月もバレずに演じきれるだろうか。


 門番に身分証兼通行証であるはいを見せ、女官と一緒に巨大な門を通り抜ける。牌はもちろん芳杏であることを証す本物だ。今朝、克宇から預かった。


 ――今日から私は旺芳杏。今日から私は旺芳杏。 


 自分に言い聞かせながら歩いていると、道の脇の緑地に群生する植物が目に入った。

 大葉子おおばこ当帰とうき黄金花こがねばな鋸草のこぎりそう。下薬、中薬、上薬まで。どれも漢方薬としても使える薬用植物だ。道の脇から建物の近くまで所狭しと生えている。


 ――もしかして、後宮ここって薬草の宝庫じゃない?


「芳杏様? どうかされましたか?」


 少し先まで進んでいた女官が振り返って尋ねてくる。


「いえっ、何でもないです!」


 植物に目を輝かせていた明琳は、ハッとして女官の後を追った。

 ここでは趣味の薬草収集や医療の研究も封印しないといけない。自分はもう町医者の娘ではなく、良家のお嬢様なのだから。

 旺芳杏になりきらなければ――。


「きゃ~!」


 気を引き締めながら歩いていた時、遠くから女性の悲鳴が響いた。


「人が溺れているわ! 誰か助けにきて!」


 続いてあがった声を聞いて、明琳は即座に走り出す。

 溺水できすいした時間が長いと血液中に酸素が行き渡らず心停止を引き起こし、かなり危険だ。水を飲みすぎた場合は、早めに処置を施さなければ命取りになる。


 悲鳴が聞こえた方向へ急いで向かっていると、赤い虹橋こうきょうを備えた立派な池が見えてきた。

 周囲には秀女や女官たちが数名集い、池の中央部を青ざめた顔で眺めている。

 その視線の先、虹橋の近くに手を必死に動かしながら沈む女性の姿が見えた。

 明琳の位置から池までは、まだ距離がある。このまま沈んでいってしまえば手遅れになりかねない。

 危機感を覚えた直後、身なりのいい青年が虹橋へと駆け寄ってきて、勢いよく池に飛び込んだ。


 すでに女性は池の底へと沈んでいたが、青年に体を抱えられて水面みなもの上に顔を出す。

 青年はグッタリした女性を腕に抱えながら泳ぎ、池辺へとゆっくり近づいていった。

 そして、彼らのもとへと駆け寄ってきた二人の宦官に指示を出す。


「すぐに医官を呼べ!」

「はい、ただ今!」


 一人はそう答えて殿舎の方へ駆け去っていき、もう一人は青年と一緒に女性を池の岸へと引きあげた。


「おい、大丈夫か?」


 青年が岸辺に寝かせた女性の肩を揺さぶり、心配そうに声をかける。

 だが、すでに女性の意識はなく、言葉どころか息一つもらさない。


「脈も呼吸もありません!」


 女性の手首を押さえながら口に耳を近づけていた宦官が青年に報告した。


 ようやく近くまで辿りついた明琳は、倒れた女性や周囲を観察しながら考える。

 脈と呼吸がない場合、やるべき処置は心肺蘇生術だ。

 誰かここに使える人はいないのだろうか。

 人々の顔を見回して、すぐに思い出す。心肺蘇生術は父が西洋の国に留学して学んだ医術だ。先頃まで排外的だった陽黎国ではまだ知れ渡ってはいないだろう。


 ぐずぐずしている場合ではない。自分がやらなければ――。


「どいてください! 私が助けます!」


 明琳は周囲に集まった人々をかきわけ、倒れている女性のそばに膝をつく。

 胸と腹部に全く動きがなく、やはり呼吸は停止しているようだ。

 胸の真ん中に手の付け根を置き、両手を重ねて圧迫する。肘を真っ直ぐ伸ばし、女性の胸が沈むほど強く圧迫を繰り返した。素速く絶え間なく何度も。


 三十回ほど繰り返しただろうか。女性の容体に変化はない。

 次に明琳は女性の額を右手で押さえながら、左手の指先をあごの先端に当てて持ちあげた。

 気道を確保し、息をゆっくり深く吹き込む。

 それを二回。


「そなた、いったい何を……!?」


 青年が驚き入った表情で問いかけてきた。

 明琳は答えず、無我夢中で胸骨の圧迫を続ける。


 また三十回ほど繰り返し、人工呼吸に切り替えようとした時――。

 女性が水を吐き出し、グッタリしたまま何度かき込んだ。


「息を吹き返した!?」


 そばにいた宦官が吃驚の声をあげ、女性の顔をのぞき込む。

 明琳は女性を横に寝かせ、背中をでながら女官たちに指示を出した。


「すぐに着替えの準備を! 体をしっかりいて温めてあげてください!」

「……は、はい!」


 近くで様子を見ていた女官が返事し、慌てて殿舎の方へ向かっていく。


 ホッと息をついていると、隣にいた青年が瞠目したまま明琳に声をかけた。


「そなたは……?」


 明琳はハッとして青年に目を向ける。

 人の目など気にせず、陽黎国では最新とも言える医療を施してしまった。医者の娘であることがバレたらまずいのに。つい夢中になりすぎて。


「さっきの医術は何だ? そなた、いったい何者だ?」


 青年がいぶかしげに尋ねて、明琳を凝視ぎょうしする。

 明琳は顔から血の気を引かせ、危機感をあらわにした。


 ――さっそく疑われてる? 後宮に来て早々、やってしまった……!?

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