■第3章:千尋の秘密

「お疲れ様でした!」


レコーディングを終えた瑠姫に、スタッフが声をかける。綾乃とのデュエット曲の収録は順調に進んでいた。


「ありがとうございます」


更衣室に向かう途中、千尋とすれ違った。


「瑠姫さん、今日も素敵でした!」


いつものように無邪気な笑顔。その純粋さに、瑠姫は微かな痛みを感じる。


(私の嘘、いつまで続くのかな)


「あ、瑠姫さん」

「はい?」

「今度、新曲の相談に乗ってもらえませんか?」


断る理由はなかった。むしろ、千尋の才能は事務所の宝になるはずだ。


「分かったわ。じゃあ、明日の午後……」


その時、廊下の向こうから慌ただしい足音が聞こえた。


「千尋ちゃん!衣装合わせの時間だよ!」


スタイリストが声を掛ける。


「あ、すみません!」千尋は瑠姫に向き直り、「じゃあ、明日楽屋で!」


そう言って走り去っていった。


(楽屋……?)


瑠姫は不安を感じた。楽屋は危険すぎる。自分の正体がばれるリスクが高すぎる。


でも、今から場所を変更するのも不自然だ。


(明日は、特に気をつけないと)


その予感は、的中することになる。


    ◆    ◆


翌日。

約束の時間より少し早めに楽屋に入った瑠姫は、慌ただしく化粧を直していた。


「よし、これなら……」


その時、ノックの音。


「瑠姫さん、来ました!」


千尋の声だ。しかし――。


「ちょ、ちょっと待って!」


慌てて声を上げたが、既にドアが開いていた。


千尋が楽譜を手に入ってきた瞬間。

瑠姫の手は、メイク落としのコットンを握ったまま。

顔の半分は、素顔のまま。


時間が止まったように感じた。


千尋の目が、大きく見開かれる。

楽譜が、床に落ちる音が響いた。


「瑠姫……さん?」


声が震えている。


瑠姫は、ゆっくりと立ち上がった。

もう、隠しようがない。


「私は……」


言葉が途切れる。

千尋は、一歩後ずさった。


「男……なの?」


その問いに、瑠姫はただ黙って頷いた。


「どうして……」


千尋の目に、涙が浮かんでいた。


「どうして、騙したんですか!」


その言葉が、ナイフのように突き刺さる。


「私、瑠姫さんのことを……」


千尋は声を詰まらせた。


「信じてました。憧れてました。全部……嘘だったんですか?」


「違う!」


思わず声が大きくなる。


「私の歌は、嘘じゃない。これは……」


そこで言葉が止まった。

妹との約束。その話を、どう伝えればいいのか。


千尋は、もう聞く耳を持っていないように見えた。


「もう……分かりません」


そう言って、千尋は部屋を飛び出していった。


「千尋さん!」


追いかけようとした瑠姫を、鏡に映った自分の姿が引き止めた。

半分だけメイクを落とした不思議な顔。

男と女の狭間で揺れる、いびつな姿。


(私は……何をしているんだろう)


床に落ちた楽譜を拾い上げる。

そこには、千尋の想いのこもった音符が並んでいた。


「瑠姫さんへ」という文字が、悲しげに微笑んでいる。


    ◆    ◆


それから三日が経った。


千尋は瑠姫との接触を完全に避けているように見えた。

すれ違っても、目を合わせようとしない。


綾乃には、その変化が手に取るように分かったようだ。


「何かあったのですか?」


レッスンの休憩時間、綾乃がそっと尋ねた。


「私には関係ないことかもしれませんが……千尋さん、随分落ち込んでいますわ」


瑠姫は言葉に詰まった。

話すべきか、黙っているべきか。


「先輩は……私の秘密を知っていますか?」


綾乃は静かに頷いた。


「ええ。事務所から聞いています」


「そうですか……」


「でも、それは重要なことではありませんわ」


意外な言葉に、瑠姫は顔を上げた。


「重要なのは、あなたの歌が本物かどうか。私はそれを確かめて、認めました」


綾乃の瞳には、強い信念が宿っていた。


「千尋さんも、きっと分かってくれるはず。時間が必要なだけ」


その言葉は、温かかった。

でも――。


「私、千尋さんの気持ちを、傷つけてしまったんです」


瑠姫は、机の上の楽譜を見つめた。


「彼女は純粋に、私のことを……」


そこで言葉が止まる。

言葉にすることが、怖かった。


綾乃は長い間黙っていたが、やがて静かに言った。


「なら、歌で伝えればいい」


「え?」


「あなたの本当の想いを、歌に込めて」


その瞬間、瑠姫の中で何かが閃いた。


千尋の書いた楽譜。

まだ、歌っていない歌。


(そうか……)


瑠姫は立ち上がった。


「先輩、ありがとうございます」


綾乃は小さく微笑んだ。


    ◆    ◆


「千尋さんの新曲、歌わせてください」


翌日、瑠姫は事務所の社長室で頭を下げていた。


「ふむ」社長は腕を組んで考え込む。「デュエット曲の練習の最中だが……」


「私からの提案です」


背後から、綾乃の声が響いた。

振り向くと、彼女は優雅に腕を組んで壁に寄りかかっていた。


「デュエット曲の収録は順調です。少し時間を作っても、問題ありません」


社長は意外そうな表情を浮かべた。


「綾乃君が言うなら……」


そうして、特別なミニライブが決まった。

事務所の小さなホールで、スタッフと関係者だけを集めて。


練習期間は、たった3日。


「本当に大丈夫なの?」

マネージャーが心配そうに尋ねる。


「はい」


瑠姫の声には、迷いがなかった。

千尋の書いた楽譜を、何度も何度も読み返す。

その一音一音に込められた想いを、必死に感じ取ろうとする。


(この曲を、私なりの想いで返したい)


そして、当日。


ホールには、事務所のスタッフが集まっていた。

最後列の隅に、千尋の姿もあった。


スポットライトが瑠姫を照らす。

深く息を吸って、目を閉じる。


(瑠奈……見ていてね)


静かにギターを奏で始める。

千尋の紡いだメロディが、空間に溶けていく。


「星空の下で 二人きり

交わした約束は 永遠の光

だけど私は 気付かなかった

その光が 影も作ることを……」


千尋の書いた歌詞に、瑠姫は新しい想いを重ねていく。


「嘘をついて 笑顔見せて

でも本当は 泣きたかった

この仮面の下で 震える心

誰かに気付いて欲しくて……」


歌い進むうちに、瑠姫の目から涙が零れ始めた。

でも、声は途切れない。


「もう一度 信じてほしい

この想いだけは 本物だから

仮面の下の 本当の私を

受け止めて……ください」


曲が終わる。

場内は静まり返っていた。


瑠姫はゆっくりと顔を上げ、最後列に向かって語りかけた。


「千尋さん」


声が、少し震える。


「私は……嘘をつきました。でも、歌は嘘じゃない」


深く息を吸う。


「私には、叶えなければいけない約束があるんです。大切な妹との……」


そこで言葉が詰まる。

でも、続けなければ。


「妹は……病気で亡くなりました。でも最期に、『私の夢を叶えて』って……」


涙で視界が曇る。

それでも、話し続けた。


「だから私は、妹の代わりに歌うことを決めたんです。女装してまで……」


千尋が、ゆっくりと立ち上がる。


「でも、それは言い訳かもしれません。あなたの気持ちを踏みにじってしまった。それは、謝罪しても謝罪しきれない……」


「違います!」


千尋の声が、ホール中に響き渡った。

彼女は走るように、ステージに向かってきた。


「私……分かりました」


涙で顔を濡らしながら、千尋は続ける。


「瑠姫さんの歌に込められた想い。妹さんへの愛。そして……」


彼女は瑠姫の手を取った。


「私への謝罪も、全部本物だって」


「千尋さん……」


「これからは、私が瑠姫さんの秘密を守ります。そして……」


彼女は優しく微笑んだ。


「瑠姫さんの歌が、もっともっと多くの人に届きますように」


その瞬間、会場から大きな拍手が沸き起こった。


後ろの席で、綾乃が小さく微笑んでいた。


    ◆    ◆


それから数日後。

デュエット曲のレコーディングが、順調に進んでいた。


「瑠姫、ここの転調、もう一度お願いします」


千尋がアドバイスする。

彼女は今、レコーディングスタッフとして立ち会っていた。


「はい、分かりました」


綾乃は、そんな二人のやり取りを温かく見守っている。


「綾乃さん、次は二番からでいいですか?」


「ええ、お願いします」


スタジオに、三人の呼吸が溶け合っていく。

それは、まるで小さな奇跡のように思えた。


(瑠奈)

瑠姫は心の中で呟く。

(私は、前に進んでいけそうだよ)


レコーディングブースの窓に映る自分の姿。

それは確かに、嘘から始まった姿だった。


でも、その中身は、間違いなく本物。

そう、胸を張って言える自分に、少しずつ近づいている。


マイクの前に立ち、瑠姫は深く息を吸った。

新しい歌が、また始まろうとしていた。


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