■第2章:音楽のライバル

「遅れないように、と伝えてあったはずですが」


冷ややかな声が、スタジオに響く。


瑠姫は思わず背筋が凍る思いだった。目の前には、日本を代表するトップアイドル・綾乃が立っていた。


完璧な佇まい。膝丈の白いワンピースに身を包んだその姿は、まさに「歌姫」の名に相応しかった。しかし、その瞳に温もりは感じられない。


「申し訳ありません。電車が……」


「プロとして、言い訳は控えめにしたほうがいいですわ」


綾乃の口調は丁寧だが、その言葉の一つ一つが刃物のように鋭い。


「さっそく始めましょうか。時間は既に3分、無駄にしていますから」


スタッフが楽譜を配る。デュエット曲は、綾乃のヒット曲『星月夜』のアレンジバージョンだった。


「まず、私のパートをお聴きください」


綾乃の歌声が響き始める。


その瞬間、瑠姫は息を呑んだ。


透明感のある高音が、まるで空気を切り裂くように伸びていく。それは技術だけでなく、魂が込められているような歌声だった。


歌い終わった綾乃は、冷静に瑠姫を見つめる。


「では、あなたの番です」


重圧に押しつぶされそうになりながら、瑠姫は歌い出す。


しかし――。


「止めてください」


わずか数小節で、綾乃が手を上げた。


「息の流れが不安定です。フレージングも曖昧。感情に流されすぎて、技術が疎かになっている」


的確な指摘が、容赦なく突き刺さる。


「申し訳……」


「謝罪は必要ありません。ただ、このままでは私とデュエットする資格はありませんわ」


綾乃は楽譜を手に取り、細かく書き込みを始める。


「この部分は、もっと抑揚を付けて。そして何より」


一瞬、綾乃の目が鋭く光る。


「素人のような感情任せの歌は、控えていただきたいですわ」


その言葉に、瑠姫の中で何かが反応した。


(感情任せ……?)


「違います」


思わず声が出ていた。綾乃が眉を僅かに上げる。


「感情を込めて歌うことは、間違いじゃない。それは……」


瑠奈の笑顔が、脳裏に浮かぶ。


「大切な人との約束だから」


スタジオが静まり返る。


綾乃は長い間、瑠姫を見つめていた。そして、


「面白いですわ」


予想外の言葉が返ってきた。


「あなたの『感情』が、どこまで通用するのか。見せていただきましょう」


その瞬間、瑠姫は直感的に理解した。

これは単なるデュエットプロジェクトではない。

二つの歌声の、二つの魂の、ぶつかり合いなのだ。


    ◆    ◆


「もう一度!」


練習開始から3時間が経過していた。


瑠姫の喉は既に限界に近かったが、綾乃の声には一切疲れの色が見えない。


「ここのハーモニーが全く合っていません。私の声に合わせてください」


何度やっても、綾乃の求める完璧さには届かない。


「休憩を……」


「本番で休憩は取れませんわ」


容赦のない言葉に、瑠姫の中で何かが切れた。


「どうして、そこまで……」


「何ですか?」


「どうしてそこまで、冷たくできるんですか!」


スタッフ達が、息を呑む音が聞こえた。


綾乃は静かに瑠姫を見つめ、そして、


「冷たいですって?」僅かに苦笑を浮かべる。「私はただ、プロとしての当然の要求をしているだけです」


「プロ……」


「そうですわ。舞台に立つ以上、全てを完璧にする。それが、観客への礼儀」


その言葉に、反論できなかった。


「さて」綾乃がスタッフに目配せする。「本日の練習は、ここまでにしましょう」


帰り際、綾乃が瑠姫に告げた。


「明日は、朝9時から。今度こそ、遅れないように」


その背中が、どこまでも高く見えた。


スタジオを出ると、千尋が心配そうな顔で待っていた。


「瑠姫さん、大丈夫ですか?」


「ええ……」


嘘をつくのは得意なはずなのに、この時ばかりは上手く作れない笑顔。


「私……歌えているのかな」


千尋は黙って瑠姫の手を取った。


「瑠姫さんの歌は、素敵です。私はそう思います」


その言葉は温かかった。でも――。


(これで、いいのかな)


瑠奈との約束。綾乃との差。そして、自分の中の嘘。

全てが重くのしかかってくる。


その夜、瑠姫は久しぶりにギターを手に取った。

かつて瑠奈と一緒に弾いていた曲を、静かに奏で始める。


    ◆    ◆


練習を重ねること一週間。


瑠姫の歌は確実に変化していた。綾乃の厳しい指導の下、技術面での進歩は目覚ましかった。


しかし――。


「何かが足りない」


ある日、綾乃がぽつりとそう言った。


「技術的には随分と良くなりました。でも」


綾乃は真っ直ぐに瑠姫を見つめる。


「最初にあった、あなたらしい『何か』が消えてしまった」


その言葉に、瑠姫は戸惑った。


「私らしい……」


「ええ。あの日、あなたが見せた感情。大切な人との約束を歌に込める、その強さ」


「でも、先輩こそ感情に流されるなって……」


「違いますわ」


綾乃の声が、いつになく柔らかい。


「感情を制御することと、感情を殺すことは、違う」


その瞬間、瑠姫の中で何かが崩れた。


「私……もう分からないんです」


声が震える。


「妹との約束を守りたい。でも、それは本当に正しいことなのか。こんな嘘をついて……」


言葉が止まらない。


「本当は男なのに、女装して。みんなを騙して。それでも歌いたい。歌わなきゃいけない。でも……」


ガチャン!


大きな音が響いた。気付けば、瑠姫は壁に立てかけていたギターを倒していた。


「瑠姫さん!」


駆け寄ってきたスタッフを、瑠姫は振り切るように部屋を飛び出した。


廊下を走る。

どこに向かうのかも分からないまま、ただ走り続けた。


「待ちなさい!」


背後から、綾乃の声が響く。


振り返ると、ハイヒールを履いたまま追いかけてくる姿があった。


「もう、いいんです!」


瑠姫は叫んだ。


「私なんかが、アイドルなんて……」


その時、背後から強い力で引き止められた。振り向くと、綾乃が瑠姫の腕をしっかりと掴んでいた。


「逃げないで」


その声には、今までにない優しさがあった。


「先輩……」


「私も、昔は逃げ出したくなることばかりでした」


綾乃の目が、遠くを見つめる。


「完璧を求められ、それに応えようともがく日々。でも」


彼女は静かに微笑んだ。


「だからこそ、見つけられた自分の歌があるんです」


その時、誰かが駆けてくる足音が聞こえた。


「瑠姫さん!」


振り向くと、千尋が息を切らして立っていた。


「私、作りました!瑠姫さんと綾乃さんのための曲です!」


そう言って、千尋は一枚の楽譜を差し出した。


    ◆    ◆


スタジオに戻った三人。

千尋の書いた楽譜を、綾乃が静かに見つめている。


「素晴らしい才能ですわ」


意外な言葉に、千尋が目を輝かせた。


「本当ですか!?」


「ええ。特にこの展開……」綾乃が楽譜の一部を指さす。「二人の声が、まるで光と影のように絡み合う。面白い構成です」


「実は……」千尋が少し恥ずかしそうに言う。「瑠姫さんと綾乃さんの、それぞれの歌い方を聴いて書いたんです。二人とも、違う形で音楽を愛している。その違いを、一つの曲にできたらって……」


瑠姫は黙って楽譜を見つめていた。

確かに、そこには今までにない響きが記されている。


「歌ってみましょう」


綾乃の一言で、スタジオが動き出す。


伴奏が流れ始める。

綾乃が最初のフレーズを歌い出す。


澄み切った高音が、空間を満たしていく。

そして、瑠姫のパートへ。


(瑠奈……聴いていてね)


今度は、技術に縛られることも、感情に流されることもない。

ただ、自分の中にある想いを、素直に解き放つ。


二つの声が重なり、絡み合い、そして新しい何かを生み出していく。


曲が終わった時、スタジオは深い静けさに包まれていた。


「これだわ」


綾乃が静かに呟いた。


「これが、私たちの新しい歌」


千尋は、涙を浮かべて頷いていた。


その日の帰り道、夕暮れの中を歩きながら、瑠姫は空を見上げた。


(分かったような気がする、瑠奈)


完璧な歌なんて、どこにもない。

でも、だからこそ、人の心に届く歌がある。


明日からまた、練習が始まる。

今度は、新しい目標に向かって。


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