Trilias*(トリリアス*) ~音楽で想いをつないで~

運び屋さん*

■第1章:瑠姫の誕生

■第1章:瑠姫の誕生


夕暮れの音楽室に、ピアノの音色が優しく響いていた。


「お兄ちゃん、ここの部分、もう一回!」

「はいはい」


白いグランドピアノの前で、瑠奈は目を輝かせながら楽譜を指さしている。隣で軽くため息をつきながらも、瑠姫は妹の要望に応えて指を鍵盤に這わせた。


陽が傾いた放課後の小学校。音楽室に残されていたのは、ピアノを囲む兄妹の姿だけだった。


瑠奈の長い黒髪が、夕陽に照らされて柔らかな輝きを放っている。その横顔は、まるで透き通るように白く、儚げだった。


「ねぇ、お兄ちゃん」

「ん?」

「私ね、大きくなったらアイドルになりたいの」


突然の告白に、瑠姫の指が鍵盤の上で止まった。


「アイドル?」

「うん!歌って、踊って、みんなを笑顔にするの!」


瑠奈はそう言って、満面の笑みを浮かべた。その瞬間、夕陽が彼女の笑顔を優しく包み込んだ。


「でも……」


瑠奈の声が少し曇る。


「私、長く生きられないかもしれないでしょ?だから……」


瑠姫は慌てて妹の言葉を遮った。


「そんなこと言うなよ。必ず良くなるって」

「うん、でもね」瑠奈は静かに続けた。「もし私が叶えられなかったら……お兄ちゃんが叶えてくれる?私の夢」


その言葉は、あまりにも重かった。


「瑠奈……」

「約束して?お兄ちゃん」


夕陽に染まる音楽室で、瑠奈は真剣な眼差しで兄を見つめていた。瑠姫は黙って頷いた。その時は、その約束が自分の人生を大きく変えることになるとは思いもしなかった。


---


「瑠姫さん、5分前です」


楽屋のドアをノックする声に、瑠姫は現実に引き戻された。鏡の前で最後の確認をする。長い黒髪、薄いメイク、そして白いドレス。鏡に映る自分は、まるで瑠奈のようだった。


デビューライブまであと5分。


胸の中で、不安と決意が交錯する。こんなことで本当に良いのだろうか。男が女装してステージに立つなんて……。でも、これは瑠奈との約束だ。


瑠姫は深く息を吸い、立ち上がった。鏡の中の自分に向かって、小さく頷く。


「行こう」


ステージの幕が開く直前、瑠姫は心の中で瑠奈に語りかけた。


(見ていてね、瑠奈。僕が君の夢を……)


そして、眩しいスポットライトが瑠姫を包み込んだ。


    ◆    ◆


スポットライトが眩しすぎて、客席が見えない。


それは救いでもあった。今この瞬間、何百という視線が自分に注がれているという事実から、目を逸らすことができる。


音が鳴り始める。イントロの前奏が流れ、瑠姫は深く息を吸った。


(大丈夫、練習通りに……)


しかし、最初の一音を出した瞬間、自分の声が震えているのが分かった。


「キミと出会った 春の日の……」


観客の呼吸が聞こえるほどの静寂。その重圧に、瑠姫の声は更に震えを増していく。


そして、二番の出だしで、ついに起きてはいけないことが起きた。


「夢見る空の……」


違う。これは三番の歌詞だ。


一瞬の混乱で、全てが崩れ始めた。音がズレる。伴奏と合わなくなる。頭の中が真っ白になる。


その時、客席の後方で小さな光が揺れているのが目に入った。誰かがペンライトを振っている。その光が、まるで瑠奈の微笑みのように見えた。


(そうだ、これは瑠奈の夢なんだ)


瑠姫は目を閉じ、妹の笑顔を思い出した。音楽室で一緒にピアノを弾いていた日々。瑠奈が歌っていた時の、あの無邪気な表情。


「すみません、もう一度最初から歌わせてください!」


突然のアナウンスに、会場がざわめいた。バックステージからスタッフが慌てた様子で覗いている。しかし、瑠姫は決意を固めていた。


マイクを握り直し、深く一礼する。


「私の歌を、もう一度聴いてください」


バンドメンバーが互いに顔を見合わせ、そして頷いた。再びイントロが流れ始める。


今度は違った。声が、まっすぐに伸びていく。


「キミと出会った 春の日の午後

桜が舞う校庭で

交わした約束は 今も胸の中

輝きを失わない……」


会場の空気が、少しずつ変わっていく。最初の緊張が解け、温かいものに変わっていく。


ペンライトの光が、一つ、また一つと増えていく。


曲が終わる頃には、会場全体が小さな光で満ちていた。


「ありがとうございました!」


瑠姫が深々と頭を下げると、会場から大きな拍手が沸き起こった。


その日の帰り道、瑠姫は夜空を見上げながら考えていた。

完璧なデビューとは言えなかった。でも、これが始まりなんだ。瑠奈の夢への、最初の一歩。


明日からまた、練習だ。


    ◆    ◆


「瑠姫さん、社長がお呼びです」


レッスン室で発声練習をしていた瑠姫は、マネージャーの声に振り向いた。デビューから一ヶ月が経ち、ようやく日常のリズムが掴めてきたところだった。


「はい、すぐに」


事務所の廊下を歩きながら、瑠姫は最近の出来事を振り返っていた。デビューライブこそ波乱の幕開けとなったものの、その「素直な姿勢」が意外にも好評で、小規模ながらファンが着実に増えていた。


社長室のドアをノックする。


「どうぞ」


重厚な声が返ってきた。


「失礼します」


部屋に入ると、社長の隣には見知らぬスーツ姿の男性が座っていた。


「瑠姫くん、座りたまえ」


社長が穏やかな口調で言う。しかし、その表情には何か大きな決断を下したような覚悟が見えた。


「実は、素晴らしい話が来ているんだ」


スーツの男性が資料を取り出す。


「綾乃とのデュエット企画です」


その言葉に、瑠姫の心臓が大きく跳ねた。


綾乃――。


今や日本を代表するトップアイドル。類まれな歌唱力と美貌で「歌姫」の異名を取る存在。デビュー以来、数々の賞を総なめにし、その実力は芸能界でも揺るぎないものとされていた。


「綾乃さんと、この私が……?」


「ええ。彼女の事務所から直々にオファーがあったんだ」


信じられない、という表情を浮かべる瑠姫に、社長は優しく微笑んだ。


「瑠姫くんの歌には、何か特別なものがある。綾乃さんの事務所も、それを見出したんだよ」


特別なもの――。


それは、瑠奈との約束から生まれた想いなのかもしれない。


「ただし」社長の表情が真剣になる。「この企画には大きなリスクも伴う。君の実力が、期待に応えられないと判断されれば、芸能界での今後に影響するかもしれない」


瑠姫は黙って頷いた。


トップアイドルとの共演。それは大きなチャンスであると同時に、全てを失うかもしれない賭けでもある。


「決断は君に任せよう。考える時間が必要なら……」


「お願いします」


瑠姫は即答した。社長が驚いたように目を見開く。


「私にやらせてください」


その瞬間、瑠姫の脳裏に、音楽室で夢を語る瑠奈の姿が浮かんでいた。


(これが、次のステージなんだね、瑠奈)


    ◆    ◆


「はい、次の方どうぞ」


事務所の新人オーディション会場。瑠姫は審査員席の端で、やや気恥ずかしそうに背筋を伸ばしていた。


デビューしたばかりの自分が審査員をすることには違和感があった。しかし社長は「君の感性を買っているんだ」と譲らなかった。


扉が開き、小柄な少女が入ってきた。肩まで伸びた栗色の髪、真っ直ぐな眼差し。自己紹介の声は、予想以上にはっきりとしていた。


「千尋と申します。よろしくお願いします」


「では、歌ってください」


伴奏が始まる。そして――。


瑠姫は思わず身を乗り出していた。透明感のある声、しかしその奥に秘められた力強さ。何より、その歌には「想い」があった。


曲が終わり、会場が静まり返る。


「あの、質問してもいいですか?」


瑠姫は思わず声を上げていた。他の審査員が驚いたように振り向く。


「その曲、自分で作ったんですか?」


千尋は少し照れたように頬を染めた。


「はい。作詞と作曲、両方です」


会場に小さなざわめきが起こる。オリジナル曲で勝負するのは、相当な覚悟が必要だ。


「素晴らしかったです」


瑠姫は心からの感動を込めて言った。


その瞬間、千尋の顔が輝いた。まるで太陽の光を浴びたように。


「ありがとうございます!実は……瑠姫さんの歌に憧れて、私、ここを受けようと決めたんです」


率直な告白に、瑠姫は言葉を失った。自分の歌を聴いて、誰かがアイドルを目指してくれる。それは、想像もしていなかった喜びだった。


(瑠奈、聞いてる?私の歌が、誰かの夢になったんだ)


結果発表の場で、千尋の合格が告げられると、会場から大きな拍手が沸き起こった。


帰り際、千尋は瑠姫に深々と頭を下げた。


「瑠姫さん!これからも、憧れ続けさせてください!」


その眼差しには、まっすぐな情熱が宿っていた。


    ◆    ◆


事務所の廊下で、瑠姫は立ち止まっていた。


綾乃とのデュエット企画の詳細が決まり、来週から練習が始まる。一方で、新人の千尋は早くも事務所の期待の星として、デビューに向けた準備を始めていた。


変化が訪れようとしている。そう感じずにはいられなかった。


「瑠姫さん?」


後ろから千尋の声がする。振り返ると、彼女は楽譜を抱えていた。


「作詞の練習をしているんです。瑠姫さんに、見ていただけませんか?」


その無邪気な笑顔に、瑠姫は自然と頷いていた。


レッスン室で二人きり。千尋の書いた歌詞には、彼女らしい瑞々しい感性が溢れていた。


「ここの『星が降る夜に』っていうフレーズ、素敵ですね」


「ほんとですか?実は、瑠姫さんの歌を聴いて、イメージが湧いたんです」


「え?」


「瑠姫さんの歌声って、夜空の星みたいなんです。遠くて、でも確かな光を持っていて……」


瑠姫は胸が締め付けられる思いだった。


(私の歌は、瑠奈の夢のため。なのに、こんな風に受け止めてくれる人がいる)


「千尋さん」


「はい?」


言葉が、喉まで出かかって止まる。


(私は……本当は……)


男だということ。妹の夢を背負っているということ。全て、話したい衝動に駆られた。でも――。


「いえ、なんでもありません。また新しい曲が書けたら、聴かせてください」


千尋は満面の笑みで頷いた。


その夜、瑠姫は久しぶりに泣いた。


自分の中の「嘘」が、重くのしかかってくる。でも、それは瑠奈との約束。大切な、譲れないもの。


枕元の写真立てに、瑠奈が微笑んでいた。


(私は強くなれるかな、瑠奈)


来週から始まる綾乃との練習。そして、純粋な想いで自分を慕ってくれる千尋。


物語は、新しい幕を開けようとしていた。


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