第3話 事故

 その後も時々、信号待ちをしている時に、彼女は現れて話しかけてきた。彼女は多分、人と話せるのが嬉しかったんだろう。好奇の目で見られることを除けば、別段迷惑というわけでもなかったから、普段と変わらず適当に話した。いつ現れるかも分からない不思議な存在との対話は、別にいつ話せなくなっても構わないという気持ちから、比較的楽に話すことが出来た。見た目は同い年くらいなのに、まるで五歳児のような純真爛漫さを持った天使は、時折危なっかしさを感じつつも、少なくともクラスの女子よりは愉快なやつだった。

 でも彼女は、いつもどこか遠くを見ているようだった。どうしてか気になって聞いてみると、『自分は人間じゃないから』と、信号の赤色を目に写して言うのだった。

 まれに彼女は、こちらを恨めしそうに見つめてくることがあった。見つめる、と言うよりは、眺める、と言うべきか。『君は生物に触れられるんだね』と、憂いを感じさせる顔をする。その言い方なら無機物なら触ることが出来るのか、と服を触らせてみたら、案の定すり抜けてしまった。『地面とか、木とか…触ることが出来ても、人間達にはバレないようなものだけ触れるんだ』と、彼女は笑って言った。

 テスト期間が訪れて、普段徒歩で向かう通学時間を有効に使いたくて、バスで登校するようになった。信号に差し掛かると、バスの中からでもお互い見えるようで、ガラスを通して見ているからか、彼女の身体は道路を少し透過していて、相変わらず交差点の真ん中で僕に向かって手を振るのだった。


「おい!テストどうだったよ!」

 テスト返し2日目の昼休み、辰樹がにやにやしながら近づいてくる。この顔は…多分、相当いい点が取れたのだろう。

「まぁ、まずまずだよ。ちょっと最近よく寝れなくて、まぁ、平均くらいかな。お前は?」

 実際は、辰樹の話と信号の彼女の話が気になって普段より勉強に集中できず、平均より低い点を取っていた。信号の彼女の話は、結局辰樹には話せずじまいだったから、多くは語らないことにした。

「ふふん、聞いて驚け、全教科平均がなんと…43点だ!」

 なんとも反応しづらい点だ。まぁ普段の辰樹よりは高いか?

「実はうちの部長と勉強合宿をな…あ、いや、俺はどうでも良くてだな。お前、最近ぼーっとしてるだろ?大丈夫かなって心配してたんだよ」

「そんなか?僕は別に普通だと思うんだけど…」

「そんなだよ!気づいてないのか?あ、分かった、お前夜中に通話でもしてるんだろ。誰だ〜?おひえろおひえろ〜」

 つまんでいた厚焼き玉子を口に放り込んで、箸を向けてくる。

「行儀悪いからやめろ…そんな奴いないって。僕、友達少ないの知ってるだろ?」

「それ、自分で言ってて悲しくないのか…?うーん、頑なに口を開かないじゃん…いなじまりー…いや、イマジナリーフレンドでも出来たか?」

「少数精鋭で、日々を楽しく過ごしてるからいいんだよ。イマジナリーフレンド?作れるものなら作りたいね」

 なんだよ、やっぱ友達欲しいんじゃん!と辰樹が騒ぐ。


 テストが終わったから、また徒歩の登校に戻った。早く会って事情を説明したかったのだが、しかし彼女はなかなか現れなかった。

 休日、散歩のついでに市立図書館に行く途中で、あの信号を通ろうと思った。いい加減『赤信号の天使』について、調べようとも思っていたのだ。

 行きに通った時、やっぱり彼女は見当たらなかった。なんとなく嫌な予感がして、普段立っている点字ブロックの手前より、数歩下がって青信号を待った。別に、何かが起こるというわけではなかった。

 図書館について、本を探し始めた時、少し後悔した。友人に、どういうジャンルの本でそれを見つけたのか、聞くのを忘れていたのだ。『天使』と呼ばれるくらいだから、宗教系の本だろうか。いやしかし、まるで怪談のように語る彼の口ぶりや、そもそも『赤信号』という近代技術的な形容例が出ているわけだから、怪談や怖い話系の本だろうか。

 あれこれ書架から取り出しては読んでを繰り返しているうちに、窓から入る日が随分傾いてしまった。出した本を片付けて、気になるものは借りる手続きをして、図書館を後にした。

 例の信号に差し掛かると、対岸の信号機の横に花を手向けている人がいた。

「あの…昔ここでなにか事故でもあったのですか」

 と聞いてみると、そのおばさんは話してくれた。

 おばさんは当時、買い物の帰りにはいつも、交差点を渡った先の公園で、子供たちを見ながら休憩がてら紅茶を飲んでいたらしい。その日も赤信号を待って、青になったら渡って紅茶を飲もうとしていた。

 しかしその時、子供が一人、飛び出してきたそうだ。おばさんは、『危ない!』と叫んだ。でももう遅くて、その子供がトラックに轢かれようとしていた。その時、後ろからもう一人、最初に出てきた子供を押すようにして、車道に飛び出していった子供がいたという。その結果、押された子供は助かったが、押し出した二人目の子供は、トラックに轢かれてしまった。おばさんは、呆気にとられて何も出来なかったという。

「今日がその、あの女の子の命日なの。私はぜんぜん、彼女と何の関係もないんだけれどね、でももしあの時、私にもっとなにか出来たら、彼女は助かったかもしれないと考えると、忘れようにも忘れられなくて、いたたまれなくてね…」

 そう言っておばさんは、両手を合わせたあと、青信号を渡って行った。

 おばさんの話は、僕の頭に、交差点の彼女に対するひとつの都合のいいシナリオを浮かばせた。初めて聞いたはずなのに、その話は不思議と僕の頭にマッチした。彼女は―この交差点に縛られた、地縛霊のような存在なんじゃなかろうか。

 ひとつの結論が出て、今度会ったら聞いてみようと思った。警告の鳥の声が響く信号に背を向け、家に帰ろうと足を踏み出した時。


「誰か止めてーーーッッ!!」


 若い女性の声が、奥から響いてきた。

 見れば、子供の乗ったベビーカーが、まさに赤信号へ飛び出さんとしている。

 轢かれる!

 そう思った時には、身体はカバンを放り捨て、あの日彼女に出会った時のように、動き出していた。車が来ているかは分からないし、この行動が正解かも分からない。でもあのおばさんは、ここで動けなくて、ずっと後悔していた。それにあの日見知らぬ誰かを助けた彼女は、きっと今この状況に出会っても、あの子を助けるんだろう。なら僕も、今出来ることをしなくちゃ、後悔するじゃないか!

 しかし、車の往来は無慈悲にも速度を緩め切れていない。このままだと、間に合わない―!

 必死に腕を伸ばす。脚を前へ運ぶ。そして。

「そんなことをして、君が死んだらどうするんだい」

「!?」

 後ろから、トンッと、押された感覚がした。そしてギリギリのところで、子供を抱き抱える。

 転がりながら後ろが見えて、そこには何故か笑みを浮かべる、長らく見なかったその姿が―飛び込んできた車に隠れて―見えなくなった。

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