第4話 天使
クラクションの音がする。鉄の匂いも。抱きかかえた子供の泣き声が聞こえる。―あぁ、よかった。泣くのは生きている証拠だ。彼は生きている。この行動は、無駄じゃなかった。考え無しだったし、あまりに軽率な行動だったが、無駄じゃなかった。
あぁ、視界が赤色だ。また、赤色だ。困ったなあ、彼女にまだ、謝れてもいないや。大丈夫だったかな…
……まだ、死ねないな…。
「だから、わたしの身体は、人間達にバレちゃうようなものには触れられないって、そう言ってあったでしょう?」
閉じかけた目を開けると、彼女が腰に手を当てて立っていた。
「ぁ、…ごめん、また飛び出しちゃった…」
朦朧とした意識の中、ハッキリとした彼女の白い輪郭だけが、景色に浮いて見える。
彼女はため息をつく。
「謝ることは無いよ。誰も彼もが、常に何かを考えながら動ける訳じゃないからね。それに、わたしは君を助けて、何も後悔していない。それにね、君が飛び出したことも、何もこの前と同じってわけじゃないんだよ」
真っ赤な彼女はそう言って、手を伸ばしてくる。
頭が上手く働かない。
「どう、いう…」
「さて…流石にもう看過されないかな…私は懲りずにもさっき、君を助けたいと、そう思ったんだ。そして、君に触れられた…いや、触れられてしまった。多分それは奇跡とかではなくて、ルール違反なんだ。私の行動ルールに、そして、この世界の、ひいては君の世界のルールに反する」
彼女はまた、遠くを見るあの時のような悲しい笑顔をした。
「いきなり真面目に捲し立ててごめんね。キャラじゃないよね」
今度は困ったように笑う。
「でもさ、ルールは、守らなくちゃダメでしょ?赤信号を渡っちゃいけないように。やっぱりこんな不安定な概念が、現実世界と触れ合うのはダメなの。だから、君にもわたしにも、罰が与えられます」
罰…?
「君はもう、一生私を見てはいけません。そして私は…いい加減、天国に戻らなくてはいけません」
…今、なんて言ったんだろう?まさか、もう会えなくなるなんて、そうは言わないよな……?
「見ないなんて…どうして見えたかも、君がなんなのかも、分からないのに」
精一杯の言い訳だった。
「君の灰色の気持ちは、こっちの世界と周波が近いんだ。ま、君の創った世界ではあるんだけれど。だからわたしも、本来現れてはいけないのに、現れてしまった。でもその灰色が、最近の君からは感じられなかった。だから、最近の君は私のことが見えなかったんじゃなくて、見なかったんだよ」
「君は…」
真っ直ぐに見つめて、彼女は答えた。
「うん、私は君の思い込み。概念上の存在〈イマジナリーフレンド〉。創造主の幸せを望むのは、作られた存在としては当然でしょう?たとえ世界の―君の創ったルールをねじまげてでも、生かしてあげたかった。君は何度も、何度も死のうとするものだから」
僕が、作った―イマジナリーフレンド。そして僕は…
「僕は、死のうとしていた…?」
考えたくない事が、思い出したくないことが、ノイズがかった最後の記憶が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
親に連れられて向かった公園で、初めて出会った、同年の異性。当時、ボール遊びにハマっていた二人。投げて転がしたり、落として跳ねさせたり、二人でボールを蹴りあってみたりするうちに、ボールは公園の外へ出てしまった。それを僕は、考え無しにも、追いかけてしまった。そして、彼女は―。
鮮烈な記憶のフラッシュバックは、後悔と共に一気に襲ってくる。記憶の蓋が開けられ、閉じ込めていた感情と、場面を切りとったような画像が、脳裏を埋め尽くす。
「ぅ…お゛ぇ」
どうしてあの時、もっと考えて行動しなかったんだろう。後悔が一気に、幼い体に襲ってくる。公園に連れてきてくれた母親は、その時から笑顔を絶やすことはなかった。だが、もしかすると、相手の親に沢山謝ったり、周りから非難の目線を向けられたり、していたのだろうか。幼い脳は、自分を責め続ける。そんなことをして、どうして自分は生きていられるのか。
そしていつしか、脳は自らを守るために、記憶に封をした。
分からなかった辻褄が、嫌な方向に合致していく。
「だから君は、僕の名前を知って…」
「うん。でも、たまたまなんだよ。元々この交差点には、私の事故による灰色の気持ちがあった。最初のたまたまは、そこと君の感情はあまりにマッチしすぎていたこと。記憶の蓋が、既に緩みかけていたのかもしれないね。そして、君の友達、辰樹君が話していた、赤信号の天使について。そして、都合良く漂っていた私の、いや、トラックに轢かれた、彼女の魂。そんなたまたまの産物が、私であり、そうだな、『赤信号の天使』という、都市伝説の存在なんだ。そんなの、回避できないだろう?」
「辰樹の名前まで…!?」
予想外の名前が、彼女の口から飛び出してきた。
「私はね、君の深層心理、頭や心で考えているところの、一番奥から生まれているの。だから、君が封をした公園の彼女も、君が学校で話した友人の彼も、君がずっと、ずっと死にたがっていたことも、今はそうでも無いことも、全て知っている。君の知らないところで動かされた、自律駆動の不可視の人形、のようなものなんだ、やっぱり君は悪くないんだよ」
隣にしゃがんで、彼女は僕を撫でる。
「でも、でもそれは僕が、僕がただ自己中心的に…僕は無意識の内に君を作って、勝手に君に彼女を重ねて、躊躇いなく君の中にあの子の記憶を、魂を、移植して…弄んだってことじゃないのか…?最低なことをしたんじゃないか…!」
横を見ると、彼女は身体についた赤色を払って笑っている。こんな状況でも、笑うのだ。
「そうだね…そうとも言える。でも、私みたいな存在は、少なからずみんな持っている。別人格、って言ったら、少し違うけどわかりやすいかな。だから、沢山のたまたまが重なってしまって、そして生まれてしまった、私が悪いのさ。君を『死なすよう』、生まれた私が悪かった」
くっきりしていた彼女の輪郭が、徐々に背景と同化してぼやけていく。錯覚のような存在だった彼女に脳が騙されなくなって、イレギュラーとして消そうとしているのだ。あの日消した、記憶のように。
「その上私は、君の命令を無視して、君を守った。1度ならず、2度もね。許されることじゃない、君の世界から追放される。そしてこの魂は天国に送られる」
彼女はもう、光の塊のようになっていた。そんな彼女は、倒れる僕の隣に座ったように見えた。
「君に幸せになって欲しくってさ。生まれた瞬間、目の前で死のうとしてる人がいるんだもの。君だって、そんな人がいたら助けるんだろう?だから、私も助けたんだ。命令守らなくって、ごめんね」
彼女はきっと今、微笑んでいる。慈しむような、聖母のような、そんな天使のような、『彼女』らしくない、笑顔なのだろう。
「それで僕が幸せになるなんて、決まってないじゃないか。それに僕が幸せだったのは、君と話して、楽しかったからなんだ。ルールがなんだ、そんなのどうでもいい!消えないでくれよ、君抜きの赤い紐を掴むより、時々灰色で、君と一緒の赤信号がみたいんだよ…!」
悔しくって、申し訳なくって、そして、自分の言っている事があまりに無責任なワガママであると分かって、赤い世界が揺らぐ。
「きっと今、君はすごく理不尽に感じているんだろうね。でも、ルールは、君と、君の世界を守るものだ。赤信号は、生身の人が入ったら、死んでしまう領域でしょう?」
じゃあどうすればいい?今のこの目には、どんな信号だって真っ赤に映るんだ。涙が溢れて、赤が滲んでいくんだ。それに、それじゃあ君は、幸せになれるのか?僕には幸せになれと言うけれど、君は幸せになれるのか?僕が勝手に作っておいて、不幸せにしたんじゃないか!死んでなお、君の魂を弄んだ…!
何も言えない僕を見て、彼女は提案してきた。
「しょうがない、じゃあ、ひとつ約束をしよう。君の創った友達としての、対等な約束」
「…」
「わたしの分まで、幸せに生きること。君だって、一度は死のうとしたかもしれないけれど、今は本心ではそれを否定してる。君の本心に従ってこの世に生まれた私が、本来のルールに違反することができたんだからね。気持ちと現実に、常に変わり続けるルールに、嘘をついてはだめだよ。私も嘘をつくことになる。私に嘘なんて、つかせないでね」
そう言って、彼女は僕の目をやさしく拭った。
瞬間、世界は色を取り戻した。赤色だった世界は、各々の色をこれでもかと輝かせていた。
ずるいと思った。そんな約束、ぼくは破れない。ここまで逃げてきた僕の、最後のツケなんだ。「覚悟を決めろ」と、言われているようだった。
「ほら、信号も青になる。人の世界になるんだ、私は消えなきゃね」
彼女だった光の塊は、その純白の中から翼を伸ばし、立ち上がる。まるで、天使のように。
「最後にひとつ、いいかな」
彼女は振り返らない。
「私の名前、覚えてる?」
一度は封をした。二度と思い出したくないと、無意識下に潜ませた。でも、死にたいなんて、今はもう思っちゃいない。今死んだって、死んでしまった彼女に、今目の前にいる彼女に、怒られてしまう。それに、違えられない、約束をしたんだ。
覚悟は決まった。
彼女の名前は。
「ミコト…君の名前は、カナメミコト。漢字は、わからないけど」
目は合わない。見えるのは、翼の生えた背中だけだ。それでも、彼女は笑ったような気がした。
「もう二度と、赤信号なんて渡るんじゃないよ。さよなら」
そう言った次の瞬間、ミコトは消えていた。
きっと天国とやらに向かったのだろう。
救急車の音がする。腕の中の子供は、泣き疲れて寝てしまったようだ。
ミコトとの約束を頭の中で反芻しながら、意識が遠のいていく。
「天使のくせに、僕をこの世界に縛る悪魔みたいなことしやがって…」
とっくに覚悟は決めたのに、ハリボテの弱音が、いや、公園で遊んでいたあの頃のような悪態が口をついて出てきて、僕の瞼は重力に従った。
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