第7話
倉前の助言通り、リビングに百合を飾り、夜の声には応答しない。それを続け、今日で五日目。彼女の言う通りならば、今日で怪異は終わるはずだった。
――まあ、終わることはないだろう。
テレビに表示されている時計は二十三時五十五分を指している。今日が終わるまで残り五分。外は台風が来ているせいか雷雨であり、部屋を明るくしていても分かる稲光がカーテン越しに部屋の中へ入る。
その度、靄の影がカーテンに映る。外でとぐろを巻いているらしいそれは、宙に浮き、閉め切っているカーテンからその存在だけを主張し続けていた。
賑やかしにテレビを付けているが、やはり声が掻き消されることはない。もはや聞き慣れた猫撫で声。この声に付き合うのも、もう終わりかもしれない。
時間は確実に過ぎ、時計の値が変化していく。
――本当に真奈は自分を恨んでいるのだろうか。
これで怪異が終わってしまえばそういうことになる。倉前の言い草は断定的なものだった。しかし、自分が恨まれるようなことをした覚えはない。むしろ幸福だったはずだ。それ以外はありえない。ありえるはずがない。
ちらちらと生前の真奈の姿が思い浮かぶ。
時刻はすでに五十九分。声はまだ続いている。最初こそ恐怖を感じたが、今ではただの雑音に過ぎない。聞こえたところで何も害がないのだから。
秒数は分からない。しかし、もうすぐのはず。
組んだ手が白くなる。
――時間だ。
日付けは超え、四十九日は過ぎ去った。溜息が漏れ出る。
ふと気付くと、声が聞こえなくなっていた。心なしか匂いも薄まっている気がする。
まさか本当に? あれの正体は真奈だったのか。
チャイム音が鳴った。
身体が勝手にビクッとしてしまう。こんな時間に訊ねてくるやつは知らない。
「誰だ……?」
声に出して見たものの、答えはない。誰もいない。自分一人だけ。
テーブルに置いていたスマホが震え出す。画面は同僚からの着信を告げている。
おそるおそるスマホを手に取り、電話を受ける。
「――もしもし? 佐々木?」
伊川の声。場違いに感じるほど普段通りな様子に、どこかほっとする。ノイズが多いのは電波のせいだろう。
「おい? 佐々木? 聞えてるか?」
「あ、ああ。悪い。聞こえてる。……それで、どうしたこんな時間に」
「快気祝いだ。悩みの種消えたんだろ?」
「倉前さんから聞いたのか?」
「ああ、今日が決戦の日だって教えてもらった。その様子だと大丈夫そうだな」
「そうだな。声も消えたし、匂いも薄まってきてる気がする」
「そうか、それは良かった。――実はな、今、お前の家の前に来てるんだ。二人で快気祝いしようぜ。佐々木の好きな酒も持って来てるぞ」
「なんだよ、さっきのチャイムは伊川か?」
「そうだ。鳴らしたのにうんともすんとも言わないから不安になってな」
「そっか……」
チャイムの原因が分かり、和は一つ息を吐いた。
「――だから、入れてくれ。佐々木」
「ああ、今入れる。待っててくれ」
電話を切り、立ち上がる。玄関に向かおうとすると――テレビが消えた。部屋は一気に静寂に包まれ、外の雷雨のみが和の耳に入る。
「なんだ?」
和はリモコンを手に取り操作するが、一向に反応しない。テレビは静寂を保っている。
舌打ちし、ひとまず玄関に向かおうとして気付く。リビングに飾った百合。大輪を咲かしているその花は、白百合のはずだった。
――黒くなっている?
白百合は徐々にその色を変化させていた。根本から徐々に黒く染まり、あっという間に黒百合へと変貌する。
和は眺めていることしか出来なかった。何が起きているのかまるで分からない。
臭いがする。あのミルクのような匂い。薄まってきていると感じたのに、今までの異常の濃さで体内に入って来る。息が苦しい。
――まずい。何かは分からないがとてつもなくまずい。
そう思うが、足がピクリとも動かず、目は黒百合から離すことが出来ない。
黒百合はしなり、まるで枯れているかのように頭を垂れ始める。
靄が出る。真っ黒く、重く、粘つくような靄。花弁から漏れ出始めた靄はテーブルに溜まり、流れるようにリビングの床に広がっていく。
その様は夢に出た靄そのものだった。まるで意思があるかのような、粘つく靄。
そのことを思い出し、ようやく足が動く。カーテンを開け、リビングの窓を開けようとするが――開かない。
「クソっ」
靄はすでに床全体に広がろうとしていた。なりふり構わず玄関の方への扉に向かい、手を掛ける。しかし、廊下とリビングを隔てるドアは、夢と同様にピクリともしなかった。
絡みつくかのように靄は足を覆う。殴っても蹴ってもやはりドアはびくともしない。このままでは夢に再来そのもの。
再びリビングの窓に向かう。靄はまるで重りのようだった。一足一足がやけに重く感じる。
窓に着いた瞬間、部屋の電気が消える。まるで見えなくなった靄は、雷の光で時折、姿を見せる。窓のシリンダーをいじるが異様に硬く動かない。窓を蹴っても殴っても割れる事すらない。殴った拳からただただ赤い血が流れ出る。
持ったままのスマホが着信を告げ、震える。表示を見ると伊川だった。すぐさま電話に出る。
「伊川か! 頼む、外から――」
「お前何様だ?」
それは伊川の声であるが、彼ではなかった。どこか無機質な――しかし、怒っているように感じる。
「この家に金を入れているのは誰だ?」
「お前に何が出来んだよ」
「夕飯まだか?」
「こんなこともできないのか、真奈?」
声は段々と変化し、身に覚えのあるものになっていく。
「さっさとやれよ、グズ」
「はぁ? まだできてないのかよ?」
その声は和自身のものだった。問い詰め、追い詰め、真奈をがんじがらめにするための言葉たち。
「死にたいのか?」
「死ね」
「死ね死ね死ね――」
それだけは言っていない。死なれては困るからだ。なのに、声は咎めてくる。和自身の声で。
「ふざけやがって!」
和は力任せに、スマホで窓ガラスを叩きつける。しかし、ガラスはやはり罅一つ入らなかった。
苛立ちのあまりスマホを床に叩きつける。だが、何の音もしなかった。
その時、雷が鳴った。数瞬遅れて、室内が照らされる。しかし、映ったのは何もない闇だけだった。すでに部屋は靄で覆われ、残すところは和の周辺のみになっていた。
匂いは濃くなり、呼吸すら苦しい。なにか重たいものが体内に入って行ってる気がしてならない。声を出すのも苦しい。
靄が全身を覆い始める。まるで下から人間がよじ登ってきているようだった。纏わりつき、決して離さないとばかりにしがみつく。
和は足や腕を振り、靄を晴らそうとするが焼け石に水だった。靄はゆっくりと、しかし確実に身体を覆って行った。
やがて、部屋は完全に靄で埋まり――和の身体は包まれた。周囲は何も見えず、先程まで聞こえていた雷雨も聞こえない。
痛いほどの静寂の中、目を動かし、手足を動かすが、なににもぶつからない。気付けば、背後にあったはずの窓ガラスすらなくなっていた。
荒々しい自分の吐息がうるさい。心臓の音が聞こえてくる。
ふと人の気配がし、動きが止まる。
「――死ね」
耳元で囁かれた声は、紛れもなく真奈の声だった。
次の更新予定
2025年1月10日 19:10
ミルク粥 辻田煙 @tuzita_en
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