第4話

 深夜、和はなかなか眠れないでいた。


 ――悪夢のせいだ。


 和は眠れない原因をそう結論付けた。


 悪夢を見たことだけは覚えている。起きれば全身汗をかいており――匂いが濃くなっている。


 夏休みの消化をしていなかったため、会社の方は休暇扱いには出来ているが――とても外に出れる状態ではない。


 家のどこに行ってものあの匂いがする。


 ミルクのような甘い匂い。普段、日常生活の中で嗅げば決して嫌な臭いというわけではない。だが、四六時中となると話が変わってくる。


 どこに行っても、何を食べても、酒を飲んでも、必ずあの匂いが邪魔をしてくる。


 おまけにさっきの配達員の反応――明らかにぎょっとしていた。相手はマスクをしていたというのに、咳き込んでまでいた。どこまで匂いが濃くなっているのか自分自身では分からない。


 このままでは、匂いに圧殺され、生活が出来なくなる。


 誰かに相談するにしても、こんな話を誰が信用するのだろうか。ネット上で探しても病気になっている証拠のようなものを見つけられるが、病院に行っても結局ろくな診断をされなかった。本当に解決するのか分からない、妙な薬を処方されただけ。


 まるで解決策が見つからない――


 和がそう思考の波を漂っていると、スマホの着信音が鳴った。


「……はぁ、誰だよ、こんな時間に」


 スマホを手に取ると、優菜からの電話だった。


 ホテルで互いの匂いのことを確認して以降、不安なのか頻繁にかかってきていたが、ここ数日はなぜか大人しくなっていた電話。しかも、その時でさえ深夜にはかけてこなかったのだが――嫌な予感しかしない、と和は思った。


 だが出ないのは、もっと良くない気がしてならない。


「――優菜?」


 電話に出ると、なぜか優菜は何も喋らなかった。息の音だけが聞こえる、それもかなり荒い。苦しそうにしている。


「おい、優菜。どうした」


「……せいだ」


「優菜?」


「――お前のせいだ! なによこれ! ふざけんじゃないわよ! なんなの一体! なんで私がこんな目に遭わないといけないのよ! えぇ? 和! お前、何したんだよ! お前がやったんだろ! 早くなんとかしろよ! 助けろよ!」


 耳元で大声で叫ばれ、和は思わずスマホを離した。スマホからは優菜の声以外に、暴れ回っているような音が聞こえてくる。


「大丈夫なのか、これ……」


 まともな精神状態ではなく、これでは話を聞くどころではない。


 和は迷った末に、そのまま放置することにした。しばらく置いておけば、怒りも収まるだろう、と。人間暴れ回る程の怒りを数時間も継続は出来ない。必ずどこかで息切れする。


 そう思い、分かりやすいようにスピーカーにしてベッド上に放置していると――やがて、ピタリと音が止んだ。


「優菜?」


 思わずスマホを持ち一声かけてみるが、反応はない。代わりに――呻き声のようなものが聞こえてくる。それは間違ないく優菜のものであり、助けを求めているようだった。


 一体何が起きているのか、まるで分からない。


「おい、優菜どうした? おい――」


 不安になった和は呼び掛けるは、優菜の返事はなく――プツリ、と電話が切れてしまった。


 和はよく分からないながらも、繰り返し切れてしまった電話を繋げようとする。しかし、一向に電話は繋がることはなかった。


 なんで、繋がらないのか。最後はどういう状況だったのか。優菜の身に何が起きているのか。自分のせいだというのはどういう意味なのか――分からないことだらけな状況に段々と腹が立ち始め、和は寝ることにした。


 どうせ、優菜のいたずらに決まっている。気を引きたくて、変なことを言い始めたに違いない。そうだ、自分に依存させるのを早めてしまったのかもしれない。もう少しじっくりしなければ。


 優菜の家を和は知っていた。しかし、彼はさらさら行く気など起きなかった。どうせ、気が狂っただけだ。行ったところで面倒になるだけ。今は寝るのが一番だと、そう思い、ベッドに潜り込む。


 スマホはサイドテーブルに置き――なるべく離し、寝ようとする。


 しかし、ふ、と気付くと、先程よりも匂いが濃くなっていることに気付く。濃くなったところで分からないはずのものが。ミルクのような甘い匂いは濃さを増し、よりねっとりと身体に纏わりついてくるようだった。


 家の中は真っ暗だった。


 和は玄関を上がり、ふらふらとリビングに向かう。中に入ると、部屋の中央に真奈が後ろ向きに立っていた。窓の外は雷雨であり、時節、空気を切り裂く音と光が和を襲う。


「真奈……?」


 ゆっくりと真奈に向かって歩き、声を掛ける。近付かずにはいられない。


 死んだはずの妻。なぜ亡くなったのかは分からない。出会った時から反抗的だった彼女――だから、少しばかり教えてあげただけなのに。


 なぜ、いなくなってしまったのか。


 ――なぜ、今こちらを振り向かない。夫がすぐ側に来ているのに。


 和の中で怒りがふつふつと煮え始める。


 勝手は許さない。


 和の手が真奈の肩に触れようかという時――彼女は黒い靄になり、手が素通りした。ただの靄ではない、妙に粘着き、纏わりついてくるようだった。


 意味が分からず、和は後ずさる。言葉は出なかった。


 なんだこれ? 真奈じゃないのか? 靄? なんでこんなことに?


 湧き出る疑問には誰も答えない。ただ、黒い靄は目の前で広がり続け、まるで和を飲み込もうとしているようだった。窓は見えないが雷鳴だけが聞こえてくる。


 和は靄を見ながら、玄関の方へ向かう。あれがなんなのかは分からない。しかし、良くないものであることはヒリヒリと感じていた。頭の中で危険信号がこれ以上ないくらい鳴り響き、同時に、なぜそう感じているのか分からず、口の中が渇いてくる。


 靄のスピードは遅い。このままリビングから出て、家を出れば捕まることはない。そう思い、和はリビングの扉のドアノブに手を掛けるが――扉が開くことはなかった。いくら力を込めても動かない。


 思わず扉に向き直り両手を掛けて何度試しても、結果は変らない。通常であれば、壊れるんじゃないかと思う程の力を込めてもピクリともしなかった。


「く、そっ……、なんで開かないっ」


 背中では靄がじりじりと迫ってきている気がしてならない。


 ――一際、強く靄の気配を頬に感じ、和は後ろを振り返る。


 靄はすでに壁のように和の前に立ちはだかっており、覆おうとしていた。枝のような先端が何本も突き出ており、その内の一本が頬を掠める。


 一か八か靄の中を突っ切るのが思い浮かんだが、すぐに打ち消す。中には入ってはいけない気がした。


 和は再び靄に背を向け、扉に向き合う。ドアノブで開かないならと蹴り出すが――やはりビクともしなかった。動く気配すらない。


「どうなってんだっ」


 声を上げ、息を吐き、扉を壊そうとするが――気付くと、靄が周りを覆っていた。目の前の扉以外に見えるものはない。


 和はますます激しくドアに殴りかかる。


 床が見えなくなる。足は埋まり、動かす度にゆらっと波が立つ。


 どうすることもできない。これでもかと体を動かし、抵抗を続ける。だが、靄は止まることなく、やがて顔を覆った。


 靄の中は静寂が広がっており、ふっとあのミルクのような甘い匂いが鼻を掠た。

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