第3話
真奈が自殺した。
ベッドで目覚ますと、和はまずそのことを思い出すようになった。
身体を起こし、真奈が亡くなってからのルーティンを始める。洗面所で身だしなみを整え、台所で朝食を作る。
真奈が生きていた頃ならば、すでにリビングのテーブルに並んでいたはずだった。
自分で調理した簡素な朝食を食べながら、和は、一段落ついたな、と思った。真奈が亡くなってから何かとバタバタしており、落ち着けるものではなかった。しかし、一ヵ月も経つと――まだ、やることは残っているものの、一息ついた感がある。
そして、和が次に思い浮かぶのは――なぜ、真奈は自殺を選んだのか、ということだった。
和は真奈が自殺する理由に、とんと思い当たる節が無かった。
確かに束縛はきつかったかもしれない。しかし、妻を自殺に追い込むような他の男共と違って暴力は振るっていないし、申し出があればある程度の自由は許していた。
真奈自身は基本的に家にいるようにしたし、誰かとの人間観家のトラブルなどは聞いていない。
だから、なぜ――と和にはまったく分からなかった。そして、仮に、と思う。
仮に、束縛が嫌で自殺したというなら、アイツが悪い。結婚までしたのに、真奈を他の男に取られるわけにいかない。だから、大事にした。
なのに、自殺してしまった。世界から消えてしまった――
和は朝食を食べ終え、一通り片付けると、仕事に行くために玄関に向かう。
玄関扉に手を掛けた時、ああそうか、と思う。
そうだ、永遠に誰のものにもならなくなったと考えればいいじゃないか。
その思い付きに、和は胸がすく思いだった。これなら満足できると。
夜、久々に会った優菜は、どこか疲れているようだった。会って早々に「ホテルに行きたい」と言い出し、入ったら入ったらでベッドにダイブして微動だにしない。和の方を見向きもしない。
「おい、何がしたいんだ」
「……ねぇ、最近変なこと言われない?」
「変なこと?」
和には思い当たる節はなかった。そもそも真奈が亡くなったあとの手続き等でバタバタだったため、細かいことまでは覚えてられなかった。
いまだにうつ伏せのままの優菜は、枕に顔を埋めている。和はベッドに座り、そっと彼女の太股を撫でた。素肌は滑らかで遮るものがない。ピクリと反応するが、嫌がる様子はない。
「そう、……匂いとか」
撫でていた手が止まる。
和の頭の中でなにかが引っ掛かった。しかし、明確にこれというものが出てこない。
考えている内に優菜が起き上がり、和の手を掴む。
「心当たりあるの?」
「いや、引っ掛かるものはあるが――思い出せない」
「私ね、最近よく言われることがあるの。甘いミルクのような匂いがするって――」
「なんだそれ。いいじゃないか、いい匂いで」
冗談交じりに笑い飛ばすが、優菜の顔は優れない。奇妙な顔だ。笑っているような、怯えているような。
「気味が悪いのよ。でも、今日あんたに会ってもっと気味が悪くなった」
和の手を優菜は自身の鼻先に持っていく。目を瞑り、何事かを確認したようだった。
顔を上げると――口は笑っていた。
「あんたからもするのよ。甘いミルクみたいな匂い」
「はぁ、何言ってんだ?」
嗅がれた手を意識して嗅いでみる。
――確かに匂いはする。香水や石鹼ではない。そもそも今日はこの系統の香水はつけていない。むしろ真逆と言っていい。つけてきたはずなのに、どこかに飛んでしまっている。
和は自身からする匂いを知って妙な不安に駆られた。
「ね、するでしょ。あたしのも嗅いでみてよ」
何か言う前に優菜の手が鼻に押し付けられる。彼女の柔らかい肌、いつもならあの時の母と同じように花のような香りがするはずだが――鼻腔に入ったのは似ても似つかないミルクのような匂いだった。和自身から香った匂いと同じもの。
薄気味悪さを感じ、優菜の手を押しやる。匂いは彼女の方が濃く、重かった。まるで嗅ぐ者の体内に侵入してくような――そんなイメージが頭の中によぎる。
「たしかにする。けどそれがなんだよ。ただの匂いだろ? たまたま香水が一緒とかそういうんじゃないのか?」
「……あんた何か隠してないわよね? ……変な病気とか」
「はぁ? んなもん罹ってねぇよ。そっちこそ、どうなんだよ」
「あたしだってないっつの。だから、和が変じゃなきゃおかしいでしょ」
「それはこっちのセリフだ。お前がおかしくなきゃ変だろ」
優菜は和を睨み――ふっ、と和の鼻に再びミルクのような匂いが香った。思わずしかめっ面になる。それは優菜も同様だった。
彼女は顔を伏せ、鼻をごしごしと擦る。
「――じゃあ、一体なんなのよ、これは。何の匂いなのよ。日増しに匂いが強くなってるみたいだし、気味悪いのよ」
そんなこと言われても、と和は思った。
分かるわけがない。大体、言われて初めて気付いたのだ。思い当たる節もない。知りたいのはこっちなのだ。
ぐすぐす泣き始めた優菜を見て、そういやこいつはこういう奴だったな、と和は思った。
会社でもそうだが、妙な所で感情が高ぶり泣き出す。いつもそうなわけではない。だが、一旦こうなってしまうと慰めが必要になってくる。会社での新人教育の担当になってから、そこは変っていない。今の関係になったのも、彼女の性格が遠因ではあった。
――弱いな。弱い。真奈とは真逆とまではいかないが違う。だが、この根本の部分は一緒だ。
真奈は会社員時代は強気な女性だった。意見をきちんと言い、しかし折れどころを知っている。人の間に立つのが上手く、他やられやすかった。表向きは「強い女性」そのものに近い。
だけど――根っこの部分では、目の前にいるこの女の様に弱かった。父親が表ではいい顔をしながら日常的に暴力を振るうタイプの人間だったらしく、男に対し潜在的な苦手意識を抱いていたせいもあったのだろう。
近付いて来るこの男も、どれもこれも距離が縮まれば暴力で自分を支配するのではないか、かつての母と同じようになってしまうのではないか――
そう、彼女はミルク粥の匂いがすると言っていた。恐怖を感じると、ミルク粥の匂いがして離れない、と。
あれがどういう意味だったのか、すっかり聞きそびれてしまい、いまだに分からない。
自殺前はどうだったのだろうか。決して暴力は振るっていない。ただ、少しばかり束縛しただけだ。だが、夫として当然の権利だろう。真奈を誰かに取られるわけにはいかなかったのだから。
恐怖は感じていたのだろうか。ミルク粥とやらの匂いを感じていたのだろうか。
自殺前はとても良かった。真奈は紛れもなく妻だった。やや反抗的な部分もあったが、それはそれで楽しいものだった。
和はじっと、目の前でさめざめと泣いている優菜を見た。
この女はどうだろう。真奈と同じようなことは出来るだろうか。
「優菜、よく分からないけど大丈夫だって」
「大丈夫なわけないじゃないっ」
スイッチが入った優菜は子供の様に涙が溢れている。
和はここ最近退屈だと感じていたことに気付いた。そうだ、この感覚だ、と。
匂いは良く分からないが、せいぜい慰めてやろう。優しく優しく包んでやろう。
次は失敗しない。自殺など考えさせない。
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