第2話

 微睡から目を覚ますと、ラブホテルの部屋は真っ暗になっていた。和は身体を起こし、備え付けのデジタル時計を見る。すると、すでに深夜の三時を過ぎていた。


 嫌な夢を見た。


 時計を見た瞬間に夢の内容をくっきり思い出し、和は真っ先にそう思った。あの花のような甘い匂いは、今でも和の脳裏に煌々と存在感を示し続けている。すっかり歳を取り、妻もいるのにあの時の匂いと喪失感が忘れられないのだ。


 一つ溜息をつき、サイドテーブルに置いてあったスマホを取る。手早く操作し、表示させたのはあるアプリの一つの画面。


 アプリは妻の現在位置を示していた。


「また見てる」


 肩に優菜ゆうながのしかかる。同時に生々しい感触が和の背中にかかり、艶めいた吐息が耳にかかる。


「大事だからな」


「そんなに大事なら、私と浮気なんかしなきゃいいのに」


「……じゃあ、やめるか?」


「嘘つき。どうせまた呼び出すくせに――それで、それ、どうするの? 家にいないみたいだけど」


 優菜の言う通り、アプリの位置は妻――真奈まなと同棲している家を示していない。いる場所は住宅街になっている。だが、和は知っていた。これは真奈の友人の家であり、以前、真奈が泊まるというので許可を出した時と同じ場所。


 おおよその見当が付き不安はないが、別の部分で和は許すわけにはいかなかった。


「家で待つに決まってるだろ。勝手に出てるんだからな」


「……あんたの束縛も相当よね。というか、執着?」


 和は黙って優菜を引き剥がし、腰を上げた。優菜もそれ以上何も言わなかった。


 部屋の電気を点け、そのまま帰り支度を済ませる。


「また呼ぶ」


「はいはい、またよろしくー」


 優菜はベッドに寝そべり、もう興味ないと言わんばかりに自分のスマホを見ている。こちらに顔も向けない。


 そんな姿の彼女をちらっと見て、和はラブホテルを出ていった。


 家に着くと、中は真っ暗だった。それは当然のことではあるが、和は少しだけ苛立ちを覚えた。


 なぜ許可も無く出て、友人の家に泊まっているのか。今までの言動では足りなかったのか。そんなにも知られるのが嫌なのか――


 本人がいなくてはどうにもならない、と頭では分かっていることをぐるぐる考えていると、リビングに飾っている百合の花が目に入った。


 壁際のテーブルに飾っている百合は咲き誇り、真っ白な花びらを見せ付けている。和はあまり花の匂いが得意ではないが、真奈が好きなため飾らせているものだった。


 和は無性に花びらをむしり取りたくなった。


 このところ真奈は勝手な行動が多すぎる。真奈の友人とか言う、あの女の入れ知恵なのだろうか? 妙に反抗的な気がしてならない。


 苛立ちは収まらず、ただただ暴風を吹き荒す。


 花に触れると、どこか上品さを感じる甘い匂いが和を包む。それはかつての母の匂いとはまったく違う。しかし、思い出すのに充分なものともいえるものだった。


 


 結局、真奈が帰って来たのは朝だった。


 待ちくたびれた末に寝室で寝てしまったが、物音で目を覚ました。


 玄関に向かうとやつれた雰囲気の女が立っている。


「お帰り、真奈。随分遅かったじゃないか」


「か、和くん……、どうして……」


 真奈は怯えた顔をした。


 夫である自分になぜ怯えるのか? 眠りで多少落ち着いていた苛立ちが増し、長い溜息が漏れる。


「なあ、なんで許可していないのに勝手に出てるんだ? 前にも言ったよな」


「ち、違うの。紗季さきちゃんが、どうしても相談したいことがあるからって……」


「前にも似たようなこと言ってたな……、真奈、もうその紗季とかいう奴と会うのはやめろ。連絡は許してやる。昔からの友人らしいからな」


「え、……ちょっと、何言ってるの? ……そんなの」


 真奈の両肩に手を置く。一瞬、ビクッとする彼女を和は冷ややかな目で見つめる。


「真奈……、誰のおかげで生活できてるんだ?」


「……和くん」


「そうだよな、で、お前は家事をしているんだよな?」


「は、はい」


「で、だ。俺はお前を大事にしたいわけ。それは分かってくれるよな?」


「分かります……」


「結婚の時に役割分担するって話だったよな? お互い仕事と家事を頑張ろうって。で、俺はお前に金を払っている訳だ。そして、お前はそれに見合う家事をしてくれるんだよな?」


「……はい」


「その役割を放棄するのか? 俺はお前を大事にしようと、金を払い、色々と言っているのに、申し出すら出来ないのか? 出来るよな?」


「出来ます……」


「そうだよな、そうだよな。俺が大事にしなきゃ、お前は大変なんだよ。なぁ?」


「はい……」


「よし、分かったら、朝食を作ってくれ。お前を待てって、腹が減ったわ」


「分かりました」


 真奈の両肩から手を離すと、彼女はゆらゆらと台所の方へ向かって行った。


 なんで、こんなことになっているのだろう。


 真奈は台所で和の分の朝食を調理しながら、いつしか堂々巡りになってしまっている考えを再開させる。


 幼い頃、両親は喧嘩ばかりしていた。それもかなり一方的なもので――母はいつも父に怯え、父は王の様に振る舞い、母はそれに従うばかりだった。逆らえばいつ終わるのか分からない暴力が待っていたからだ。


 だが、そんな母も一度だけ反抗したことがある。


 小学生の頃、私が風邪に罹り高熱を出したことがあった。専業主婦だった母は熱で苦しんでいる私を病院に連れて行き、その後はベッドで寝かせて看病してくれていた。


 そこに父が――アイツが仕事から帰ってきた。


 母はミルク粥を作ってくれ、幼い私に食べさせている最中だった。蜂蜜が入っているせいか、ほわっとした甘い匂いが広がって私の心を落ち着かせていた。病気の時だけ食べられる特別な料理――それがミルク粥だった。


 熱に浮かされ頭がぼんやりしている中で、どかどかと大きい足音が鳴る。父が家の中を歩き、やってくる音。


 母にミルク粥を口に運ばれながら、他人事のように大丈夫だろうか、と思った。父は帰って来たあとのルーティンのようものがあった。そして、母が付き従って行うこれが崩されるのを、父は特に嫌がっていた。母はそれを分かっていたはずだが、なぜか私の看病を優先した。


 普通なら当たり前なのかもしれない。しかし、我が家では異常事態そのものだった。


 どういう理由があったのかは分からない。その後、母が同じようなことをした覚えはないし、ただの気まぐれだったのかもしれない。幼い私が心配だったのか――いつも言いなりにさせられている父に少しでも反抗の意を示したかったのか。


 父はリビングに母がいないことが分かったのか、真っ先に私の部屋にやってきた。おそらく母から私の病気のことは聞いていただろうから、当たりを付けたのだと思う。


 大きな音だった。病気で伏せっている子供の部屋に入るのだから、普通の親なら気遣い、乱暴な開け方などしないはずだが、そういうものは父にはない。


 父は部屋に入るなりこう言った。


「おい、夕飯はどこだ?」


 おそらく父は父なりに気遣ったのかもしれない。子供が寝込んで看病しており、いつものルーティンはできない。だが、夕飯が食えないのは困る。だから、聞くだけ聞いて、仕方がないから一人で先に食べてやろう――


 そんな家族の事を考えているんだかいないんだかよく分からない思考をして、父はこの一言を言ったのかもしれない。あの男の考えることなど、それ以外に思いつかない。


 この時の母の表情は忘れられない。ミルク粥の入ったお椀を持ったまま微動だにしなくなり、どこかを見ていた。顔に浮かぶのは怒りも悲しみもなく、のっぺらぼうのように何もなかった。


 ミルク粥のほのかに甘い香りだけが漂い、世界が止まっているようだった。


 きっと実際にはほんの数秒だったと思う。でも、私にはとても長く感じた。


「……どうした? 夕飯はどこなんだ」


 しびれを切らした父が再度呼び掛けると、母は表情をなくしたままミルク粥をサイドテーブルに置き、父の方を振り向いた。


 そして――母はそのまま父の頬を張った。


 一瞬、私は熱に浮かされて夢を見ているのだと思った。あり得ないことだったからだ。父の影に埋もれているような母が父に暴力を振るうなど。


 父は母の行動に一瞬ぽかん、とし――激昂した。それこそ常の比ではなかった。器用なもので口では暴言を発しながら、母を殴り続けた。私の部屋の中で。


 母の悲鳴と、父の火花のような怒り具合。部屋を震わせ壊れるんじゃないか、と思う程の怒りの波。


 いつもに増して凶暴で動物のような父の様子に怯え、私はベッドの隅に逃げるしかなかった。


 ミルク粥は母がぶつかった拍子にベッドに落ち、染みとなり、その匂いが私の記憶に刻まれることになった。


 そうあのミルク粥の匂いだ。暴力と恐怖の匂い。


 ――和に責められると、この時の匂いがしてくる。そして、父を思い出し――目の前にいる彼も父のように動物になってしまう気がしてならない。


 足が竦み、口は強張り、「はい」としか言えなくなる。


 一体、いつからだろう。そう思うようになったのは。


 付き合ってから結婚当初まではあんな人では無かった。穏やかで、誠実で、自分だけを見てくれる人――だから結婚し、今こうして一緒に住んでいるはずなのに。


 あの手と目で責められると、今の私ではどうすることもできなくなる。逃げることが怖くなる。外にいても彼の目がそこかしこにある気がしてならない。そして、ふとした拍子に鼻にこびりついてくるのだ、あのほのかに香る甘い匂いが。


 彼は決して暴力をふるうわけではない。でも――彼がいつも正しくなる。私は間違っていることになる。だから、逆らえない。逃げられない。


 逃げたい。だけど、どうしようもない。逃げられない。


 ピリッとした視線を感じてリビングを見ると、彼が――和がこちらを見ていた。


 その視線は絡みつくようであり、「逃がさない」と言外に言っているようであった。


 真奈は同じ考えを繰り返す。


 逃げたい、だけど――逃げられない。

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