ミルク粥
辻田煙
第1話
甘い香りが鼻を突く。実家の玄関前、あの時の母は普段見ない小綺麗な装いでヒールに足を入れていた。外は雨だというのに、どこか楽しそうで――いつもと様子が違っていた。普段は恨めしそうにし、ぶつぶつと文句を言ってたのに。
「お母さん、どこに行くの?」
幼い自分が当然の疑問のように投げかける。だが、同時に子供ながらに薄々と分かってはいた。母の様子と香りが示しているのは、いつもの日常とは違うエアポケットのような非日常にいることを。
「楽しい場所よ、
ヒールを履き終えた母は振り向き、近付いていた自分の頬にそっと触れる。その目は確かに楽しそうに見えた。当時、日々感じていた母の様子とは違っている。
――母は怒っていることが増え、一方で、父はいつもより寡黙になっていた。二人が喧嘩している、そのことは理解していた。この時はよく分かっていなかったが、父の浮気が原因で離婚話が持ち上がっていたようだった。
十数年経った今でこそ、何もなかったように仲睦まじいが、当時は家の中に台風が発生しているようだった。ピリピリとした空気、なのに、それを打開するはずの穏やかな会話は一切ない。豪雨のような雨は降っているはずなのに、雲の切れ目は一向に訪れない――父と母、二人が揃うと、ただただ居心地の悪い空間が続いていた。
母が自分を置き、夜にどこかに出掛けようとしていたこの日。父に対するあてつけのように夜遊びを始めた。
「――これはね、あの人が悪いの。知らないのよ、自分が何をしているのか」
楽しそうに見えた瞳は燻り始め、甘く感じた匂いに気持ち悪くなりそうだった。
その後のことは、よく覚えていない。その時、母とは一言、二言話したきりだったはずだ。記憶にあるのは、雨が降りしきる夜に出て行く後ろ姿。
聞きたいことは山程あったはずだが、母が外に出るまでついぞ言葉にはならなかった。
ただ鮮明なのは、出ていく母の後ろ姿、雨の音と喪失感、そして――あの甘い匂いだけだ。
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