第3話 運の良い夏

食卓の上には、地域紙のカナリアをはじめ、スポーツ新聞が並んでいる。


ゴールを決めた後のガッツポーズの写真だ。


お父さんは朝早く起きて、この新聞を集めてきたようだ。


「新しいカナリアの飛翔」


「aparición de los cometas(新しい星の出現)」


「爽やかなスタート」


などなど。


実際には一軍に定着もしていないのに、新聞は新しいレギュラー攻撃手が発掘されたかのように騒いでいる。


カストロは靭帯を伸ばして2週間の怪我だと言われていた。


ペカルとカストロ、攻撃陣の二本柱が離脱したからといって、先発争いが簡単になるわけでは全くなかった。


次の試合ではおそらくコロンビア出身のフアン・ナルバエスが先発に出るだろう。


レアル・ベティスからレンタルで来ている24歳のストライカーとの先発争いに勝つことは無理な要求だった。


試合が終わった直後、相手の守備選手と競り合ってできたあざが痛む。


たった30分しか出場しなかったのに、体はボロボロだ。


体を鍛えればいいのでは?


フィジカルコーチの許可なしに運動量を増やすことはできない。


ラス・パルマスもラ・リーガ2部に所属するプロクラブであり、プリメーラ・ディビシオンは世界でも屈指のリーグだ。


当然、若い選手ほど運動量に制限があった。


報告なしの追加トレーニングはすぐに懲罰に繋がる近道だ。


他のクラブがどうなのかは正確には知らないが、とにかくラス・パルマスはそうだった。


硬くなった足を揉みながら、食卓の上の木のバスケットからバナナを1本取る。


日の出前に体をほぐすジョギングをするべきだったが、今日はジョギングは諦めた。


カナリア諸島の夏はモロッコの隣にあるせいか、気候もアフリカと似ていた。


平均気温28度で湿度は60パーセント。


早朝や夜にジョギングをしないと、ただ体を酷使する愚かな行為に過ぎない。


「日向、準備できた?」


「はい。」


バナナをもう1本持って、バッグを持ち玄関に向かう。


通っている地元の高校に行くには車に乗る必要があった。


家がある海辺を離れ、街の内側に入ると、グラン・カナリアスタジアムの隣に学校がある。


CEIP 7 Palmas。


会社名のような学校は静かで通いやすい。


実は現地の生徒たちが受けている授業に一緒に参加するわけではなかった。


語学学校に近い感じだ。


入学面談で7 Palmasの運営者は、現地の中産階級の子供たちが多く通っていると言っていた。


校内の雰囲気は厳格で硬く、話し好きでない私にとって最適な環境だった。


朝から溢れ出してくる観光客の群れを抜け、閑散とした街の内側に入ると、ベージュ色の学校と寮の建物が見える。


どんな歌か見当もつかない、昔の歌を鼻歌で歌っているお父さんは、とても機嫌が良さそうだった。


だから私も気分がいい。


何か初めて自分の役割を果たしたような気分だ。


両親が離婚する過程で感じた無力感を一皮むいたような気がした。


「気をつけて、今日も頑張ってね。」


「はい、車に乗せてくれてありがとう。」


寮を運営する学校の特性上、正門には誰もいない。


初めてグランカナリア島に到着したとき、クラブは学校側に出場規定の問題を理由に、寮の代わりに家から通学できるように要請した。


だから、この学校で通学する学生は私しかいないのだ。


お父さんに挨拶をして、いつも会う警備員のおじさんにも挨拶をする。


警備員のおじさんは私を見ると、明るい笑顔を浮かべて警備室から駆け寄ってくる。


「カナリアス・デ・ニッポン!」


「はい?」


「昨日、サッカーの試合を見たよ。」


うーん、日本から来たカナリアか。ひどいニックネームだ。


しわだらけの手でペンと紙を差し出し、サインを頼むおじさんに、漢字で名前を二文字書いて渡すと、とても喜んでくれた。


授業の時間割を確認し、ロッカーから本を取り出して、該当する教室に移動する。


話す力はひどくても構わないが、監督の戦術を理解するためには聞く力をもっと鍛えなければならなかった。


授業の時間、地理の先生の地域別の名品ワインの講義を聞くと、うんざりする。


結局、カナリア諸島のワインが素晴らしいという結論で終わるのだ。一日や二日のことではない。


食堂でソーセージやタコが入ったよく分からない料理で食事を済ませる生徒たちの中で、私は食事管理の名目で朝に持ってきたプロテインドリンクとパン、サラダにバナナを添えて食べる。


食事が終わると、午後の授業を飛ばしてトレーニング場まで歩いていくことになる。


午後の街は閑散としていた。スペイン特有のシエスタ文化のため、トレーニング場に向かう時間にはいつも通りがガラガラだ。


海辺なら観光客で賑わっているだろうが、クラブのスタジアム近くはグランカナリア島の住民が住む場所だった。


トレーニング施設に入って着替える。当分の間、1軍のトレーニングメンバーに含まれているが、いつ再び降格するかは分からない。


着替えている途中、ラミレズ・ベニートがロッカールームに入ってきた。


軽く目で挨拶を交わし、先に外に出て体をほぐす。試合を終えたばかりなので、午後はチームの回復トレーニングが予定されていた。


2日ほど休むと、体の状態が明らかに良くなる。


水曜日、チームの戦術会議で分析官は選手たちに厳しい試合になるだろうと言った。土曜日にはマラガとのアウェイゲームが予定されていた。


「マラガはサンチェスコーチの指導の下、4231のフォーメーションを基盤とし、ポゼッションを重視するチームだ。」


分析官は選手たちと質問を交えながら、休むことなく話し続けた。


半分は理解し、半分は知ったかぶりして聞き流す。おおよそアドリアンのシュート角度やサントス・ヘナトの突破の癖についての話だった。


「コーチは4141のカスタマイズ戦術で対抗することにした。フォーバックの前に守備的ミッドフィールダーを配置し、サイドミッドフィールダーも中央の戦いに関与する必要がある。ミッドフィールダーラインで主導権を握り、サントスからアドリアンに繋がるマラガの攻撃ラインを遮断するんだ。」


プロジェクターが次のスライドに移る。


「マラガのメディアプンタ(攻撃的ミッドフィールダーの一種)を息もできないようにしてやれ。結局、このゲームの鍵は相手の中盤をどれだけうまく破壊するか、それだけだ。」


残念ながら、私たちは任務をうまく遂行できませんでした。


* * *


2019年8月25日


マラガのホームスタジアム、ラ・ロサレダ。


私たちはひたすら打ち負かされるばかりだ。シーズン初めがこんなにも難しいものでいいのだろうか?


南スペインまで飛行機で飛んできた選手たちがコンディション調整に失敗したことが、この困難を引き起こしているのかもしれない。皆、体が重かった。


右ウィングに中央ミッドフィルダーのイニゴまで投入したが、肝心の中盤の戦いでも押されている。


「下がれ!」


中央で主導権を失ったため、中央ディフェンダーのアイタミの合図に従いディフェンダーたちがラインを下げた。


一昨年は選手の給与もまともに支払えなかったチームだったのに、今グラウンドでプレーしているマラガの選手たちは輝いている。


「くそっ!」


「惜しかった!もう一度行こう!」


すでにペナルティボックス付近からシュートを打ったのは3回目だった。


ボール支配率は良く言っても6:4、いや7:3だ。ベンチの向こうのコーチたちはひたすら頭を突き合わせて話し合っているが、今のところ明確な方法がない。


ペドリの天才性に頼るしかない。


前方のパスを受け取ったマラガの中央フォワード、アドリアンが中央ディフェンダーのアイタミとの競り合いで優位に立ち、ペナルティボックスからシュートを放つ。


「ああ!」


マルティネスの指先に当たったボールがゴールの右側にそれる。


21歳の若いゴールキーパーは、危機を招いたディフェンダー陣に腕を振り回して怒っていた。実に情熱的な性格だ。私ならただ静かにコーナーキックに備えたことだろう。


次のコーナーキック、ペナルティボックスの中でマラガの青いユニフォームが一人飛び出してくる。背番号は見えなかった。


ゴールの左側を狙ったヘディングシュートをマルティネスが再び横に弾く。


「くそ!」


「ちくしょう!」


マラガのファンの歓声が終わる前に、マントバーニが相手陣地にボールを大きく蹴り出した。


大雑把にクリアしているように見えるが、全て戦術に基づいたボールだ。対角線上に長く飛んだボールが、定位置で待っていたペドリのそばに落ちる。


ペドリは柔らかなタッチで、プレッシャーをかけてくる相手ミッドフィールダーからスペースを取り戻す。彼の視線がフィールドの反対側に向かった。


「ペドリ!」


コロンビア出身のストライカー、フアン・ナルバエスがハーフラインを越えて上がっていた。


マラガのウィングバックと中央ディフェンダーを抜けて、フアンの前方にスピンのかかったボールが届く。5人のディフェンダーを無力にするペドリの驚くべきパスが出た。


なぜ彼がバルセロナ所属の選手なのか、ショーケースでもしているかのようだ。


ベンチから拍手と感嘆の声が上がった。


フアンは最初のボールタッチを長く取り、南米選手特有の弾力で追ってくる相手ディフェンダーを半ばかわした。再び得るのは難しい一対一のチャンス。


「来た、来た!」


「フアン!」


スタジアムの沈黙の中、少数のラス・パルマス遠征ファンの声援が響く。


マラガのキーパーの股間を狙った見事なフィニッシュだった。


試合が思うように進まなかったにもかかわらず、選手たちの個人技で生まれた先制ゴールだ。


***


前半は失点なく終わった。


選手たちがロッカールームに戻ると、コーチが細かい戦術の変更を伝える。


その中で、前半の終わりに警告を受けたペドリは、監督に叱られ、しょんぼりした表情をしていた。


後半は一進一退の攻防戦だ。


スタジアムの一角で体を温めていたため、よく見えなかったが、マラガの攻撃をぎりぎりのところでよく防いでいるようだった。


特に、アイトミとマントバーニがカードなしで守備をしている点は励みになり、コーチの歓声と拍手が体を温めている場所まで聞こえるほどだった。


しかし、後半80分、右ペナルティラインで事件が起こる。


ウイングバックのクルベロ・デラフェのタックルに、審判は迷わずホイッスルを吹いた。


ペナルティキックだった。


ホーム観客の巨大な歓声が地面を揺るがす。


顔を赤らめたペペ監督の抗議にも関わらず、審判は判定を覆さなかった。


VARを担当する審判たちも反則を再確認する。


あごひげを手で撫でながら、アドリアンがペナルティボックスにボールを持って入った。


「イェーイ!」


「うわぁぁぁ!」


マルティネスを欺き、左のネットが揺れる。


同点ゴールだ。


何を考えているのか分からないが、10分も残っていない状況でペペ監督は再び私を呼んだ。


先週と同じようにしろと言う。


特に戦術的な動きは強調されなかった。


不意に、私は監督に勝利をもたらすお守りのような存在として試されているのではないかという気がした。


2試合連続出場だなんて。


不思議な気分だったが、とにかく副審に近づいて交代の準備をする。


前半から体力を消耗していたセンターミッドフィルダー、レモスはハビ・カステヤノと交代した。


何歳だったかは覚えていないが、ハビ・カステヤノは年が上だ。


1軍で1週間訓練している間、チーム内で厳格な人物だと思っていたが、一緒に交代で入ると、彼は思いっきりプレーしろと励ましてくれた。


話したことはないが、いい人のようだ。


もちろん、私が交代で入ったからといって、驚くような変化は起こらなかった。


先週の試合との違いはここがラ・ロサレダ、マラガのホームスタジアムだということだ。


試合の主導権を握ったマラガは、ひっきりなしにラス・パルマスを揺さぶった。


シフがサントスに、サントスがサイドに近づいてきたアドリアンとワンツーパスを交わした後、クロスフェイントまで。


マラガの攻撃は驚くほど洗練されている。


サントスはバランスを崩して倒れたラス・パルマスの左ウイングバック、デ・ラ・ベラを確認し、ペナルティボックス前のフアンティにグラウンダーパスを送った。


フアンティはためらうことなくシュートし、逆転ゴールを狙う。


「よし!」


「マティ、よくやった!上出来だ!」


芝生にバウンドして左ゴールポストに向かうボールをマルティネスがかろうじてクリアすると、アイタミとマントバーニは彼の後頭部を叩きながら熱心に褒め称えた。


自分があんな状況にならなくてよかったとほっとした。


マラガの選手たちは惜しがらない。すぐにでも追加ゴールを決められそうな雰囲気で、実際にその可能性は高かった。


続くコーナーキックはデ・ラ・ベラのヘディングで無効になる。


交代で入ったハビ・カステヤノとマラガのミッドフィルダーがペナルティボックス前でボールの所有権を争う。肘と腰を使った身体の激しいやり取りがぞっとする。


あの競り合いが自分だったら、少なくとも三箇所は打撲を負っていただろう。


競り合いで勝利したハビはすぐに定められた位置にボールを蹴り込む。いつものようにペドリのいる場所へ。


ペドリはボールをキープせず、そのまま足を当てて方向を変え、前方に繋げる。


ディフェンダーたちの頭上を越えるダイレクトなロングパスだった。


スペースを見て入ってくるパスに素早く走り込み、ボールを自分の前に落とす。ハーフラインを十歩ほど越えた位置で、前には誰もいない。


ペドリの才能に心の中で純粋な感嘆が湧き上がった。


もちろん、マラガの追加ゴールへの欲がハーフラインの後ろを空けてしまったことも大きい。しかし、パスのレベルが素晴らしいという事実は否定できない。


今年の夏は妙に運が良いようだ。


「ウウー!」


ペナルティボックス近くまでマラガのゴールに向かって一気に駆け抜ける。マラガのファンのブーイングが面白くて笑いがこみ上げた。自分のフィニッシュに彼らは泣くか笑うかするだろう。


軽く蹴り上げたボールにペナルティボックス外に出てきたゴールキーパーは反射的に空中に手を伸ばす。ボールはその手が届かないところを通り過ぎていく。


ボールの軌道はとても良い感じだった。

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