結人Ⅱ
若菜と別れた後、僕は些か焦っていた。仕方なかったとはいえ、既に前回とは流れが変わってしまったかもしれない。もはやそれを悔やんでも仕方ないが、二の轍を踏まないように、僕は記憶を整理することにした。
ヌァルーは言っていた。大事な記憶以外は持っていけないと。よく考えると、そもそも記憶とはそういうもののような気もしたが、確かに最後に何を食べたかなど、どうでもいいことは思い出せないようだった。ただ、強く葛藤したことや、衝撃を覚えたようなことについては朧気だが思い出すことができた。若菜や千種、琴音にかけた言葉、告げられたこと。そして結末。厄神とその依り代となった神崎君によって、僕は抽象的な死を迎えた。
急に世界がファンタジーじみてきた。でも現実だ。そう扱うしかない。恐らく若菜たちも僕と同じように殺されたか、あるいは……いや、あいつは愉しんでいた。きっとすぐには殺されない。いっそ殺された方がマシかもしれない。
あいつは象徴だと言っていた。何の?搾取だろうか。より脆弱なものから順に痛めつけていくあのやり方は、搾取の象徴と言われて合点がいく。その証拠に、琴音が最も凄惨に痛めつけられようとしていた。
「……」
僕はかぶりを振って嫌な想像を振り払った。そんなことはもういま考えても無意味だ。僕はSFにはあまり詳しくないが、これはパラレルワールド的なものなのか、マルチバース的なものなのか、元の世界線は僕の意識の移行に伴って途絶したのか、そのまま続いて行っているのか。そういうことを考え出すとキリがない。仮に訊いたとしてヌァルーは教えてくれないような気がした。それは恐らく過ぎた知識だ。そもそもどうやってあの神性にアクセスして訊けばいいのか分からない。
もう一つ、気になる点があるとすれば、かの神性はこうも言っていた。繰り返すことは僕の精神を磨耗させると。それが比喩なのか、もっと具体的で苛烈な影響があるのか、分からなかった。でも仮に前者だとしても、冷静になると気の滅入る話かもしれない。
やり直し、より良い結果を模索できるという可能性に一時は興奮したが、必ずしも前回より上手くやれる保証はない。課題と思っていることの改善に執着する余り、ふとしたボタンの掛け違いが、かつては上手く行っていた物事を台無しにしてしまうかもしれない。
約一年の積み重ねが白紙になったのだ。論文でも、絵画でも小説でも何でも良いが、積み重ねたものが吹き飛んでしまったと考えればかなり痛い。自分の中の記憶を頼りにやり直すとしても、その時々で降りてきたインスピレーションを再現できるだろうか。そんな風に考えると、怖かった。それでも、ひとまず今は良い面に目を向けて前進するしかない。
ヌァルーは言った。少女たちの成長を
(まるで蝙蝠だ)
僕はまた、思い出したくもない仕事上での嫌な記憶を思い出した。ベンダーのマネージャーとして、クライアントの元に派遣され、どっちつかずの蝙蝠として相反する利益の調停を行う。それによって引き裂かれようとも、誰も責任など取ってくれない。
「……やれやれだな」
仕事をしている時に『やれやれと口に出す人を初めて見た』と言われたことがあった。創作の影響を受け過ぎたかもしれない。しかしそんな風におおげさに毒づかずにはいられない時があるのだ。今がまさにその時だ。そうやって僕はいつも自分を励ましていた。
僕はどうすべきだろうか、そう考えた時、真っ先に浮かんだのはやはり琴音のことだった。あの厄神が人間のネガティブな波長を糧としているというなら、彼女をまず救わねばならない。彼女に新たに生まれてしまったトラウマ。それを防ぐか、解消するかしなければならないと思った。だがどうやって?情報を集め、加害者を突き止め、それ自体が起きないようにする?とはいえ情報なんてほとんどない。仮に相手を特定できたとして、事件が起きた日がいつかも分からないのにどうすればいいというのだろう。
僕は愚鈍な案山子のように突っ立って考え続けるのが馬鹿らしくなり、目についた木の根元に腰を下ろした。湿った土のひんやりとした感触がした。蟻が一匹、僕の体を許可なく上って来たので、丁重にお引き取り願った。
琴音に降りかかったこと、それがよほど悪意に満ちて計画的で特殊な一回性の事件なら強引に手段を問わず防ぐべきだ。スーパーフリーみたいな組織があるなら、壊滅させてやる。なんとか周囲を説得し、巻き込み、張り込んだっていい。だが、僕はそれは今回のケースについて言えば、根本的な解決にならない気がした。彼女が遭遇したのは、話を聞いた直後にも思ったことだが、恐らくは
それにヌァルーは彼女ら自身の変化を望んでいる。であれば、彼女自身に対してアプローチするしかない。当然ながら彼女に非のあることではない。本来なら双方にアプローチしたい。でも、僕個人が対策するとしたら、そうなってしまう。僕は活動家ではない。いや、活動家だとしても彼女一人を確実に救うにはそうするだろう。
(悔しい……)
僕は最近悔しがってばかりだ。奥歯が擦り減ってしまいそうだ。ただ時間の遡行で肉体は当時のモノなのだろう。どうだっていい。僕の奥歯で彼女らが救われるなら安いものだ。
そもそも僕は前回の世界において、彼女に対しては慎重を期するあまり、十分にコミュニケーションが取れなかった気がする。ファーストコンタクトからして酷いものだった。彼女と向き合おう。そして、抱えている問題の解決の力になりたい。普通ならこんなことはお節介だと思って考えもしない。でも今の僕にはその必然性がある。コンテキストがある。
僕は立ち上がると、あの日と同じように、プールを目指して坂を下り始めた。
それから、僕はなるべく自然に振舞うように意識しながら、記憶している要所要所で、あるべき振舞いを改めて考えつつ、村での日々をなぞるようにして過ごした。しかし結果的にほとんどの場合において、僕は同じように振舞ったと思う。
宴会の夜に、村民の皆の前で自己嫌悪を感じながらも妻の死を語り、起一さんを引き留め、千種を褒め、励ました。若菜にはもう少しかみ砕いた話をしたつもりだが、やはり「リクツっぽい」と言われてしまった。
でも琴音に問い詰められた時、少し何かが変わった気がした。
「無責任じゃないですか?」
夕暮れ時のボロアパートの前で、琴音はあの日と同じ強い感情を帯びた目で僕のことを見つめていた。いや、睨んでいた。
あの時、僕はつい感情的になってしまった。年甲斐もなく。でもさすがの僕でも、二回目ならもっとやりようはある。前回の罪悪感は、僕の中にしっかりと根を張っていた。今はそれが、有難かった。
「もしかすると、そうだったのかもしれない」
僕はなるべく心を落ち着けて、威嚇しないように琴音にそう伝えた。彼女の感情を受け止められるように。
「あの時、僕は、伝統や千種さんのことを知らないなりに、彼女を励ましたかった。彼女自身の迷いを、間違ったことのように思って欲しくなかった」
言葉を切りながら、一言一言、確かめながら紡ぐ。琴音に伝わって欲しい一心で。
「でもそれが悪い結果を招いたとしたら、責任を取りたいとも思ってる」
彼女が怯んだのが分かった。相手を怯ますのは、威圧ばかりではない。
「……責任なんて、どうやって取るつもりなんですか?」
その問いも、僕は想定していた。
「それはどういう悪い結果が起きるかによって変わってくると思う。遠野さんは、どんなことが起きると思ってる?」
琴音の瞳が揺らぐ。眉根を寄せ、握られていた拳が解ける。
「それは……千種が流されて、本当は嫌なのに誘導されちゃったりして……巫女を継がされたり、それでもっと他の色んな可能性が無くなっちゃったり……」
琴音の千種を想う気持ちが、うだるような夏の熱気と共に流れてきた。
「千種さんは、流されてると思う?」
その時の彼女は、迷子の子どものように心細く見えた。やがて少し俯いて、言葉を続けた。
「……わかりません。でもきっと、重圧は感じてるはずで――」
「そうだね。やさしい彼女のことだから、誰もはっきりとは口にしなくても、感じ取って期待に応えようとはするかもしれない」
彼女は再び僕を見る。そこまで分かっているのならなぜ?そんな風に言いたげに見えた。
「でもね、それは多分、他の仕事や人生の様々な選択肢においても、同じことが言えると思う」
それは僕自身に向けられた言葉のようにも感じた。でもそれ故に、説得力を持つはずだった。
「むしろソトの世界では、もっとドライにそういったやりとりが為されたりもする。メリットがあるか、ないか……お互いに利用し合い、駒のように使い捨てるんだ。そして残念ながら、そういうことをする人間は分かりやすく高笑いなんてしない。普通の人間に見える。せいぜい、ちょっと顎をしゃくる程度だ」
僕は言っていてだんだんと苦しくなってきた。そんな僕を見る琴音の目に差した色、それは憐れみだろうか?
「それに比べれば、この村での千種さんへの期待は、僕にはまだ温かく映る。もちろん、それ故に情に訴えられる苦しさもあるんだろうけどね」
琴音からはもう、最初あったような強い怒りは感じられなかった。
「遠野さん、君が僕のことを信用できないのは当然だと思う。だから、そのままでいてくれて構わない。ただ千種さんの問題については、良かったら一緒に考えさせてほしい。ソトの人間だからこそ、失敗してばかりの格好悪い大人だからこそ、言えることもあるかもしれないから」
彼女は俯く。
「……信用できない……」
「……だよね」
「でも……ちょっと考えさせてください」
僕はようやく少しだけ、息をつくことができた。
「正直、私まで懐柔しようとしてるかもしれないって、そう、思ってますから」
彼女の臆さず、不器用で、でも真っ直ぐな在り方は、僕を安心させた。
「さっきも言ったけど、警戒してくれて構わない。それが適切だ」
琴音は怪訝な表情で、やり場のない感情に戸惑っているように見えた。自分の感情なんて受け入れられなくて普通、彼女はいつもそんな風に感じているのかもしれない。
「ちなみに……」
歩み寄るため、僕は何かを開示したい気持ちになっていた。
「僕は中高一貫の男子進学校の出身でね。周りの人間の男のホモソーシャルな考え方が嫌いだった。それでも、大学で更に学んでいくと、自分だってまだまだ全然マッチョだったことに気づいて愕然としたけど」
「ホモ……?」
琴音は僅かに眉をひそめたが、ちょっと今までとはニュアンスが異なった。
「ごめん、多分考えてることが食い違ってる。相手に合わせた噛み砕いた表現が疎かになるのは僕の悪い癖だ。若菜ちゃんにリクツっぽいって言われるのも無理ないね」
琴音はキョトンとしたままだ。
「つまり、男性中心な考え方が嫌いってことだよ。女性を性的な対象だったり、子どもを作る道具としてしか見てなかったり、そういうこと。古い考え方のようでいて、残るところには今も残っている。ある種の状況は、人の想像力を殺し、その源泉となる想いを歪めてしまうから」
僕は荒ぶる感情を抑えつつ説明した。
「自分は他の男とは違うぞ、ってこと……?」
彼女は眉根を寄せて戸惑っていた。
「味方ではいたい、そう思ってる。なけなしの想像力を振り絞って……もう遅いから今日は帰った方がいいね」
空を見上げると、星が瞬き始めていた。
「おやすみなさい、遠野さん。話せて、嬉しかった」
下手な笑顔でそう告げると、琴音は釈然としない表情のまま少し頭を下げ――
「おやすみなさい」
それだけ返して、すぐに走り去っていった。小さな背中だった。
前回よりは多少マシな関係を築けるかもしれない。でもまだ足りない。夜、水風呂に浸かりながら僕はそう感じていた。
次のステップとしては千種が鍵になるかもしれない。彼女との絆を深めることで、間接的に琴音との関係を築けないだろうか。将を射んと欲すればまず馬を射よ。
千種を馬に例えるのはなんだか失礼な気がしたが、最近は馬を擬人化したIPも人気を博している。馬の耳と尾がついた千種のイメージが頭をよぎる。
下らない想像はさておき、純粋に千種の奉習がその後も順調なのかは気になる。村を発つ前の彼女の翳った表情についても、僕は心残りがあった。
とはいえ、連絡手段がない。そうこうしているうちに、きっかけは意外なところからやってきた。
和夫さんとの定例会で、村の歴史についての資料を当たる目的で学校の図書室は利用できないかと尋ねたところ、八月はお盆までは閉館だということだった。ただ、職員に相談すれば開けることもでき、開ける際は千種が鍵の場所などを知っているから頼ると良いということで和夫さん経由で連絡を取ることができた。
「なぜ、千種さんが?」
「あの娘は図書室の妖精じゃからな。放課後も閉館近くまで居座ることが多かったから、いつしか施錠を任されることも増えとった。ま、田舎のおおらかさ故じゃな」
確かに言われてみると、千種には図書室が似合うような気がした。積み上げられた本の海に揺蕩う文学少女然とした千種のイメージが僕を魅力した。
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