#9
四十九日チャレンジ開始から、どのくらい経過しただろうか。
墓前に時計やカレンダーを供えるような奇特な人間は居ないので、霊は現在の日付を正確に知る手段を持たない。
ただ、俺はかなりの空腹感に苛まれていた。
俺に供えられたものは、家族からのものと、友人達からのものだけだ。
いくら霊は人間とは腹の減り具合が異なるとはいえ、それだけで四十九日保たせるというのは相当厳しい。
過去の挑戦では、ここからはもう削れるのみだった。
いつしか意識もなくなり、そして気付いた時にはホトケから失敗を告げられて、それまでだ。
今の俺は、またその時の状態に近くなっている。
自分が立っているのか座っているのか、何を見ているのかどこを見ているのか、考えているのかいないのか、全部が曖昧になる。
緩やかに死ぬというのは、恐らくこんな感じなのだろう。
雑草でも土でも口にしたいが、それすら叶わぬのが霊だ。
俺はもう、長くはない。経験則で、それを悟る。
『心汰よ』
「…………」
視界にホトケのまん丸い瞳が映る。
俺を覗き込んでいる……ってことは、俺はどうやら仰向けで倒れているようだ。
『このままではまた失敗するぞ』
「…………」
『分かっていても尚、挑戦したのか?』
「…………」
『最後の情けじゃ。すぐに棄権せえ。そうすれば、あと一回だけ挑戦権を与えよう。今年は運が向いていなかった――来年以降、奇跡が起こるやもしれぬ』
口が動かない。だから首だけ動かせば、意思表示となる。
確かにホトケの言う通りだ。ここで棄権させてくれるのなら、まだチャンスが残る。先に起こることなんて誰にも分からないから、それは成功の可能性も残っていると考えられる。
ホトケはホトケなりに慈悲深い存在なのだろう。
俺を憐れむような瞳と声音に、全てを委ねたくなる。
――だから俺は、首を横に振った。
『……そうか。それがお主の選択ならば、何も言うまい』
「…………」
人徳とは何なのだろうか。
俺には分からない。
ただ、供え物の量だけでそれが測れるのかというと、絶対に違うということだけは分かっている。
この霊園に、恐らくは結構な有名人が眠っている。
芸能関係なのか、スポーツ関係なのか、それは知らないが、他の人間よりも圧倒的に墓参りに来る人が多かった。自然、その供え物の量は溢れ返らんばかりで、霊園の管理人が苦言を呈するほどだ。
だが、その人がチャレンジに失敗するのを俺は見た。去年の時点でもう五年目だったらしく、ラストチャンスも逃し、そしてその人は地獄へ堕ちた。
普通なら、あれは成功間違いないはずだ。なのに何故、あの人は失敗したのか。
よほどの暴飲暴食をしたのか。詳しいことは分からないが――単純な供え物の量が、このチャレンジの成功に繋がるわけではないと、俺は何となく悟った。
多分、ホトケの言う通りなのだ。
チャレンジを成功させたければ、奇跡というものを起こさなければならない。
ただ、与えられて当然のものを食むだけで、天国へ逝けるはずがないのだ。
人徳とは奇跡を指すのではないか。朦朧とした意識の中で俺はそう考える。
しかしそれがいつ起こるのか、どうすれば起こるのか、霊に推し量る術はない――
『えーっと……』
――わけではない。
キョロキョロと周囲を確認しつつ歩いて、やがて俺の墓前までやって来た。
俺より年上の、人相の悪い疲れた男が。
『あ、ここか。はは……ほんと、どの面下げてって話だ』
名前なんて終ぞ知らない。だが、顔だけは忘れるはずもない。
俺が助けた、窃盗犯の男。どこか居たたまれないような、居心地の悪そうな表情で、ぺこりと俺の墓に頭を下げる。
『家族さんに顔を合わせたら、殺されても仕方がないんで、来る時期を遅らせました。その……本当に、ありがとうございました。すみませんでした』
丸めた頭を下げ続ける。
命日でも盆でもない時期に墓参りに来たのは、少しでも俺の家族や知り合いと遭遇する可能性を下げる為だ。
『俺、マジで頭悪いんで、こういう時何を供えればいいのか、全く分かんなかったっす。だから、すげえ適当かもしれないけど、俺が好きなもんを持ってきました』
コンビニ袋から、男は缶チューハイやらホットスナックやらポテチやらを取り出して、墓へと供えていく。どれも俺がそこまで好きなものではないから、本当にこの男が好きなものを持って来たのだろう。
『金もないんす。出所したばっかりで……』
バツが悪いのか、それとも照れ臭いのか、男は視線を右往左往させていた。
線香もろうそくも献花もない。ただ、罪悪感から参りに来ただけだ。
『もう行きますね。すんません。安らかにお眠りください』
長居するつもりもなかったのか、男はまた一礼して去っていった。
多分だけど――もう彼は二度と俺の墓参りには来ないだろう。
しかし俺は思い馳せる余裕もなく、余力を振り絞って『転換』を行った。
男が供えたものを全部こちら側に『転換』し、とにかく手にしたものからかぶり付く。
最初に口にしたのは、コンビニで売っているホットスナック――揚げたチキンだ。
一口噛んだだけで、油と肉汁が混じり合って溢れ出す。
渇き切った口内に、それはさながら清水のごとく染みた。
あっという間に全部平らげると、次は缶チューハイに手を伸ばす。
酒が好きとか嫌いとかはもうどうだっていい。
プルタブをこじ開けて、プシ、と炭酸が抜ける音を聞くや否や、喉を鳴らして飲む。しゅわしゅわとした喉越しに、レモンとアルコールの苦味が後を追う。
これがレモンチューハイであることすら気付いてなかったので、飲んでから改めて分かった。
清酒はまだまだ難しかったが、チューハイはちょっとジュースに近いので好きかもしれない。
そんな余裕あることを考えられるぐらいには、この二つは俺の存在を満たした。
「……っぷはぁ! ああ、生き返る」
『死んどるじゃろ』
「うるさいな。比喩だよ」
ホトケはずっと俺を眺めていたのか、一息つくまで黙っていたらしい。
飢えを凌ぐと、途端に頭が冴える。というか、思考に余裕が出る。
『お主は、分かっておったのか。あやつが墓参りに来ることが』
「……確証はなかったよ。ただ、来てくれる可能性があるのが、今年だけってことぐらい」
『どういうことじゃ?』
「あいつ、窃盗の常習犯だろ。俺が車に撥ねられた直後に、警察に捕まってる。常習犯ってことは、多分前科がつく。懲役刑だとしたら、最低三年以上の刑罰だ」
『三年経ったから釈放された。そうすれば自分の墓に来ると? もし三年以上収監されておったらどうするつもりだったんじゃ?』
「その時はその時だろ。最低の三年で釈放されたら、一度くらいは俺の墓に顔を出すんじゃないかって思ったから、今年チャレンジした。俺が起こせる奇跡は、そのくらいだよ。大したことのない人生だったから」
その大したことのない人生の集大成が、犯罪者を助けた代わりに死ぬ、というものだ。
決してあの男は善人なんかじゃない。
でも、そういう形で恩を返してくれる……墓参りに来るぐらいの奇跡は、起こってもいいだろう。
かなり綱渡りの博打をした俺へ、ホトケは口をぽかんと開けて呆れていた。
『しかし何故、斯様な法の知識を?』
「生前の進路は大学進学で、法学部希望だった。それだけ」
『……お主、思ったよりも肝の座った小僧じゃのう……。確かに、もし来年以降チャレンジしていたら、あの男はもう来ることはないじゃろうな』
「多分、俺の為を思って来たんじゃない。自分の人生に区切りを付けたかったから、あの人はわざわざここへ来たんだ」
供え物は確かにありがたかったが、家族のものと違って、そこまで想念は込められていなかった。
だから『現象』は起こらなかったし、あの男について俺が窺い知れる部分はほとんどない。
想念が込められてないって時点で、もう来ることはないとむしろ考えられるぐらいか。
『あやつのせいで死んだのじゃろう? 少しばかり祟っておかんか?』
「必要ないって。恨んじゃいない」
むしろ感謝したいが、しかしそれはあまりにもお互いに都合が良すぎるだろう。
だからもう、俺は彼のことを忘れるべきだし、彼も俺のことを忘れるべきだ。
「俺が生きていて、あの人が死んだとしても……多分俺だって、一回しか墓参りに行かないさ。それで充分だし、本来そういうもんなんじゃないか、人徳ってやつは」
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