#8


 生きている人間と、死んだ後の霊に差があるとすれば、それは経験というものの差だろう。

 何せ霊は行動範囲が限られ、そして本当に手に入るものがない。

 思考する時間だけは充分にあるとはいえ、しかしそれだけでは何も得られないというのが実情だ。


 どこにでも行けて、そして金があれば大体のものは手に入るという仕組みが、人生というものを確実に色濃くしているのだと、やはり死んでから気付く。

 もっとも、だからといって霊になれば新鮮な経験が一切ないといえば、そうでもない。


 少なくとも今俺は、人生に於いて一度もなかったであろう経験をしようとしている。


「これが……酒か」


 父さんが供えた、もう一つのもの。ジュースではなく、ちゃんとした酒。

 濁ったガラスの容器に入ったものだ。

 銘柄とかは全く知らないのでイメージで語るが、多分高いやつだろう。

 コンビニとかで気軽に買うようなものではないと思う。


『おっ、いい酒持っとるのう』

「なあ、ホトケ。聞きたいことがある」

『なんじゃ? マイおちょこを用意するからちょっと待っとれ』


「おい何で一緒に飲む前提で動いてんだ」

『え?』


 嘘やろ? みたいな顔でこっちを見てくる。

 悪いがチャレンジ中に余計なをするつもりはない。

 その旨をホトケへ伝えると、露骨に落胆した顔を見せた。


『はー……しょうもな。欲の皮が突っ張った小僧じゃ』

「むしろ突っ張ってんのはお前じゃないのか……」


 もうホトケは踵を返そうとしていた。

 いつ現れるのかは完全にこいつの気分なので、いつ居なくなるかもやはり気分だ。

 俺は先に質問を彼女へとぶつけておく。


「俺は一応未成年のままで死んだんだけど……酒って飲んでいいのか?」


 未成年飲酒は法律で禁じられている。俺はわざわざ未成年なのに酒を飲んでイキるような、そんな馬鹿な連中にはなりたくない。なのでもしホトケが『ダメじゃ』と言うのなら、この酒はこいつに譲るつもりだった。


『くだらんことを聞くのう……。霊が人の法律なんぞに縛られてなるものか』

「ってことは、問題ないんだな」

『それを供えられた意味を考えれば、答えを返すまでもなかろう』


「……そうか。ありがとう。なら遠慮なく全部飲むことにする」

『チッッ』


 めちゃくちゃ露骨な舌打ちをして、ホトケは去っていった。

 どうやらかなりの酒好きらしい……その見た目でか。変なギャップの持ち主だ。


 俺はマイおちょこなんて持っていないので、そのまま酒瓶の栓を開けて、酒豪のようにぐびりと口にした。

 最初に思ったのは、全然美味くないってことだ。

 舌が痺れて、次に喉の奥が痺れる。


 もっと水みたいな感じで、さらりと飲めるようなものだと思っていた。

 見た目が水っぽい……清酒ってやつだからそう思ったのか。

 でも実際は違う。むしろ辛いぞ、これは。

 鼻の奥がつーんとして、アルコールが胃から上全部に駆け抜けていく。


「あーっ、すごいな、これ」


 大きく息を吐く。幽霊だって呼吸をする……思い込みのようなものだろうが。

 最後に舌に残ったのは、爽やかな甘みだ。最初は辛くて、最後は甘い。

 不思議な感覚――少なくとも、酒以外でこんな味覚体験は出来ないだろう。


 同時に、また『現象』が来る。

 しかしぽわぽわと浮かぶような、空に引っ張られる感じで、いつもとは異なっていた。いわゆる酔いなのだろうか、これが。

 そう悪い気分ではないと思う。


 ――お前も、生きていれば二十歳か。立派な大人だ。


 仏壇の前で、父さんが一人晩酌をしていた。父さんはそこまで酒が好きってわけでもなく、たまに晩飯の際に飲むぐらいだった。

 が、今はもうほぼ毎日酒に浸かっている。夜、それを浴びねば眠れないのだろう。

 酒が好きだから飲むのではなく、酒に宿る力に縋っていると言った方が正しい。


 ――いつもはジュースだったけど、今年はいい酒も持って行こう。


 酩酊という救いに向けて、父さんはおちょこを傾ける。

 この様子を、母さんはどう思うのだろうか。

 好意的に受け入れるとは思えなかった。


 ――お前はどっちが好きだろうな。まあ、きっとジュースのほうだろう。


 独り、くつくつと笑う。


 ――一緒に飲めると思ってたんだけどなぁ……。


 不意にぽつりと呟いた父さんのその言葉は、本心から滲み出たものだ。

 夢想する。俺なのか、父さんなのか。土曜日の晩飯がいい。

 父さんと俺は、とりあえずわけもなく缶ビールをぶつけ合って乾杯して、ごくごくと喉を鳴らす。が、俺はすぐに口を離し、苦そうな顔をした。


 父さんがまだまだガキだな、みたいな感じで煽る。

 涼心が、自分も飲みたいとせがむが、俺と父さんは口を揃えて「駄目だ」と言った。

 そんな俺達を見ながら、母さんが作った鍋を持ってダイニングへとやって来る……。


「生きていれば……」


 そんな風景が、日常的にあったのかもしれない。呟きながら、意識を取り戻す。

 俺はいつの間にか、自分の墓前で倒れていた。酔い潰れた、と表現した方が正しいのかもしれない。

 駅の近くで酔っ払いが転がっていたのを見たことがあるが、確かに酒はそんな恥も外聞もない状態にしてしまうのだろう。


 いつ倒れたのか、全く思い出せない。だから酒は強い魔力を持つ。

 夜、悔恨にまみれ眠れない者を救う為の魔力だ。

 今の父さんがそうであるように。


 妙に喉が渇いていた。俺はまだまだ残っている酒を、もう一口飲む。


「……ジュースの方が、好きだな」


 父さんの予想は、当たっているよ。

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