#6

 ――心汰……。


 野菜を細かく切っている中で、ふと母さんがそう呟く。

 銀の包丁が反射するその顔は、やはりやつれている。

 三年経っても、そこは変わらない。むしろ、ひどくなった。


 ――全部夢だったら、よかったのに。


 虚ろな目で、母さんは長ネギから己の手首へと包丁を移す。

 そこには何本か、線状の傷跡が残っている。

 少なくとも、俺が生きている時に、そんな傷跡は母さんにはなかった。


 ――お母さん、何してるの?

 ――涼心……。何って、見ての通り。

 ――嘘。また、やろうとしたでしょ。ねえ、もう本当にやめてよ……。


 たまたま台所を覗いた涼心が、母さんの衝動的なそれを止めた。

 恐らく、俺の死で最も精神を壊されてしまったのは、母さんだ。

 ばあちゃんとはまた違う、自分を痛め付けるような行為で、どうにか精神の均衡を保っている。

 その保ち方は、他の家族にとっては最悪のものだったとしても。


 ――お母さんまでいなくなったら、涼心もう……。

 ――ごめんなさい、涼心。違うのよ、本当に……違うの……。


 泣きじゃくる涼心。一度や二度の光景ではないのだろう。

 すっぱりと全部諦めてしまいたい。

 しかしそうすれば、残された者が更に傷を負う。

 そんな板挟みが、中途半端な自傷として現れている。


 救いなんて、一つとしてない。

 ただ、忘れてくれればいいのに、それをしてくれない。

 俺が居ない日常に、母さんが折り合いをつけてくれる日がいつになるのかは、まるで分からない。

 だが遠からず、その身を滅ぼすかもしれないことだけが、分かる。


「もう忘れてくれよ、俺のことなんて」


 死んだ分際で、生きている人を苦しめるな。

 俺は、母さんのおにぎりを頬張ったまま、強くそう念じた。


 普通に茶碗に飯をよそうよりも、おにぎりにしてくれた方が妙に美味く感じる。

 それは俺が日本人だからなのか、それとも俺だけのものなのかは知らない。

 母さんはおにぎりにやたらと塩を使う上に、具が塩昆布だから、すごく塩辛い。


 しかし、ただの白飯にそこまで塩を使うことはないから、それがかえって特別なものな気がして、やたらと美味しく感じるのかもしれない。


 ベンチに座っておにぎりを食うと、どこか旅をしている気になった。

 まあ、霊園から出ることは出来ないので、本当に気のせいなんだが。


「もし旅をするのなら……五個は握って欲しいな」


 残念ながら、おにぎりの数は二つだった。

 それでも俺の腹は満たされ、そして存在のどこかにある心が傷付いた。

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