第2話 お前ら色目を使うな!
廊下を進むたび、目に入る豪華な装飾が何度も現実感を揺さぶる。
壁には大きな絵画が掛けられ、光沢のある床には上質なカーペットが敷かれている。窓の外には、さっき見た中世ヨーロッパの街並みが広がっている。
「こんな場所、夢でもない限りありえないだろ……」
俺の家といえば狭いワンルーム。こんな広くて立派な屋敷なんて、映画かドラマの中だけのものだと思っていた。
「こちらです、セリア様」
メイドの女性が足を止め、優雅に扉を開ける。その先には、さらに驚くべき光景が待っていた。
豪華な食堂だった。長いテーブルの上には銀製の食器が並べられ、その中央には色とりどりの料理が所狭しと並んでいる。
パンやフルーツ、スープに肉料理まで、まるで高級ホテルのビュッフェだ。いや、それ以上だろう。
「こちらにお座りください」
メイドに促されるまま、テーブルの端の席に腰を下ろした。柔らかな椅子の感触が妙に心地良い。
「俺の人生、いつからこんなに上流階級になったんだよ……」
思わず呟いてしまう。食べ物なんてコンビニ弁当が当たり前だった俺が、こんな贅沢を目の前にしていること自体が不思議でならない。
「どうぞ召し上がってください」
メイドが微笑みながら促してくる。俺は戸惑いながらも、目の前の料理に手を伸ばすしかなかった。
一口食べてみると、驚くほどの美味しさが広がる。ふわふわのパン、濃厚なスープ、そして香ばしい肉料理。それぞれが、俺の知っている味とはまるで違っていた。
「なんだこれ、やたらうまい……」
けれど、ただ美味しいというだけじゃない。味覚そのものが敏感になったような感覚だ。今まで気づかなかったような細やかな味わいが、はっきりと感じられる。フォークを置き、深いため息をついてしまう。
「何かご不満でしたか?」
心配そうに尋ねるメイドに、俺は慌てて首を振った。
「いや、ただ……」
何もないと言いかけたが、言葉を濁す。説明なんてできるわけがない。
再び手元の料理に視線を落としながら、頭の中では別のことを考えていた。
「どうやったら元の世界に戻れるんだ……」
見知らぬ世界、見知らぬ姿。戸惑いと不安を抱えながらも、この異常な状況をどうにかしないといけない――。
「セリア様、お散歩でもいかがですか?」
メイドにそう提案され、少し迷ったが、今の状況を理解する手がかりを得るためにも外の様子を知るべきだと判断した。
屋敷を出ると、目の前には石畳の道が広がり、見たことのない街並みが広がっていた。中世ヨーロッパのような風景に圧倒されながら、メイドに促されて歩き出す。
道を進むたび、何とも言えない違和感が俺を襲った。それは、すれ違う人々の視線だ。男も女も、皆が俺――いや、この「セリア」とやらに目を向けている。
「……なんでこんなに見られてるんだよ」
視線が突き刺さるようで、落ち着かない。
すると、通りすがりの若い男が立ち止まり、ぽつりと呟いた。
「美しい……」
聞き逃せるわけがなかった。顔が熱くなるのを感じながら、俺は心の中で即座にツッコんだ。
(いやいや、俺は男なんだけどな!)
もちろん口に出せるわけもなく、ただ歩き続けるしかない。
やがて市場に差し掛かると、そこには多くの人々が行き交い、活気あふれる雰囲気が漂っていた。威勢のいい声で値段交渉をする商人たち、色鮮やかな果物や野菜が並ぶ屋台。見たことのない動物が荷車を引いている。
「すげえ……こんな場所、本当にあるんだな」
その活気に圧倒されながらも、同時にここが現実のものではないと実感した。これは完全に異世界だ。俺は、どうしようもなく遠い場所に来てしまったらしい。
しかし、そんな感慨も長くは続かなかった。市場にいる間中、視線がどんどん刺さってくる。特に男性たちの目線が、どうにも居心地が悪い。
「あの……」
思わず隣のメイドに助けを求めるように声をかけると、彼女はニコリと微笑んだ。
「セリア様は目立つお方ですから、仕方ありませんわ」
悪気のないその言葉に、俺はため息をつく。
「目立つなんて勘弁してくれよ……」
ぼやきながらも、歩みを止めるわけにはいかない。
そして、メイドに案内されて到着したのは街の広場だった。
広がる景色は圧巻だった。噴水が中央に設置され、周囲には美しい建物が立ち並ぶ。どこか異国情緒漂う雰囲気に、俺はしばし言葉を失った。
「……すごいな」
ぽつりと漏れたその言葉に、メイドが微笑んで頷く。
異世界――本当に俺は、そんな場所に来てしまったんだと、改めて思い知らされた。
広場を後にして屋敷に戻る途中、メイドがふと口を開いた。
「セリア様、少しこの世界のことをお教えした方がよろしいですね」
歩きながら、彼女はこの世界の基本的な文化やルールを教えてくれた。
ここは「エルセリア王国」という国で、魔法と剣が日常の一部として存在しているという。魔法使いや冒険者が特に尊敬される職業で、街の多くの人々がその力に守られているそうだ。
「魔法や冒険者……なんかゲームみたいだな」
心の中でそう思わずにはいられなかった。現実の俺には無縁なファンタジーの世界が、目の前で現実として語られている。
さらに、俺――いや、セリアという人物についても説明を受けた。
「セリア様はこの街で大変有名なお方なのですよ」
「……俺が?」
「ええ。貴族の出身で、美しいだけでなく、その聡明さでも評判です。後見人であるリカルド卿も、いつも誇らしげにおっしゃっております」
「リカルド……卿?」
どうやら、この屋敷の主人が俺の後見人らしい。後見人がいるということは、セリアという人物には親がいないのかもしれない。
「えっと、その……実は最近、いろいろと記憶が曖昧で」
俺は適当にごまかすしかなかった。事実を話したところで、信じてもらえるわけがない。
メイドは驚いた顔をしたが、すぐにしんみりとした表情になった。
「それはお気の毒に……大変なことがあったのですね」
「まあ、そんな感じで……」
申し訳ない気持ちを抱きつつも、彼女が信じてくれたことにほっとした。
しかし、こうして状況を説明されるにつれ、俺が「セリア」という名前で知られていること、そしてこの立場から逃げられないことが嫌でも分かってきた。
「俺は……セリアとして生きるしかないのか」
心の中でそう呟き、覚悟を決めるしかない自分に、どうしようもなくやるせない気持ちを感じた。
***
広場の美しさに感嘆していたのも束の間、不穏な音が耳に届いた。
「ギャオオオォォン!」
鋭い咆哮が広場に響き渡り、周囲の喧騒が一気に静寂へと変わる。次の瞬間、悲鳴とともに人々が蜘蛛の子を散らすように逃げ始めた。
「な、なんだ!?」
振り返ると、広場の中央に巨大な魔物が現れていた。鋭い爪と牙を持つ黒い獣――まるで悪夢から抜け出したような存在だ。
「嘘だろ……」
足がすくんで動けない。目の前の異常な光景に、恐怖が全身を支配する。
「早く逃げて!」
誰かが叫ぶ声が聞こえるが、まるで体が石になったかのように反応できなかった。魔物がこちらを睨むように視線を向け、鋭い爪を振りかざす。
「……これ、終わったかも」
そう思ったその瞬間――
「おらああああっ!」
怒号とともに、一人の男が魔物に突撃していった。
金髪を無造作に流した逞しい青年だ。軽装の鎧を纏い、大きな剣を軽々と振り回している。その勢いに魔物がたじろぎ、反撃の隙を与えない。
「あいつ、すげえ……」
見とれる間もなく、青年は猛スピードで魔物に肉薄し、剣を振り下ろした。鋭い刃が魔物の胴を裂き、その巨体が地面に崩れ落ちる。周囲が歓声に包まれる中、彼は満足げに剣を肩に担いでこちらを振り返った。
「あんた、大丈夫か?」
そう言いながら近づいてきた彼――アレンは、俺をじっと見下ろした。
「え? あ、ああ……」
混乱して返事が遅れると、彼はニヤリと笑った。
「お前、随分と綺麗な顔してるな」
その一言に、背筋が凍るような気持ちになる。
「や、やめろ、そんな目で見るな……!」
心の中で叫ぶが、当然のように彼には届かない。むしろ、彼の視線は俺の顔から一切離れない。
「立てるか? 手貸してやるよ」
そう言って、アレンは強引に手を差し出してきた。
「ちょっ、別に――」
抵抗する間もなく、その手をしっかりと握られ、引っ張り上げられる。力強い彼の手に、なぜか少し安心してしまう自分がいて腹立たしい。
「ほら、無事ならそれでいい」
アレンは爽やかな笑顔を見せると、あっけらかんとした態度で周囲に視線を向けた。
「ったく、こんな魔物、久しぶりだな。おい、誰か怪我人はいないか?」
その背中を見つめながら、俺は胸の中で複雑な感情を抱えていた。
魔物の巨体が地面に沈み、人々の歓声が広場に響き渡る。俺は呆然と立ち尽くしながら、ようやく自分が無事であることを実感した。
「……終わったのか?」
ほっと息を吐き、硬直していた体が少しずつほぐれていくのを感じる。けれど、そんな安堵も長くは続かなかった。
「お怪我はありませんか?」
穏やかな声が背後から聞こえ、振り返ると、一人の男性がこちらに近づいてきた。
黒髪をきちんと整えた落ち着いた雰囲気の青年で、長いローブに身を包み、知的な眼差しを向けている。どこか余裕を感じさせるその立ち振る舞いに、アレンとはまるで正反対の印象を受けた。
「大丈夫でしたか?」
彼がもう一度優しく問いかけてくる。
「まあ、なんとか……」
動揺を隠しながら答えると、彼はほっとした表情を見せた。
「良かった。私の名前はエリオット。この街で魔術師をしています。先ほどの騒動を聞きつけて駆けつけたのですが、もう終わっていたようですね」
そう言いながら、彼は視線をアレンに向けた。
「お前が倒したのか?」
「ああ、そうだぜ。派手にやらせてもらったよ」
アレンは誇らしげに剣を担ぎながら答える。その自信満々な態度に、エリオットは微かに眉をひそめた。
「しかし、街中であのような戦い方をするのは少々危険では?」
「は? お前、文句でもあんのか?」
火花を散らし始めた二人を見ながら、俺は思わず額を押さえた。
「……この二人、なんか面倒なタイプだな」
アレンの強引さも、エリオットの冷静さも、どちらもそれぞれ違う意味で扱いにくそうだ。
そんな俺の心の声をよそに、二人はそれぞれ俺に興味を示し始めた。
「お前、名前はなんて言うんだ?」
アレンがぐいっと顔を近づけて尋ねてくる。
「セリア様ですよね?」
エリオットは少し距離を置きながら丁寧に名前を確認する。
その瞬間、俺の胸に嫌な予感が走った。
(いやいや、俺は男だったんだからな!お前ら色目を使うな!)
心の中で必死に否定しながらも、この身体では何を言っても信じてもらえないだろう。
「俺たちが君を守るから、安心しろ」
「君に何かあったら、私たちが責任を取ります」
アレンとエリオットがそれぞれ真剣な表情で宣言する。
「いや、そんな展開いらねえ!」
内心で叫びながらも、この状況にどう抗えばいいのか分からないまま、俺はただ立ち尽くしていた――。
こうして、俺の異世界生活は波乱の幕開けを迎えたのだった。
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