一月七日

 この日の日記には近ごろの東京の銭湯事情が、実際に誠也が見聞きした様子に客観的な情報を交えながら書いています。講談社文庫で7ページにわたり、ひとつのエッセイとしても面白い記事です。


 本人曰く「昭和二十年新春の浮世風呂。──」(23頁)。


 誠也がまだ九、十歳の子供のころ、田舎で母や妹のみやげ話に聞いた東京のお風呂屋は「壁や床もタイル貼りでかがやくよう」(19頁)な、きれいで美しい場所でした。


 ところが今(1945年)の東京の銭湯は思い出の中の美しい光景とはあまりにかけ離れた、猥雑で不潔な空間になっています。


 その原因は銭湯に入る人の数が増え、風呂に来る人々自体が不潔な暮らしを強いられているからです。工場での勤労動員や防空壕掘り、連日の空襲で泥にまみれて風呂に入る人が増えました。燃料と人手不足で銭湯の戸数が減り、石鹸もタオルも不足しています。


「夜工場から帰っても、何一つ娯楽はなし、火鉢一つ抱けない時勢なので、せめて一つの娯楽、暖房として銭湯にでも入るよりほかはないのであろう。自分のごときも、この暖をとる、ただ一つの目的のためにこの汚ない風呂に入るのである」(22頁)


 風呂に入るしか娯楽がないという、「花束みたいな恋をした」で追い詰められた麦くんのような生活を誰もが強いられていた時代!(ちなみに私は「風呂に入って寝るだけ」というとユニコーンの曲が浮かぶ)。


 誠也は不潔さの証拠として「去年大阪帝大医学部で検査してみた」(20頁)結果を引いています。それによると、夜七時以後の銭湯の細菌数、不純物は、道頓堀のどぶに匹敵したそうです。


 大混雑の脱衣場では盗難も絶えず、浴場の汚さは目を覆うばかり。そんな状況が日記の中に克明に記録されています。


「まず下駄箱というものがぶきみになった。とにかくふつうの履物をはいてゆけば、絶対に盗まれるのである。」(20頁)


「この籠は恐るべきものである。去年の夏全都に猖獗しょうけつをきわめた発疹チフスはこの銭湯の籠が媒介するしらみであったといわれる。」(21頁)


「灰桃色の臭い蒸気の中にみちみちてうごめく灰桃色の臭い肉体! 湯槽は乳色にとろんとして、さし入れた足は水面を越えるともう見えない。」(21頁)


 誠也青年の眼がとらえていたのは不潔に変貌した風呂場の環境だけではありません。湯船に浸かる人々の“顔”と“声”の変化も描かれています。「浮世風呂」で交わされる話題は戦局が進むにつれて、戦争の話から工場と食べ物の話、闇市と空襲の話に変わり、今ではそれすらなく、みな黙りがちになりました。


「黙って、ぐったりとみな天井を見ている。疲れ切った顔である。それで、べつに恐怖とか厭戦とかの表情でもない。戦う、戦う、戦いぬくということは、この国に生まれた人間の宿命のごとくである。前には一人くらい、きっとお尻に竜など彫った中年のおやじさんがいて、いい気持そうに虎造崩しなどをうなったものであるが、今はどこにもそんな声は聞えない。壁の向うの女湯では、前にはべちゃくちゃと笑う声、叫ぶ声、子供の泣く声など、その騒々しいこと六月の田園の夜の蛙のごとくであったものだが、今はひっそりと死のごとくである。女たちも疲れているのである。いや女こそ、最も疲労困憊し切っているのである。」(23〜24頁)


 長く続いてきた銭湯ばなしは、この暗い闇の底のような風呂場で起こった、小さな事件の記述で締められます。


 昨晩のこと、湯にあてられたのか気を失って、ぼろきれみたいに動かなくなった老人が風呂場にいました。誠也はその老人の頭に冷水をぶっかけて目を覚まさせようとします。「おっ冷てえ……」とかすかにうめいた老人に、なお冷水を浴びせようとすると、老人が水ぶるいして抵抗の気配を見せながらつぶやきました。


「「おお冷てえ、冷てえよう。……おお冷てえ」


「冷てえもへちまもあるもんか。しっかりしなよ、爺さん、おいっ、死んじまうぜ、そらっ、もう一杯!」


 氷のようにしぶく水たまりの中で、爺さんは顔をしかめ、あの世の人間のような声でぼんやりとうめいた。


「……ごじょうだんでしょう……」


 みな、どっと笑い出した。爺さんの言葉が、変に可笑しかった。みな、眼をひそめたまま、人のよさそうな声で、げらげら笑いつづけていた。」(25〜26頁)


 どうですか? エッセイ、いや短編小説として切れ味十分の不気味なオチでしょう。


 一月三日の項で言及していた「芥川の皮肉」「寛の皮肉」にも負けてない! と風太郎ファンとしては言いたくなります。私はこの誠也による「昭和二十年新春の浮世風呂」の記録を読むたびに、芥川の短編『戯作三昧』を思い出します。日記と創作の違いはありますが、どちらも鮮やかな「銭湯文学」です。

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