一月三日
「 大みそかの空爆にて、三百軒ばかり焼けたる跡を見る。」(12頁)
この日、誠也は高須さんとともに上野の御徒町まで行き、空爆で焼けた街を見物しています。そこで「トタン板、焼け石、焼け残りの柱、道具。ところどころにむしろ敷きて、被災者のむれ、整理に働く」(12頁)と、焼け残った家財道具や被災者の姿を目にしました。逃げようとした人々が家から持ち出し、そのままになっているたたみや家具を前に「燃えて無き焼跡よりもむしろこの方が当夜の人々の混乱を想像せしむ」(12頁)とも記しています。
今だったら地震や洪水の被害があった後にこんな風にしてボランティアでもない見物人が集まってきたら、たちまち非難を浴びそうですが、当時はこの感覚が普通だったのかな。いずれにせよ「惨憺の景」(12頁)を前にして、明日はわが身という思いを強くしそうです。
「 ○菊池寛の短編集を読む。彼の小説はまるまっちくふとれる職人の手より作り出される美しき菓子のごとし。ただし一般にいわれるほど価値なき作家にあらず。むしろ、芥川の小説よりも妖気あり。芥川の皮肉には涙あり、寛の皮肉には滑稽あり、妖気はここより発す。これ彼の人柄より出ずるものならん。」(13頁)
正月三日から菊池寛の短編集を読み、芥川よりも菊池のほうが「妖気あり」とは! この一節だけからでも、山田誠也の「ただ者じゃなさ」が伝わってきませんか。
日記の冒頭に突如現れるこの見事な菊池寛論について、山田風太郎ファンでもある小説家の月村了衛氏は自身のブログで
「いきなり恐るべき慧眼に接して風太郎の凄みに改めて畏怖を覚える」(https://ryoue.hatenablog.com/entry/2020/09/09/162454)
と書いていますが、まったく同感です。
「まるまっちくふとれる職人の手より作り出される美しき菓子」という比喩にも惚れ惚れします。すぐ後に「ただし」と逆説でつながれているので、これは好評の言葉ではないんですよね。でも、毒にも薬にもならない、とか、よくできてるけどおもしろみがない、とか評するよりもよっぽど皮肉がきいています。
このセリフは贅沢で気品あるイメージが感じられるので、お嬢様キャラクターに使ってほしいですね。中身のない話を聞かされたときに「貴方の話はまるでまるまるふとった職人の手から作られる美しい菓子のようですわね」と言ってほしい。
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