3. 二つの出会いの日(1)

 ――この週末は、雨の見通しです。寒気の影響で気温も下がりますので、体調管理には気をつけてお過ごし下さい。


 無情にも的中した天気予報を少しだけ恨みに思いつつ、レインコートを着込んだ明日菜は折りたたみ傘を手に家を出た。

 霧のように細かく降り注ぐ雨粒が、コートを回り込んで肌にまとわりつく。この降り方では、傘は役に立たないだろう。

 早春の空気は肌寒く、吐く息は白い。低く垂れ込めた雲は空と海との境界を曖昧にし、まるで島全体がもやに包まれている様だ。


 明日菜はひとり、港への道を急ぐ。気がせいて、今日は朝からいても立ってもいられなかった。

 前髪にたまった露が、鼻先をくすぐる。つづら折りの坂道を下りきった先、平日も週末も、船の出入りの時間以外は静かな港が、今日はいつもと違った喧噪に包まれている。

 霧の向こう側から、たくさんの人が忙しく動き回っている空気が伝わってきた。


「着くぞー、準備してー」「ロープ回して下さーい」「車、もうちょっと下がってー」


 海に接し、潮騒の中で働く人たちの声には、独特の伸びと抑揚がある。目の前で呼び交わされる声は、どこか海鳥の鳴き声に似ていると明日菜は思った。

 小さな港の一画に紛れ込んだ明日菜をちらりと見て、赤色の誘導灯を持った女の人が小走りに駆けていく。

 あまり効かない視界の向こう、沖合の方から波をかき分ける音が聞こえてきた。

 それに重なる、ぼーっ、ぼーっという、くぐもった響き。霧笛だ。

 もやを透かすようにして、赤色の照明が点滅している。学校の屋上から見た時よりも、ずっと高く大きい。


 クレーン船が少しずつ、明日菜の前に姿を見せ始めた。


 巨大なクレーンの向こう側に見える、あれは……。平べったい檻の中に固定され、少し傾いた端からざぶざぶと水をしたたらせている。

 700年以上もの間、この島の沖で泥に埋もれて眠っていた木造船。帆柱はなくなっていたが、全体の形はそれが船だとはっきり分かるくらい、保たれていた。


 ――君は、いつか目覚める。今は僕たちの知らない場所、深い泥の底で眠っていたとしても


 不意に浮かんだフレーズ。

 それは12年前のあの日、引き上げられた碇を見た興奮の中で、熱に浮かされるように二人で作った詩の一節だった。

 船だよ。本当に、本当に船が上がったんだ。萌絵もえ……。


 小さな高校の、歴史研究部なんていう小さな部活の、小さな部室で、夢中になって難しい発掘調査報告書を読んで盛り上がった日々。萌絵――同級生の島岡しまおか萌絵と二人で、周りからは変わり者扱いされながら胸を熱くしたあの時間。

 進路が変わっても、就職するまで少し回り道をしても、苦労ばかりの職場でくたびれても、心の中で消えずに残っていたあの日の言葉。約束と呼ぶには細く、決意と呼ぶには遠い、でも確かな思い。


 そうだ、私、萌絵と――


「――抜け駆けだぞ、鷹野。まあ、あたしも黙ってココに来たからおあいこか」


 ぽん、と肩に手を置かれて、明日菜はびっくりしてふり返った。

 背が高く、モデルのように手足が長くてエキゾチックな顔立ち。くせっ毛を無造作にまとめたポニーテールは、高校の頃よりは落ち着いた色合いにまとめられていた。

 昔から大人びた雰囲気だったから、あの頃のイメージとほとんど変わっていない。明日菜は驚きながら、表情が緩んでいくのを抑えられなかった。


「萌絵……!」


 明日菜の次の言葉は、滝のような水音に遮られた。萌絵の手を肩に載せたまま、クレーン船の方に視線を戻す。

 船底にたまった水を吐き出したのだろう。クレーンに釣られた檻が少し傾いて、船のへりから濁った水がざぶざぶと流れ出していた。


「すごいね、ホントにこんな日が来るなんて」


 明日菜の耳をくすぐる、萌絵の落ち着いた声音。明日菜は言葉もなく頷いた。



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