2. 出会いを待つ日々(2)



 島に一つしかない小さな中学校が、明日菜の今の職場だ。

 この島に生まれ育ち、島の外にある高校に通った。地元の大学――とはいってもキャンパスがあるのは他県に行くよりも遠い場所だったけれど――の教育学部に入ることも、受験の時に社会科から国語科に進路を微妙に変えたことも、教員になることも、幾つかの中学校で実際に教えることも、簡単な道のりではなかったけれど、何とかめげずにここまで来ている。


 午前中の授業を終え、教室から職員室までの途中で明日菜は少しだけ寄り道をする。学校内で「寄り道」は大げさかも知れないが、ひとりになれる場所で一息つく時間は貴重だ。

 自販機の缶コーヒー1本分。場所はその都度変わるものの、図書館の扉の前に何故かある張り出し窓や屋上に続く階段の踊り場、校舎と体育館を結ぶ渡り廊下の端あたりが明日菜のお気に入りだった。今日は思い切って屋上に出てみた。


 過疎化が進む地方の学校の例にもれず空き教室が多い校舎だけれど、人手不足から来る同僚との近すぎる距離感の中で生きていくのには息抜きを必要とする。あまり社交的ではない明日菜の性格を同僚たちも理解はしてくれていて、時々そっとひとりになるのを黙ってスルーしてくれるのはありがたい。


 春の陽差しは優しく、風も心地良い。春霞は淡く空にかかり、常緑樹の緑と、その向こう側に広がる海の青がコントラストを描いている。島々の緑と、海の青。幼い頃から慣れ親しんだ光景は、びっくりするくらいに何も変わっていない。

 波のおだやかな内湾には、養殖用のいかだがところ狭しと並んでいる。港の辺りには、漁のおこぼれを当てにしているとびからすがわぁわぁ鳴きながら飛び交っている。

 いつも通りの風景に、一つだけある異物。高台にあるこの中学校からでも、その姿ははっきりと分かった。


 あれが、クレーン船だ。この島の沖に沈んだ、大昔の船を引き上げるための。


 赤と白におめでたく塗られたクレーンの本体は、平たい船の上で存在感を主張している。近くに並んでいる漁船と比べて、とても大きく、ずんぐりむっくりした印象だ。

 12年前にも、これに似た船がここには来ていたはず。けれど不思議なことに、明日菜の記憶の中にその姿は残っていない。船が港についてから後の出来事は細かいところまで覚えているのに、誰がどんな道具でそれを引き上げたのか、には興味が向いていなかったのだろう。


「ああ、いたいた。やっぱりここでしたか」


 コーヒー缶を片手に、気を抜いてつらつらと思い出にひたっていた明日菜は、不意にかけられたその声に驚いて振り向いた。


「わっ、びっくり…… しました。白井しらい先生でしたか」

「驚かせてしまいましたね、すみません。鷹野先生がここに来てるかな…… と思ったら本当にいらっしゃったので」

「こちらこそ、大きな声を出してしまって…… 失礼しました」


軽く会釈をしながら、明日菜は声をかけてきたのが白井――社会科を担当している、定年まであと数年のベテラン教師――であったことに安堵していた。

おだやかな性格で、人との距離の取り方も上手く、生徒からも保護者たちからもほどよく信頼されている。この島で生まれたと聞いているから、たぶん明日菜の大先輩だ。


「いえね、今朝の新聞で引き上げの記事を読みまして。週末から、いよいよ始まると言うじゃないですか。それで何か来てないかなと思いましてね」

「白井先生……。私もです。ほら、あれ」

「おお、クレーン船ですね。大きいなあ」


 いつもは落ち着いている白井が少年の様な声を出すのを、明日菜は心地良く聞いた。好きなものへの興味を共有できるなら、人と一緒の息抜きも悪くない。


「来週か再来週、どこかのタイミングで、地歴研の生徒たちを連れて行ってみようかと思ってるんです」

「いいですね。こんなチャンス、滅多にないですからね。博物館の…… 何て言うんでしたっけ? 普段は客が入らないところ」

「バックヤード、ですか?」

「そうそう、バックヤードだ。敷地に大きなプレハブを建てて、しばらくはそこで保管するらしいですから、館長さんにも声をかけておきましょうか」

「そうしてもらえると、助かります。引率計画は私の方で立てておきますので」


 地理・歴史研究部、通称は地歴研。明日菜が顧問をしている総勢7名の小さな部活動だ。

 地元の地理や歴史に関する内容ならテーマは自由、というゆるい部活動だが、「元寇」はこの島が経験した歴史上の一大イベントでもあり、自然と代々続くテーマになっている。


 ――あの子たち、喜ぶだろうな。


 部長の星鹿ほしかこずえはフィールドワークが大好き、副部長の梶谷かじたに悠斗ゆうとは文献を調べたりするのが趣味と、今年の地歴研はバランスもいい。引き上げられた船をスケッチしたり、その船がどんな船だったのかを調べたりする部員たちの姿を想像して、明日菜は今から嬉しくなった。


「鷹野先生も、何だか嬉しそうだ」


 不意に声をかけられて、明日菜の意識が空想の世界から一気に引き戻された。白井の温かい視線に気恥ずかしさを感じて、言い訳が口をつく。


「す、すみません。これから地歴研の子たちと何をしようか考え始めたら、止まらなくなってしまって……」

「いいじゃないですか。700年以上も前に沈んだ船を、現実に見られるんです。こんな機会、二度とは来ないかも知れない。他の人たちには伝わりづらいでしょうが、私たちなりに、思いっきり楽しみましょうよ」


 “他の人たちには伝わりづらい” に実感がこもっていて、明日菜も思わず笑ってしまった。

 海外の考古学ドキュメンタリーを食い入るように見ている時の、母の表情。あれを思い出しながら、確かに伝わりづらいよねえと心の中でつぶやく。


「私…… 高校生だったんですけど、いかりを引き上げた時にも見に行ってるんです。だから、余計に楽しみで」


 新聞にも載っていた、12年前の記録と記憶。

 母が婦人会の人たちと見た博物館の展示品。

 海の底から引き上げられた、大きな木製の碇。そして――。


「確か12年前、でしたね。私は別の中学にいましたが、ニュースで流れたのは覚えてますよ。――そうでしたか、碇の時にも見てらっしゃいましたか」


 白井が記憶をたどるように、目を細める。柔らかい笑みを明日菜に向けて、嬉しそうに白井は続けた。


「それならきっと、私なんかよりよっぽど週末が待ち遠しいですね。……さて、そろそろ戻ります。鷹野先生はごゆっくり」


 そう言って、白井は明日菜に背を向ける。振り向かないのは分かっていたけれど、明日菜は思わず頭を下げていた。


 ――ありがとうございます。あの時間の記憶を共有できる人がいて本当に良かった。


 残された明日菜の髪を、屋上を吹き渡る春の風が優しく捲き上げる。



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