熟れた童心

平井良次郎

熟れた童心

 娘が読みたいと言うので、私は児童向け探偵小説を買い与えたのだが、その喜ぶ姿があんまり可愛いので、ついつい他にも余計なものを買い与えてしまった。息子にもと思ったが、彼の興味は本なぞよりも甘味に傾倒しているらしかったので、坊やにはドーナツを買い与え、小さい口で懸命に頬張るのを眺めていた。帰ったら妻に怒られるだろうな、と思いながら……。

 娘が帰ってからもずっと本を読んでいるので私も何かを読みたくなり、本棚の前で彷徨いていたとき、ふとあの奇妙な話を思い出さずにはいられなかった。


 私は地方の公立中学で国語を教えているのだが、夏休みになると赤点補修やら何やらで、結局七月末ほどまでは学校に行かねばならないのである。その日も亡霊のような顔をした赤点の烙印を捺された生徒たちをうちへ帰し、彼らのほとんど真白な漢字テストを採点していた。隣の菊野君も国語教師で、彼もまた亡霊のような顔をして採点業務に従事しているのだった。

 午後五時頃をまわった頃であろうか、両者とも仕事に一区切りがついて、陽の傾く薄暗い職員室で他愛もない話を交わし合っていた。最近読んだ本の感想、娘が私の肥った腹を面白がって遊んでいる話、菊野君は六月に二十六歳になったばかりだと言う話、児童たちの奇行、授業中の珍解答……。まだ空調なぞない時代であったので、頭の後ろで扇風機のキュルキュル言う音を聞きながら、流れる汗を拭きつつボンヤリ話しているのだった。やがて暑さに耐えかねた私たちは、怖い話をして涼もうという何とも典型的な流れに落ち着いた。菊野君は黒縁の眼鏡の奥で子供のように目をきらきらさせて、

「僕ひとつ、とても怖い話があるのです……聞いてくださいますか。」

と言うのだった。それを聞いて私も子供のような好奇心を起こさずにはいられなかった。いつしか職員室には、菊野君と私の二人だけになってしまっていた。切れかかった蛍光灯がチカチカと断末魔の叫びをあげている……。


 僕がまだ大学生の頃の話ですけれど、当時の僕には人生初の彼女と言う大事件が起こり、それは楽しい毎日を過ごしていたものでした。彼女は少々変わったところのある人だけれど、小説の趣味が合い、学校が終われば二人で古本屋に行ったり、画集を買ってはしゃいでみたり、お互い地方の出で一人暮らしでしたから、寝泊りし合ったりしていたのです。

 彼女の家に泊る日は決まって、僕に彼女はクローゼットを絶対に開けてはいけないと念を押すのでした。僕はつるのおんがえしの例の男のような気持ちでその忠告を聞いておりました。

 ある冬の日、僕らは彼女の部屋でおやすみを言い合って仲良く布団を並べておりました。僕はその日あまり寝つかれず、彼女の横でぱっちり目を開けて、凍てつくような月明かりを見つめるともなく見ていました。何時であったかはわかりませんけれど、突然彼女は目を覚まし、起きあがって部屋を出て行ってしまいました。もしかしたら彼女はずっと起きていたのかもしれません。と言うのも、何だか僕の寝静まるのを待っていたような感じがするのです……。

 足音はどうやら浴室へ向かったようです。はて、こんな夜更けにお風呂場で何を?それも、僕の寝静まるのを待ってから?好奇心に駆られて僕は部屋を抜け出し風呂場へ向かおうとした……。けれど、何かのはずみでうっかりドアをバタンと閉めてしまった。その音に浴室の彼女は異様な驚きの悲鳴を短くあげ、僕は慌てて、何を思ったか、部屋へ引き返して布団にくるまってしまいました。何だか悪いことをしてしまったような後ろめたさがあったのです……。

 翌朝、よっぽど僕は前の晩のことを聞こうかと思いましたけれど、どうしても怖くて聞けませなんだ。彼女はもしや夢遊病者で、突然人格が豹変し、真夜中にこっそりと大犯罪を企てているのかしら、それとも彼女には霊感があって、夜な夜な鏡の前で恐ろしい呪文を唱えて、この世のものならざる何かと通じ合っているのではないかしら……。愚かしいけれど、僕は本気でそんなことを考えてしまって、あんまり恐ろしかったのです。しかし当の彼女はけろりとしていて、いつも通り桃色の唇に微笑を浮かべて僕を見ているので、僕の杞憂も馬鹿馬鹿しく思われてくると、一週間と経たずにそんなことは忘れてしまいました。

 それから半年くらい経って、夏の終わり頃でしょうか、僕らは彼女の部屋で文学論からラーメンの話まで、楽しく話し合っていたのでした。彼女は決まって僕に先にお風呂に入らせてくれて、必ずそのすぐ後に彼女がお風呂の番でした。彼女に貸してもらった文庫本を読みながら、僕はふと例のクローゼットが気になって仕方なくなっていました。開けるなと言われると、どうして人間は開けたくなるのでしょうね。パンドラも、つるのおんがえしの例の男も、みんなこの『わな』にかかったのでしょう。人間は無様な進化を遂げたものだとつくづく感じますよ……。僕もまた、パンドラ君やつるのおんがえしの哀れな男と同様に、この『禁止のわな』に愚かしくもかかってしまったのでした。

 しかし、羽を抜く機織り機の前の鶴でも、羽蟻の如く飛び出す怨恨や憎悪や怒りでもなく、僕は意外なものを目にしました。パステルカラーのワンピース、大きなリボンの結われたカチューシャ、エナメルの輝くパンプス……彼女が着そうもない、少女趣味というのでしょうか、可憐な服や靴や小物がにぎやかに、しかし整然と並び、絵本の淡い色調の絵のような、ピンクやブルーやラベンダーやイエローや……その美しさに、僕は拍子抜けしたくらいでした。そうして、「なあんだ、少女趣味が僕にばれるのが恥ずかしかったんだ」と、より一層彼女が可愛く、愛しく、儚くさえ思われてくるのでした。

 しかしそれも束の間、僕はその絵本の世界の奥の奥に、奇妙なものを発見してしまったのです。あれを見たから僕は気が狂ったのかもしれない……。それは古風な、そして陰気な、黒々とした長持のようなものでした。しかしほこりをかぶっているわけでもなく、どうやら頻繁に開閉するようなのです。その長持の異様さ、場違いさ、アンバランスさ……僕は、しかし、それを開けないではいられない。浴室からは水音が響いてくる。きっとあと十五分、いや、二十分は出てこないはずだ……僕はまるでこれから犯行に及ぶようなびくついた心持ちで、そっとその長持を開いてしまいました。

 そこには白い布のようなものが詰められて、その上に、言葉も失われんばかりの異様なものが転がっていたのでした。人のかたちを模した小さなぬいぐるみが二人――二人と形容せずにはいられません――並んで横たわっているのです。一人はきっと女の子で、淡い黄色のワンピースの裾にフリルが縫われ、胸元に貝殻のように光るボタンがきちんと閉められています。もう一人は男の子で、サテンのブラウスにボウタイを締め、空色のズボンを履いている。しかし、それはどこもおかしくありません。二人とも目が黒いボタンで、口は黒い糸でしたが、お世辞にも上手とは言えないような縫われ方で、不気味な仕上がりでした。けれど、これもおかしいところは何もないのです。

 その二人の頭からまばらに、しかし決して少なくはない黒く艶のある糸みたいなものがぴょんぴょん飛び出ているのです。最初はその不気味な見た目にただ驚くばかりでしたが、しかしよく見れば……僕は気でも狂ったのかしら、しかしどう見てもそれは間違いなく人の髪の毛なのです。エナメルのお姫様の靴と、オドロオドロとした冷たい空気を放つ二人の小さな男女……僕はその長持の前でただ恐怖するばかりでした。浴室の水音、脈打つ心臓、我が息遣い……。彼女はどうしてこんなものを?次に浮かんでくる疑問、これは誰の髪……?そう思うや否や、僕はほとんど瞬間的に半年前の例の日を思い出していました。

 あの晩彼女は浴室で何をしていたのか。彼女は決まって僕を先にお風呂に入らせてくれた。恐ろしい考えが僕の脳を掠めてゆきました。彼女は僕が風呂から上がると、直ぐ浴室へは向かうけれど、なかなか直ぐには水音が聞こえてこないではなかったか……。今日だって、服を脱ぐにしては随分と長い時間が経っていたようではなかったか……。彼女はそのとき僕の髪を拾い集め、それをどこかへ隠し、何事もなかったかのように風呂を上がり、僕が寝静まったのを見計らって隠しておいた僕の抜け毛をどこか別の場所に保管する。僕をうちへ帰し、一人取り残された彼女は、この長持を開いて、この人形に僕の髪を植え付けているのではないかしら……。こんな気違めいた妄想が僕の頭の中を支配し尽くしてしまいました。ともすればこの女の子の髪は無論彼女の髪の毛で、おそらく彼女は僕ら二人を模してこのぬいぐるみを作り、立派な服を着せ、これを開けてはいけないクローゼットの奥の奥に隠していたのではあるまいか。彼女はこれで何をするのかしら……。不気味に真黒のボタンの目が光って、僕は首筋が粟立つほどの寒気を感じずにはいられませんでした。

 浴室のドアが開く音がして、はっと我に帰ったぼくは大急ぎで、しかし音を立てないように長持を元の通りにしてしまうと、しっかりとクローゼットの戸を閉め、平静を装おうと文庫本の文字列の上に目を走らせました。しかし何も頭に入ってくるはずもなく、ただひたすらに、この後僕はどう振る舞おうかしらと考えを巡らせているのでした。あの薄気味悪いボサボサ髪の人形たち、そして彼女の本当の姿に、すっかり怯え切って……。

 ほどなくして戻ってきた彼女は、レコードに針を落として続きを聴き始めました。その歌が終わりを迎える頃、晩夏の湿気った陰鬱な風がカーテンを揺らし、時計はカチコチと言いながら、たしか午前一時過ぎを指していたと思います。彼女は静かに、

「やっぱり、クローゼットを見たのね。」

と細い声で言うのでした。僕はドキリとした。だって、きっちりと戸を閉めたのに……。

「きっちりと戸を閉めたのに、と、そう思っているのでしょう。きっとあなたは、私がほんの少しだけ戸を開いておいたのに、気づかなかったでしょうから……。」

彼女はいたずらっぽく笑っていました。その顔を見ていると何だか変に安心して、さっきの長持なんか僕の幻覚だったのではなかろうかと思えてくるほどでした。

「君にもあんな少女趣味があったんだね。何も恥ずかしがらずに、堂々と着たらいいのに……。」

そう僕が笑うと、彼女はふふっと笑って首を振ると、

「あの箱も見たでしょう……いやってくらい目につくもの。」

と、桃色の唇の隙間からこんな言葉を発するのでした。そのとき僕はどんな顔をしていたかしら。隠し事が見つかって、母に意味ありげに名前を呼ばれた瞬間のような、まずいことが人に知られてしまった瞬間のような、急速に心がサーっと冷めていくあの心持ち……。しかし、青ざめる僕とまるで対照的に、彼女の顔は赤らんで、桃色の唇ははにかんだ微笑を浮かべているのです。子鹿のように潤んだ瞳が僕を見つめたかと思うと、彼女はその華奢な身体を僕の身体とぴったりとくっつけてしまいました。そうして徐々に、僕は彼女の本当の恐ろしさを理解し始めていました。

 彼女は敢えてクローゼットを開けるなと忠告したのだ。そして中には少女趣味の洋服を吊っておいて、可愛い物好きを恥ずかしがる女を装い、本当は例の長持に不気味な人形を隠す……その女を装ったのだ。彼女を異常たらしめるのはここだった。彼女の異常さ、それは、「恋人の抜け落ちた髪をぬいぐるみに植え付ける」と言う異常行為を、異常であるとわからなかったことだった……。禁止の誘惑にまんまと引っ掛けられた僕はどんなに滑稽だろうか。その僕への揺るぎない愛のしるしとして、僕を模した人形に僕の髪を植え付ける……。彼女が恥じらったその理由は、その愛を僕の前に曝け出してしまったからだったのです。

 僕は彼女の恐ろしさのあまり気が狂うかとも思われたほどでした。狂気の底なし沼にみるみる飲み込まれてゆくような気さえした。彼女の穏やかな息遣い、どんどん速くなる我が鼓動、僕の胸に耳をくっつけてそれを聞いている彼女……この気違めいた状況で僕の脳みそは沸騰しそうだった。しかしこんな僕を差し置いて、ぱっと顔をあげたかと思うや否や、彼女はその桃色の唇と僕の口をくっつけてしまった……。細い眉、子鹿の目、忘鼻、あからんだ頬、艶やかな唇……その夢のように美しい顔が月光に照らされ、薄暗い部屋で僕の顔を見ている。しかし依然として脳裏に焼きついた不気味な人形たち。僕は目眩がした……その後のことも断片的にしか覚えていません。白い身体が僕の上で……いや、もうよしましょう。アハ……この先をこの場所で話すのは僕の良心が許さない……。

 彼女が僕らを模した人形で何をするのかは分かりません。あの少女のような服を着て、薄暗い部屋で一人おままごとをするのでしょうか。僕なんかよりもずっと知的に見えた彼女は、僕さえもいなくなって一人きりになってしまうと、奥の奥に封じ込めた幼い少女の心を抑えきれなくなって、まばらに生えた人形たちの真黒の髪を撫で付けては遊んでいるのでしょうか……。そしてきっと僕も気違にちがいない、彼女への恐怖は、彼女と離れ難いと思うような哀しい執着心へと無様に成り果て、ただ僕は彼女の狂った愛の泥沼に身を投じて溺れていくばかりなのですから……。


 菊野君の目元にどす黒い影がかかって、私は流れる額の汗をハンカチで押さえつけながら、しかし背筋が凍るような恐怖にただ口も聞けなくなって目を見張っていた。陽はすっかり暮れ、夜の闇のなか蝉どもは耳を聾せんばかりの狂った叫び声を張り上げている。死人のように押し黙ってしまった彼は、私の方へ向いてにこりと笑い、白い蛍光灯の光が彼の唇から覗いた歯を光らせた。その微笑のおぞましさ……そして官能的な美しさ……。菊野教諭はその時分だけ、公立中学の国語の先生とはとても思えないほど不気味な、猟奇的とさえ形容せずにはおられぬ笑みを浮かべていた。黒縁眼鏡の奥に、真黒のボタンのような瞳を光らせながら……。

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