第4話

 暁音は目的地に着くと同時に、財布から取り出した紙幣を一枚置くと降車した。タクシー運転手はその後ろ姿を見つめ、一瞬訝しげな表情を浮かべた後、再び車を走らせていく。


 エンジン音が遠ざかっていき、完全に気配が消えたのを確認して暁音は視線を前方へと戻す。


「此処ね……」


 目の前にあったのはつい最近までは稼働していた廃工場。経済的打撃を受け、会社が倒産したことで工場も共倒れしてしまった。何処かで見たニュースを思い出しつつ、暁音は固く閉ざされた門扉を跳び越える。


 ゆうに3mの高さはあったが、彼女にとってはハードルを跳び越えるのと大差がない。膝も曲げず軽やかに着地すると、辺りの気配を窺う。不思議なことに人間どころか野良猫犬一匹の気配すら感じられない。


 工場の近辺がそうだったのかというと、そんなことはない。道路の端で無警戒に日向ぼっこをする野良猫もいれば、餌を求めて足元に纏わりつく野良犬の姿もあった。


 それが工場の敷地内ではぱったりと姿を消している。まるでこの工場の周囲に忌避剤が撒かれているかのようだ。


(妖気のせい? ……でも感じられる妖気の質は大したことなさそうね)


 妖魔出没の通報を受けた以上は、たとえ自身ではなくとも解決できる程度のものだとしてもやらなければならない。それが仕事であり、日銭を稼ぐということである。


 暁音もその常識に則り、妖気を感じる工場の奥へと足を進めていく。足の裏にこびりつき、歩くたびに納豆のように糸を引きそうな感覚に嫌悪感を覚えながらも歩みは止めない。


 足を動かす度に感じる足元の小足の位置を事細かに感じ、爪先で蹴ることを回避できる程に、妖魔との決戦に備えて暁音の集中力は増していく。


 建物の中は想像していたよりかは綺麗な状態を保っており、稼働していた当時の姿を残しているように感じた。閉鎖されてから月日がそう流れていないのが原因だろう。


 暁音は人が入れそうなサイズの機械やら足元や天井や壁を伝うパイプなどを一瞥しながら、真っ直ぐに気配の元へと体を向けている。


 しかし、建物の中央で足を止め、彼女は右手を握るような動きを見せた。その直後、焔が噴出し、顕現する。


 それは祓魔課のデスクに立てかけてあった刀だった。


 彼女の刀は普段から見える状態になっているわけではなく、あのオフィス以外の外界では可視化されない。祓魔課では得物を扱う者は強制的に得物を顕現される。


 反旗を翻した際、いついかなる時でもすぐに対処できるようにだ。祓魔課のオフィスの結界は外からの侵入を防ぐだけでなく、内からの反逆を防ぐ役割も同時に担っているのだ。


(来る……)


 刀の切先を地面へと向け、静かに佇む暁音。その心の持ちようは明鏡止水とも言うべきほどに平静であり、頭上に隕石が落ちてこようとも呼吸のリズムを一切変えず迎え討てるほどに落ち着ききっていた。


 次の瞬間、紅蓮が暁音の視界を染めた。それはドラゴンの吐く炎のような勢いで工場内の内装を溶かし崩す。その温度は溶鉱炉にも匹敵し、人間が生存できる環境では決してなかった。


 工場内の機械やパイプやらは液体のように溶け、熱せられたマグマのような色合いへと変化している。爆炎に接触したものでなくともそれほどの効果を齎すのだ。


 当然、爆炎そのものに触れたものなど容易く消し飛んでいてもおかしくはない。


「その程度?」


 だが、暁音は炎の中で静かに立っていた。彼女の周りはすでに炭化の状態へ至っているものもあったが、彼女本人は汗一つ掻いていない。


 それは暁音の周囲で飛び回る赤の光点のお陰だった。千は超えるそれらは火の精霊達。暁音の意思を通じ、彼女に霊的防護を施したのだ。


 結城暁音は火の精霊魔術師であり、現代でもその名は知れ渡っている。


 単純な理由だった。


 強いからだ。


「さっさと終わらせるわ」


 勝利宣言。それは絶対的勝者のみにしか許されていない。


 暁音にはその資格があった。


 右足を下げ、上体を前へと倒す。右手で持った劫火の刀を左腰にあて、右手で柄を握る。


 呼吸も忘れるほどに暁音は集中していくにつれ、世界から色が失われていく。


 そして、その姿は一瞬にして掻き消えた。


 残像すら残さず暁音の姿は十間の距離を移動し、その先の物陰に身を潜めていた蜘蛛を両断した。全身に血管のように張り巡らされている脈打つ赤い線とは別に暁音が放った一閃が亀裂を走らせる。


 彼女の背後にあった巨影は塵となって消えていく。


 刀を一振りし、嘆息を零す暁音。大して苦戦することもなく、いつも通りに遂行された妖魔の討滅。


(また同じ。本当に弱いわね)


 退屈だった。全身全霊の己の力をぶつけても勝てない相手が本当に存在するのか。


 そんな叶うべくもない期待と紙一重の諦観を抱えながら暁音が振り返ろうとしたその時。












「なんだよ、もう終わってんのか」


 一陣の風が吹いた。

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