第8話 啜り女

 おどろおどろしい目をしていた。

 向けられた白濁した瞳は全てを憎んでいるようにも見えて、私は許されていないのかもしれない。


「なんでなの、玲子……」

『──ミィィ、ア? アア、アアア!!』


 玲子が頭を抱えて激しく上半身を揺らす。

 もがき苦しむように、玲子が大きな声で私の名を叫んでいる。

 ああ、なんで玲子がこんな姿に。

 私が最後に見た時は、いつもの綺麗なあなただったのに。


「ねえ、もしかしてアイツに何かされたの? 教えてよ玲子……応えてよっっっ!!」


 一瞬、激しく暴れていた玲子の体が硬直した。

 突然訪れた静けさに、無明さんも撫子さんも警戒して動きが止まる。


 ──玲子が私を見た。


「ミあ」

「玲子、意識がもど──」


 そして、私に向かって走り出す。

 あっという間に陰陽師の二人を置き去りにして、彼女はもう目の前だ。

 牙を剥き出しにした鬼のような顔をして、すぐそこまで迫った玲子が私に向かって鋭い爪を伸ばした。


「おいおい、オレは無視か?」


 目の間に大きな背中が現れる──無明さんだ。

 ギンと甲高い音がしたと思ったら、暗い夜闇の中で無数の火花が散り始めた。


「へえ、剣術はそこそこできるのね?」

「……撫子、いつでも援護してくれていいのだぞ?」

「大丈夫、もうしてるわ──雪因幡!」


 白い兎が剣戟の隙間を縫うように、玲子にぴょんと飛び掛かった。

 まるで爆弾が爆発するように、ボンっと兎が彼女の前で弾ける。


「うお!?」


 慌てて無明さんが飛び退くと、玲子が氷漬けになっていた。


「アアアアアアアッッッ」

 

 厚い氷が玲子をはりつけにしている。

 微動だにできない様子で、その場で唸っているだけだった。


「おい、撫子。危うくオレまで氷漬けになるところだったではないか?」

「別にあれくらい大丈夫でしょ。ていうか、あなたねえ………」 


 玲子の心配する私をよそに、小言をつぶやいた無明さんと撫子んさんが何やら険悪な空気になる。


「さっさと術の一つも使いなさいよ! なんで陰陽師のくせに刀だけで戦ってるのよ!? まさか術が使えないの!?」

「いや、霊力がもったいなくて……」

「もったいないって何よ! あの妖怪は鬼にも匹敵する妖力なのが見てわかるでしょ!? 出し惜しみしてる場合なの!?」

「ど、どうどう」


 まるで母親に叱られる子供のように無明さんは気まずそうにしている。


「で、どうするつもり? 私の雪因幡は簡単に破れないけど、いつまでもこのままという訳にもねえ」

「……あっ」

「え?」


 氷に埋もれた玲子から黒紫色こくしいろのモヤが立ち昇る。


『アアアアアアアア……ッ』


 ピキピキと、分厚い氷に音を立てて亀裂が入った。


「おいおい、簡単に破られてるではないか」

「うっさいわね!? じゃああなたが──」


『アアアアアアアッッッッッッッッッ!!』


 言い争う二人に、氷を砕いた玲子が迫る。

 無明さんが咄嗟に刀に手を伸ばす──僅かに玲子の方が早い。


『アアアア!』


 耳まで裂けるように、玲子の口が大きく開いた。

 その口の中に、無明さんからうっすらと出ていくナニカが吸い込まれていく。


「ぐっ!?」


 呻き声を上げた彼を見ると、防ぐように上げた片手がしわくちゃに萎んでいた。


「まさか強制的に生気を奪うとは……っ!?」

『アアアアアアア!!』

 

 片手を押さえた無明さんを、玲子が大きく殴り飛ばした。


「ちょ、な──きゃあああ!?」


 吹き飛ぶ無明さんの体に撫子さんも舞い込まれた。

 無明さんを受けときれなかった彼女と一緒に、二人が田んぼの暗闇に転がり消えていった。


「むみょー」

「って、ハルちゃんだめっ!」


 殴り飛ばされた無明さんを見て、ハルが駆けだした。


『アアアアアアアアアアア!』


 ハルに反応した玲子が、矛先を彼女に向けた。

 ──まずい、と私が焦った瞬間、ハルの背中から白い影が飛び出す。


「ったくしょうがねえな! やるってんなら相手になるぜ!」


 小狐のすねがハルの前に出て玲子と向かい合う。

 器用に二足で立ち上がり尻尾を逆立たせると、パリッと電気を纏い始めた。


雷神今来らいしんこんらい──」


 ゴロゴロと、上空で雲が鳴り始めた。

 見上げると、先ほどまで輝いていた星々を覆い隠すように、暗い雲が覆っている。


「嘘!? 天気が……」


 天気を操って雷雲を発生させるなんてまるで神様のようだ。

 遠くの空は晴れているのに、私たちの上空には雷雲が渦巻いていた。


「落ちろ、雷狐らいこ!」


 すねの叫びと共に空が明るく輝いたと思ったら、ピシャっという弾けた甲高い音と共に、太鼓をドカドカと鳴らしたような轟音が響いた。


「ひっ!?」


 ドンと、鈍い音と共に何かの衝撃が私の体を通り抜ける。


「へへん、どんなもんだい!」


 軽い衝撃と共に雷が落ちる……立ち尽くした玲子から煙が上がっていた。


 ──あの雷が玲子に落ちたんだ。


「れ、玲子……?」


 恐る恐る、煙を上げながら立ち尽くす玲子に声をかける。

 いくら変わってしまっていても、雷なんて人間が耐えられる訳が無い。

 もしこれで玲子が……と想像すると。


「だ、大丈夫だよね……返事してよ玲子っ!」


 泣きそうになりながら叫ぶと、


「逃げろすね!」

「え?」


 無明さんの声が暗闇から聞こえたと同時に、白い塊が宙舞ってっていた。


「ぐぇっ!」


 ──すねだった。

 地面に落下したすねは、ぐったりとしたまま動かない。


「そ、そんな──すねちゃん……っ!?」


 すねのいなくなったその先にはハルがいる。

 ──玲子はもう、ハルの前に迫っていた。

 無明さんの刀と打ち合った爪で貫けば、子供の命なんて簡単に奪えてしまいそうだ。


「玲子、だっ──」

「とう」


 叫びかけた私の前で、ハルが軽やかに飛んだ。

 この状況では違和感を覚えるほどに平坦な声で、ハルが地面に倒れるように玲子の一撃を躱した。


 ──でも。


「あう……いたい」


 頬から血が滲んでいる。どうやら倒れた拍子に擦りむいたらしい。

 うつ伏せで倒れたまま、痛みを訴えて動かないハルに玲子が今度は両手を振り上げた。


『アアアアアッ!』

「ひ──っ!」


 私の喉から出たのは、言葉にならない悲鳴のような音だけだった。

 ああ、間に合わない! ハルが──。


「……え?」


 目の錯覚かと思って、瞬きをするけどやっぱり違う。

 ──玲子が足をバタバタとさせ宙に浮かんでいた。

 その首元に白い霧のようなものが纏わりついている。


「何、あれ……」


 暗い場所では黒く見えるハルの紫紺の着物が、夜闇に映えるほど紅く変色していた。

 玲子を抑えているのは、紅くなったハルの着物から立ち昇る白い霧だった。


「に、人間……?」


 よくよく見ると玲子の首に纏わりつく白い霧は手の形をしていた。

 ハルの全身から溢れる白い霧が、徐々に人の形を成していく。

 霧は男の人のようだった。

 玲子を片手で持ち上げ、顔らしき部分をうつ伏せのハルに向ける。

 ──心配、しているのだろうか。


『ガァァアアッ!』 


 獣のような雄叫びをあげ、風を鳴らす勢いで玲子が両手を振るうと、簡単に白い霧の男は切り裂かれた。そしてすぐ、また人の形に戻っていく。

 元は霧だからだろうけど……でも玲子の首を掴む手は緩まない。

 男の空いた片手に新しい霧が収束していく──あれは、剣?


『アガッ!?』


 白い霧の剣に玲子が刺されそうになった時、飛び込んできた黒い影によって玲子が大きく吹き飛んだ。

 無明さんが霧ごと玲子にドロップキックをしたのだ。

 彼に触れた白い男は霧散して、ハルの着物も元の色に戻っている。


「間一髪だったな。しかし十握剣を発現させたか……我ながら過保護なことよ」


 彼の額に浮かんだ汗は、冷や汗なんだろうか。

 安堵するように一息ついた無明さんは、倒れているハルを抱き起こす。

 惚けるようにぼうっと一連の風景を見ていた私も、急いで二人の元に駆け寄った。


「ハルちゃん、大丈夫!?」

「うー」

「ハル。すぐに治すからちょっとの間、我慢してくれるか」


 うなずくハルの頭を優しく撫でる無明さんだけど、その左手は枯れたままだった。


「む、無明さん……あの、手が」

「ん? ああ、そうだな」

「そうだなって……」


 怪我を気にする素振りはなくて、無明さんは自分の手ではなく玲子を見ていた。


「啜り女。元来は美しい女の容姿で男を誘惑し精気を吸い取る妖怪だが……何が起きた」


 蹴り飛ばされた田んぼの中で起きあがろうとしている玲子を、うっすらとした明かりが照らした。


「百式の撫子でも手に余るか」

「ちょっと、まだ本気は出してないわよ!? でも。あれほど強力な妖怪ともなると加減している余裕はないわね……祓うわよ?」


 顔に土埃をつけた撫子さんが、不服そうに合流した。

 ──聞き捨てならない、言葉と共に。


「ま、待ってください!!」


 撫子さんは玲子を殺すと言っている。 

 そんなのだめ。

 私が今ここにいるのは、全部玲子を助けるためなのに。


「二人とも、お願いします……彼女を助けてください、お願いします」


 私にはこうやって頭を下げることしかできない。

 でもそれで彼女が助かるなら、何百回だって下げていい。


「やれやれ仕方ない。見ておけ、これが手加減だ」

「え? あの……て、あっ!」


 無明さんが片手を空に挙げる。

 釣られて空を見た私の目に映ったのは、白夜のような明るい夜空だった。


「霊子解放。堕ちろ──天津火鎚あまつかづち


 ──その原因は、ボオオオと燃えたぎる音を立ててこちらに降ってくる白い炎の塊だ。

 どっぷりと、白炎が玲子の立つ地表に堕ちた。

 逆巻く炎の波が、閉じる蕾のように玲子を呑み込む。

 ──熱い。

 少し離れているのに、顔が一瞬で火照ってヒリヒリと痛み出した。


「むみょー、いたい。あつい」

「熱いのはオレのせいだ、すまん」


 無明さんがハルをあやした時、炎から逃れるように小さい影が飛び込んできた。


「おいこら無明! オイラまで巻き込むつもりか!?」

「おお、すね。忘れ……大事ないか?」

「忘れてんじゃねえよ!? くそ、あの女もこんな可愛らしい小動物を全力で蹴るなんて……どいつもこいつも信じらんねえ外道だぜ!」

「ま、無事そうだな。全く、神力が足りんくせに武甕槌の技など使うからだ」


 あんなに強い力で蹴飛ばされたのに、すねは見当違いな愚痴を溢していた。

 どうやら見かけよりよっぽど頑丈みたい。


「むみょー」

「ほら、動くな」


 ぐずるハルを地面に下ろすと、ハルの頬に無明さんが符を貼る。


「うん、これで良いな。治ったぞハル」


 うっすらと符が光った後に剥がすと、不思議なことにハルの頬から傷が無くなっていた。こんなので傷を治せるなんて、陰陽師ってまるで魔法使いみたいだ。


「おー、いたくない。でもあつい」

「ふむ、弱めに放ったが……まだ強かったか?」

「あ、あの……無明さん、玲子は……」


 無事なのだろうか。焼き尽くされてはいないだろうか。

 白い炎が鎮まる気配はなくて、その熱波は未だに届いている。

 こんな温度の炎に呑まれた彼女を想像するのが恐ろしい。


「安心せよ加減はした……滅んでいたらスマン」

「あ、良かっ……はあ!? スマンってなんですか!? 玲子を助けてって言いましたよね!?」


 最後に小声で聞き捨てならないことを呟いた無明さんの胸を叩いていると、玲子を指差した。さっき枯れていた右手は、いつの間にか元に戻っている。


「お、落ち着け。大丈夫だ、ほら見てみろ」


 釈然としないものを感じながら、燃える白炎の蕾を観察する。

 花が開くように消えていく炎の後には、両膝を地面についた玲子がいた。


「玲子、無事なの!?」

『アアアア……』


 弱弱しく声を上げるだけで、ぐったりしていて動かない。

 たまらず駆け寄って、様子を見る。


「玲子……」


 その時ふと、私を見上げる白濁した瞳に僅かに黒い瞳孔が戻った。


『ア、ア……、みあ………?』

「わ、私のことがわかるの玲子!?」


 ──期待に胸が弾んだ。

 玲子の顔の一部が、私のよく知る綺麗な顔に戻ったのだ。

 黒い瞳孔を取り戻した玲子の瞳に私が写っていた。声もシワがれたものではなく、聞き慣れたいつもの玲子の声だ。


「玲子、私だよ! ごめんね、遅くなって……」


 溢れ出る涙に視界が歪む。

 玲子が私の声に反応してくれた。私の名前を呼んで答えてくれた。

 このまま元に戻ってくれると、そう信じて必死で彼女に呼びかけ続ける。


「玲子、ごめんねえ……私が悪かったよぉ、だからお願い、元に戻って──」


 精一杯、玲子を強く抱きしめた──でも。


「美亜、離れろ!」

「え?」


 無明さんが私の体を抱えた瞬間、玲子の顔が歪んだ。

 腐敗が、顔全体に広がっていく。


『みあ、ああ、アアアア、アアアアア! ミイィァァアアアア!!』


 収まりかけた感情が一気に昂り暴露するように、玲子は頭を抑えて悲鳴をあげる。

 彼女から溢れ出た黒紫色の気体は、立っていられないほどに暴力的な突風を伴っていて、まるで彼女の憎しみを体現しているようだった。


「うわっ」

「おっと」


 吹き飛ばそうな突風の中、無明さんが私を庇ってくれる。

 彼に抱えられた私を、玲子は爛々とした赤い瞳で見つめていた。


『アァァ、ユル──サ、ナイ……ミィアアァァアッッ』


 彼女の感情に呼応するように、どんどん溢れ出る気体の勢いが増していく。

 

 ──私はここまで玲子に恨まれているのだろうか。

 

 あの時のことを許してはくれないのだろうか。


「凄まじい怨嗟だな……美亜、何がったのだ」

「あ、わ、私は……玲子が、助けてくれた、のに……うう……」


 訝しむ無明さんに、私は言葉に詰まってうまく答えられなかった。


『アア、ア、アァアア!?』


 大量に溢れ出たき黒紫色の気体が、玲子を攫うように覆い隠していく。


「ちょっと、流石に決断した方がいいんじゃない?」

「ああ。変化しようとしているな」

「美亜ちゃん、悪いけど………」


 無明さんが、刀を持つ手に力を込めた。

 ──キュっと、胸の奥……心の深い部分が締め付けられたような気がした。


「お、お願いです……助けてください! 玲子は……玲子は何も悪くないんです!」


 気付いたら、無明さんに縋り付いていた。

 こうでもしないと、玲子がこのままいなくなってしまうよう気がして。


「悪くない、か。だが美亜、既に聖騎士も含め四人犠牲になっている。凄まじいまでの怒りと憎しみの念……このままではより多くの被害を生むだろう。祓うとすれば、今しかない」


 私を見る無明さんの目は、何の感情も抱いていない無機質なものに見えた。

 普段のだらしなさも、ダメ人間のような彼も、全てまやかしと思えるほどに冷たい。


「でも、玲子は何も悪くないんです。悪いのは私だから……玲子を殺さないでくださいっ!」

「ふむ……」


 それでも玲子を諦めるなんて出来ない。

 祈るようにすがる私に、困ったような、感心したような、どちらとも取れない無明さんの呟きを確かめるように私が顔を上げた時だった。


「……まあ、試す価値はあるか」


 そう無明さんは億劫そうに言いつつ、屈んで私に視線を合わせる。


「美亜、うまくいくかは分からんが最善は尽くそう。一つだけ手段がある」

「え? じゃあ!」

「でもその前に。ハル、少し目を閉じていなさい」

「うん」


 素直にハルが無明さんの言うことを聞いた。

 何故ハルの目を閉じさせたのだろうと、そう考えた時──。


「ちょっと何するのよ──って!?」


 撫子さんの声に緊張感が走った瞬間、お腹に何かが突き刺さった。


「美亜、悪いな」

「え? あの……うっ!」


 違和感を感じて下を向くと、彼の刀が私のお腹に深く突き刺さっている。


「あ……な、なんで……」


 不思議と痛みはなかった。

 でも彼が刀を引き抜くと同時に、私はまるで力を奪われたようにそのまま地面に倒れてしまう。

 倒れた体はこのまま溶けてしまうと思えるほど、力が入らない。

 瞬きひとつ、まともにできない。


「あ、あ……」


 声を出そうにもうまく発音ができない。

 開いた口からは涎が垂れっぱなしだ。

 頭の中は冴えているのに自分の体がまるで別の入れ物のように感じる。


『アアアアア、アア、アア……ッ!』


 幸い、目だけは動かせていた。

 視界に写るのは、大量の気体を発生させながら私に手を伸ばす玲子の姿だ。

 耳にはその叫びがずっと響いている。


 ──ああ、玲子。


 取り止めもなく彼女の名を思った時、瞼がゆっくりと重くなっていった。

 私はこのまま、眠るように消えていくのだろうか。

 頭の中がごちゃごちゃしていて、思考がうまくまとまらない。

 ああ、でも玲子という言葉だけは頭の中にはっきりと浮かんだ。


「──ちょっとどういうつもり!?」


 慌てる撫子さんの声を最後に、私の意識は落ちるようにプッツリと途切れた。

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