第7話 いじめと心の拠り所

「美亜ちゃん!」

「え?」


 校舎の階段を降りる途中、声をかけられた私が足を止めた時だった。

 ──ドン! と。

 振り返る前に背中に衝撃を感じた瞬間、体が浮遊感に襲われた。


「あっ」


 吐息にも似た、間抜けな声が口から漏れる。

 誰かに背中を押されたと気づいた時、私の体はゴロゴロと階段を落ちていった。


「いっつううっ!!」


 腕が、膝が、背中が、ジンジンと熱を帯びた後に痛みに変わる。

 うずくまり、顔を顰めながら階段上の踊り場に視線を向けた。

 見慣れたセーラー服が、壁の向こうに消えていくのが見えた。


 ──あはははは!


 服しか見えなかったけど、その声で正体がわかった。

 私をいじめる北条美代と橋本愛の声だ。でも、わかったところで私にはどうしようもなく、ただただその場で動けるようになるまで辛抱するしかない。

 痛みが消えてなんとか立てるようになるまでの間、何人かの生徒とすれ違ったけど誰も私のことを助ける人はいない。

 大丈夫、いつも通りのことだから。

 そう自分に言い聞かせて、しばらくして下駄箱に向かう。


 ──先生、さようなら!

 ──おう、気をつけて帰れよ!


 途中、笑顔で生徒と挨拶する担任とすれ違った。


「あ、おい一条!」

「っ!」


 白いセーラー服を灰色に汚して、軽く出血している私を先生が呼び止めた。

 もしかして、いやそんな訳ないと思いつつ、一瞬、心が期待で弾み──。


「気をつけて帰れよ!」

「……はい」


 すぐに落胆に変わった。

 彼は流すように私を見ただけで、何事もなかったかのように職員室に入って行った。

 大丈夫、いつものことだ。今更なんとも思わない……思っちゃだめだ。

 一度、勇気を出してあの教師に相談してみたことがある。


“そうか、北条達が……わかった!”


 快活な人柄で人気の教師は明るい声で、嗚咽まじりで語った私のいじめ告白を了承した。


“先生も注意して見ておくからな。安心してくれ!”


 安心してくれという言葉に、本当に安心したのは私の不覚だった。

 ……あの教師に相談した次の日から、私のイジメは悪化した。

 先生に相談したことを北条美代は知っていて、「無駄なのに」と何度も私の頭を小突いて言った。

 橋本愛が笑いながらその姿をスマホで撮って、クラスのみんなに見せていた。

 そう、私に味方はいない。


 ──別のクラスの、たった一人を除いては。


「ぐすっ」


 ああ、急いで泣き止まないと。

 一緒に帰ろうと待ってくれている玲子に、また余計な心配をかけてしまうから。


「ううう、ぐすっ……」


 込み上げる涙としゃっくりをなんとか押し込んで、私は玲子の待つ校門へと向かった。

 帰り道、制服の汚れた私を見て幼馴染の赤塚玲子が切り出した。


「で、大丈夫なの?」


 玲子の長い黒髪がふわっと揺れると、甘い香りが漂った。


「うん、まあ……」


 ブレザーの白い襟に汚れがつき、膝に血がついている私を見て玲子は目を細めて笑う。


「ふふふ、またあいつら?」

「う、うん。まあ……」


 目を逸らした私に、怒るように玲子が言った。


「もうさあ、いい加減教えてよ。そいつらも最初は私に近づこうとしてたんでしょ?」

「あ、あんまり玲子も関わらない方がいいよ! あいつら、なんか良くない人たちと付き合ってるらしいし」


 私がいじめられても黙認されている理由は、みんな北条美代と橋本愛が怖いからだ。

 正確にはあの二人と一緒にいる怖い大人のことが。


「ふふふ、美亜? 私のパパは知ってるでしょ? パパに頼んで始末してもらおうかな」

「ちょ、お、大事にしないで!」


 玲子の家は古くから続く大きな家らしくて、しかも父親は元警察のお偉いさんで今は政治家だ。だからあいつらも玲子にだけは強く出れないみたい。


「だって、元はと言えば私が原因みたいなもんでしょ?」

「……多分」


 玲子は美人だ。学校一、いや多分この信濃の町で一番だと思う。

 黒い髪は信じられないくらい光沢を放っていて、同性の私でも見惚れるくらい綺麗だ。

 だからこの高校に入った当初は、私にたくさん彼女との橋渡しが舞い込んだ。

 もちろん玲子はそんなの嫌うから、なるべく角が立たないように、やんわり断り続けていたけど。

 でも、断っているうちに段々とクラスの輪に入れなくなっていて、常に誰かの悪口を囁き合う人達が私を標的にするのに時間は掛からなかった。


「今回はもう、いじめの範囲を超えてると思うけどなあ? 美亜、襟にも血がついてるよ。あと美亜のチャーミングな左右のおさげ、右のゴムがちぎれかけてる」

「あ、やば」


 残った左のゴムで髪を一房にまとめてから、玲子が教えてくれた場所を水筒のお茶で濡らしたハンカチを当てる。

 乾いた血はいくらハンカチを湿らせても、なかなか取れない。

 ああ、お父さんに見つかると面倒だ。またしつこく話しかけられてしまう。


「ねえ美亜、復讐しようよ? 私が根本から絶ってあげる。いい加減、美亜をいじめる奴らの名前を教えてよ? あいつらちっとも尻尾を掴ませないんだ。同じクラスだったらよかったのに」


 玲子は見た目通りの深窓の令嬢じゃない。

 やられたらきっちりやり返すし、めちゃくちゃ執念深いことを私は知っている。


「……ふふふ、学校退学だけじゃすまさないわ。警察も巻き込んでこの街に居られなくしてや──」

「す、ストップ! 別にいいよ復讐なんて。私は玲子と一緒にこうしていれたら、十分だから」

「もう、美亜ったら! そんなこと言って私が騙されると思う?」


 誤魔化すように返した私にブスっと不貞腐れる玲子。

 正直言うと、誤魔化しでもなんでもなくて本心だ。

 玲子に助けてもらったって、いつも一緒にいれる訳じゃない。

 

 彼女に話して、もっと陰湿になることが怖かった……あの教師の時みたいに。

 

 それに、玲子さえいれば私はまだまだ大丈夫だ。

 だって玲子が、どんなに忙しくても毎日私と一緒にいる時間を作ってくれるから。

 

 玲子がいつも私の居場所になってくれるから。

 

 学校にも家にも居場所のない私が、どれだけ玲子に救われているか。

 まあ、言葉にすると恥ずかしいから絶対言わないけど。

 少し気恥ずかしくなって目を逸らした私に「でもね」と、玲子は優しく微笑んだ。


「耐えられなくなったら、すぐに私に言うのよ?」

「うん……」


 今でも、こんな状態でも、実は玲子がずっと守ってくれていることを私は知っている。

 生徒会に所属する彼女が、見回りと称してちょくちょく私のクラスに顔を出しては私と話し、クラスの女子たちを牽制していること。

 おかげで玲子にバレたくない北条美代たちが、以前より何かをしてくることが少なくなった。


「私、すぐに美亜のところに駆けつけるからね? 抱え込んじゃダメだからね?」

「うん──ありがとう」


 心配して綺麗な顔を近づける玲子に、私の頬が熱を帯びてしまう。

 これだから美女ってやつはずるいのだ。

 イチョウの葉が舞う並木道を彼女と共に歩く、いつもの学校帰り。

 理不尽に向けられる悪意に耐えるばっかりな、灰色の高校生活を送っている私にも存在する、色鮮やかなでほんのちょっぴり心が温かくなるような、そんな幸せ。


「ま、私にも考えがあるから。もうちょっとだけ我慢してね、美亜」

「え? それってどういう……」

「ふふ、なんでもない! あ、そんなことより……ねえねえ、美亜。実はね、パパからすごい情報を教えてもらったの! なんとあの伝説の『猫又』が夜市に出店する日を教えてもらったのよ!」

「え、あの幻のリンゴ飴の店!? うわあ、すごい!」

「へへへー、すごいでしょ! だから美亜、来週の日曜日の夜は空けといてね? 誰よりも早く二人で並ぼ! ふふ、ずっと食べてみたいって言ってたよね?」


 玲子といると、灰色の私の世界は鮮やかに彩られる。

 彩られた世界はとても温かくて、心を包んで守ってくれる。


「うん! いつも見つけた時は売り切れで食べたことないんだ!」

「私も食べたことないの! なんかパパの権力が及ばないらしくて、本当に運がないと買えないのよね。だから、二人でリンゴ飴を食べに行こう!」


 玲子がいれば、どんなことがあっても耐えられる。

 それにいずれはこんな毎日も終わる。

 進級してクラスが変われば、大学に進学すれば、あいつらはもう関係ない。


「いい、みんなには内緒だからね! ひっそりと、誰にも知られてない出店直後を狙うわよ!」

「ふふ、玲子ったら──ありがとう」

「……っ! もう、何よ改まって……当たり前じゃない! 美亜は私にとってたった一人の親友なんだから」


 玲子とはこの先も、それこそ大人になってもずっと一緒だから。

 今が辛くても、きっと大丈夫だと。


 彼女と離れることなんてないんだから──と。そう、思っていた。

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