執筆する
黒詩ろくろ
執筆するということ
――私は今日も、執筆する。
握っていた万年筆が震え、原稿用紙を滲ませる。私は無意味に息を吸い、深く吐き出した。
深呼吸と呼ばれる、はるか昔の人類が行っていた文化だ。心を落ち着かせたり、体の力を抜いたりする作用があるという。
今の私たち人類には
――人類が肺での呼吸を停止させてから、早数十年。
幼い頃は共通して、泣くことが呼吸法となる。しかし物心が着くにつれその選択肢は広がっていき、人々は自由に呼吸法を選び、生活することができるようになっていく。
当然、楽な呼吸法はそう存在しない。何を選ぼうとそれをし続ける必要があるというのは、人によっては苦行となり得る。実際、無意識下で呼吸していた肺呼吸の時代と比較し、人類は退化したのではないかと告げる人類学者も少なくはない。
だが――私はそうは思わない。
肺呼吸などという煩わしいものの妨害を受けず、執筆をし続けられる人生。これほどに素晴らしいことが、果たして他にあるだろうか。
「……さて、今日も書き始めよう」
眠っている間は必要な呼吸数は少なくなるため、私のような意識が必要な呼吸を選んでいる人間であっても、死ぬことは無い。しかし目が覚めればそれは一変する。ベッド上での微睡みもそこそこにむくりと起き上がった私は、すぐさま机へ向かった。
――呼吸法を変える前から、執筆は私の全てだった。
幼い頃のそれは、厳密に執筆とは呼べないのかもしれない。しかし平仮名を書けるようになった頃には既に、私は折り紙の裏に物語を書いていた。
頭の中に広がる空想の世界は、私の居場所だった。
『あら、文字がいっぱい! 何を書いているの?』
『おはなしだよ。せんせいもでてくるの。みんなで行ったえんそくで、こどもおばけがでてきて、いっしょにおやつをたべるんだ』
『とってもかわいらしいお話ね。完成したら、読ませてね?』
『うん』
子どもの頃は、保育者も素直に褒めてくれた。私はそれが嬉しくて、たくさんのお話を書いた。しかし成長していくにつれ、常日頃物語を書き続けているわたしは、世間から敬遠されるようになっていった。
そのうち、呼吸法のことをしかと理解できる年齢になった私は、一瞬の迷いもなく呼吸法をこれに決めた。
日常生活で辛いことがあった時も、逆に楽しかった日も、執筆は私の心を安らがせ、人生に彩りを与える。私の執筆が正真正銘
そうなれば――私は、自由だ。
私はどんな小説でも書く。短編も長編も、ミステリーも官能小説も。その時に書きたいものを、書きたいように書いて生きていく。それが近年評価されるようになり、私は職業小説家を名乗れるようになった。
生きるための執筆で報酬を得て、生きていくことができる。それはどれほどに幸福なことだろうか。
私は今日もその幸せを噛み締めながら、改めて原稿用紙を見つめた。
職業小説家としての原稿の締め切りが、刻一刻と迫ってきていた。子ども向け雑誌に掲載されている連載小説の続きだ。しかし私は、その内容に行き詰まっていた。
空想の世界が大好きな少年が、自分の描き出した世界で旅をする物語。幼い頃の己の空想を具現化するような内容に当初は歓喜した。しかし――
『空想が明るすぎるね。最近の子どもは
編集者のそのような言葉に従い、私は文章を軌道修正せざるを得なくなった。最新刊で公開されている物語は、少年が描き出したペガサスゾンビの蔓延る世界に飛び込んだところで終わっている。その続きが――どうしても、思い浮かばない。
ペガサスゾンビはどれほどに残虐なのか。少年のことを襲うのか。そうなれば少年はどうなるのか。
死んでしまうのか。それとも、自らもゾンビになってしまうのか。少年はこれまで、旅を終えれば子ども部屋のベッドに戻ってきていたが――ゾンビになってしまっても、戻ることができるのか。
万年筆を取り落とし、私は頭を悩ませ続けた。
そうしていること、およそ五分――私の体に、ある異変が起き始めた。
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