地球最後の僕と、化け猫

速水静香

地球最後の僕と、化け猫

 あの日、目が覚めたとき、世界は一変していた。


 多摩地方の住宅街。


 いつもの朝は、何の変哲もないスマホのアラームで始まった。

 俺は狭い学生用アパートの部屋で目を覚ました。冷たいフローリングに敷いた万年布団の上で、いつものようにスマホをいじるつもりだった。

 だけれど、その『いつも』がもう戻らないことに気づくまで、さほど時間はかからなかった。


 スマホの画面には、無慈悲な『接続エラー』の表示。


 通信障害か?

 めんどくさい。

 そう独りごちた俺は、リモコンを手にテレビをつけた。


 けれど、そこに映し出されたのは砂嵐だけだった。

 どのチャンネルに切り替えても変わらなかった。画面が砂嵐を繰り返す音だけが耳に響く。


 その瞬間、違和感を感じた。

 何かがおかしい。いや、何もかもがおかしい。


 ふと耳を澄ました。


 外からは車の音も、家々から聞こえる日常の気配が一切しなかった。

 まるで世界から人工の音が消えてしまったかのようだ。


 チュンチュンという雀の音。カーテン越しに差し込む朝の光だけは変わらず優しい。その優しさが、逆に不気味に思えた。


 俺は、カーテンを開けるよりも先に、何かに突き動かされるようにアパートのドアを開けていた。


 しかし、そこに広がっていたのは、悪い冗談としか思えない光景だった。


 自動車が信号の前で止まったまま、列を成している。車両のエンジンはかかったままだ。

 道路脇には倒れた自転車。そして、歩道には通勤、通学の鞄なんかが散乱していた。

 けれど、そのすべてに人間の姿はない。


 どこにも、誰一人として──。


 俺は、これまでにない恐怖を覚えながらも、辺りを歩き出した。


 考えを巡らせる。これが何なのか。俺が夢を見ているのか、それとも世界が狂ってしまったのか。よく分からない。理解が追いつかない。


「何が……起きたんだ?」


 自分の声が、ただ空虚に広がっていくだけだった。


 近所の住宅のドアを叩いてみた。返事はない。

 玄関のドアを思い切って押すと、中には朝食がそのまま放置されていた。トーストに塗られたジャムが乾き始めている。淹れかけのコーヒーの湯気は、もうすっかり冷め切っていた。


 何が起きた?どうして俺だけがここにいる?


 推理する。

 おそらく……すべての人間が、一瞬で消えたのだろう。


 証拠は街の至るところに転がっている。事故を起こしている自動車が電柱に衝突して、そのままになっている。それは突然、運転手がいなくなったからだ。

 その消失の瞬間を俺は見ていない。

 それでも、すべてが後からの証拠を基にした推測に過ぎないとしても、この異常な静けさと空白が現実であることに、疑いの余地はなかった。


 その夜、俺は初めて、部屋の中で灯りもなく一人で過ごしていた。

 なぜなら突然、電気が止まり、水道も使えなくなったのだった。


 その後も俺は、幾度となく暗い夜と寂しい昼を繰り返していった。

 ペットボトルと缶詰によって、かろうじて俺は生き延びていたが。

 いつまでも、この強い孤独感だけは消えることはなかった。



 無人の住宅街を歩く日々が、どれだけ続いたのか、もうよく覚えていない。


 街は静かに崩れていった。道路の隙間からは雑草が顔を出し、野生動物が姿を現すようになった。最初は珍しさに目を奪われたが、今では彼らが街を支配する様子が日常の光景となった。

 シカの群れが線路を横切り、タヌキが商店街を我が物顔で歩く。人間が消えた場所を、自然が着実に埋めていった。

 西日に染まる空をぼんやりと見上げる。かつてこの高架下には、人々のざわめきと車のクラクションが溢れていた。それが今では、空虚と茜色の光が残るだけだ。


『俺も、消えた方が良かったのかもな。』そんな考えが頭をよぎった時、視界の端に何かが動くのを捉えた。


「タヌキか?」


 最近ではよくあることだ。だが、今回は違った。雑木林の中から現れたのは、一匹の白い猫だった。


「おいで。」


 声をかけると、猫は首を傾げながらこちらをじっと見つめていた。琥珀色の瞳が夕陽を反射して、まるで宝石のように輝いていた。

 飼い猫だったのだろうか?その白い猫は意外にも警戒心を見せず、一歩、また一歩と近づいてきた。


 しかし、俺が手を差し出すと、ふっと体をかわして建物の陰へと消えていった。


 ただの白猫。


 それなのに、何か特別なものを見たような気がしてならなかった。


 気がつけば、俺は琥珀色の瞳を持った白猫を追いかけていた。

 茂みの陰を抜け、住宅街の裏通りへと進む。白猫が時折こちらを振り返りながら進む。

 どうやら、俺を先導するかのような、仕草。


 そして辿り着いた先には、手入れの行き届いた庭を持つ一軒家。

 その光景は、この人がいない街ではあり得ないものだった。庭には古びた井戸と整然と並んだ畑の野菜が、奇妙な生活感を醸し出していた。


「誰かが……ここに?」


 そんなはずはない。この街には俺以外いないはずだ。それなのに、この家だけが、まるで人の手で守られているかのようだった。


 白い猫は井戸の縁にちょこんと座り、琥珀色の瞳でじっと俺を見ている。


「ここに住んでるのか?」


 独り言のように呟いた瞬間だった。

 猫が、ふっと光に包まれた。

 白い輝きが視界を埋め尽くす。その眩しさに思わず目を閉じた。そして、次の瞬間、信じられないものが目の前に現れていた。


「あ、やっぱり優しそうな人だと思った!」


 そこに立っていたのは、銀髪の少女だった。

 いや、正確には猫耳と尻尾を持つ少女だ。その姿は、先ほどまでの猫と同じ白さと琥珀色の輝きを持っている。


「な、何だこれ……?」


 思わず後ずさる俺を見て、少女は耳をぺたんと倒しながら申し訳なさそうに頭を下げた。


「びっくりさせちゃった?ごめんね。」


 いや、びっくりどころの話じゃない。目の前で猫が少女に変わるなんて……。


「えっと、私、ミズナって言うの。ここで暮らしてるんだ。」


 無邪気に名乗るその声は、どこか暖かみを感じさせるものだった。しかし、俺の頭は混乱の渦中にあり、言葉を返すのがやっとだった。


「俺は……リョウ。相模リョウだ。」

「リョウ君か!かわいい名前だね!」

「いや、かわいいって……なんだよ……。」


 困惑を隠せない俺をよそに、ミズナは嬉しそうにくすくす笑った。その笑顔があまりにも人間らしすぎて、幻覚か夢かを疑わざるを得なかった。


「で、その……お前は何なんだ?」


 ミズナと名乗る猫耳少女を前にして、何とか口を開いた。混乱した頭を整理しようと必死だったが、現実感がどんどん遠のいていく。


「何って……私は化け猫だよ!リョウ君、知らないの?」


 屈託のない笑顔でミズナが答える。


「化け猫……?」

「そう!昔はただの猫だったんだけど、ここで暮らしてるうちに、こんな姿になれるようになったの。」


 自分の耳をぴょこんと動かし、尻尾をゆらゆら揺らしながら得意げに語るミズナ。俺は呆然と彼女の話を聞くしかなかった。


「おいおい……そんなことってあるのかよ。じゃあ、お前があの白い猫だったのか?」

「うん、そうだよ!リョウ君、ちゃんと気づいてくれて嬉しかった!」


 ミズナは無邪気に笑いながら、俺の周りをくるくると歩き回る。その仕草がまるで猫そのもので、現実感が薄れるどころか、逆に妙に納得してしまいそうになる自分がいた。


「でもさ……なんで俺以外の人間は消えて、お前だけ残ってるんだ?」


 素朴な疑問を口にした。もしかしたら、知っているかもしない。

 しかし、ミズナは少し表情を曇らせ、静かに言った。


「あのね、それは私もよくわからないの。ある日突然、街が静かになっちゃって。そのあと、誰もいなくなっちゃった。」


 彼女の琥珀色の瞳を俯かせる。

 それが何を意味するのかはわからない。けれど、俺と同じように、彼女もまた孤独を抱えているのだ。


「俺も同じだよ。気がついたら誰もいなくなってて、理由もわからないまま、こうして生き延びてる。」

「寂しかったでしょ?」


 ミズナがそっと問いかける。


「ああ、誰もいない世界で、一人で生きるのは想像以上に辛いもんだな。」


 そう呟くと、ミズナは悲しそうな表情を浮かべた。


「ねぇ、リョウ君……もし良かったら、ここで一緒に暮らさない?」

「えっ……?」


 突然の提案に、それしか言葉を返せなかった。


「この家には私一人しかいないし、リョウ君も一人でしょ?一緒にいた方が楽しいし、お互い助け合えると思うんだ。」


 ミズナは真剣な目で俺を見つめていた。その琥珀色の瞳が俺を捉えていた。


「分かった。一緒に暮らそう。こちらこそ、よろしく頼む。」


 俺がそう言うと、ミズナは飛び上がるように喜び、尻尾を大きく揺らした。

 正直、俺はこの猫と一緒に過ごす以外に、孤独を癒す方法はないと思っていた。


「やったー!これから楽しくなるね、リョウ君!」


 その無邪気な笑顔を見ていると、俺も自然と嬉しくなった。


 俺はミズナの家のリビングで、ぼんやりと座っていた。


 窓の外には、沈んでいく夕陽と、それに飲み込まれるように暗闇が広がっている。街灯も消えたままの町並みは、まるで深海のようだ。俺たちがいるこのリビングも、次第に闇に包まれ始めている。

 電気がない生活の不便さを、身をもって感じる瞬間だった。


「じゃー、リョウ君!いくよー!」


 ミズナが急に声を上げたかと思うと、指を軽く振った。

 その瞬間、小さな青白い火の玉がふわりと空中に現れた。生き物のようにゆっくりと宙を漂いながら、部屋全体を優しい光で照らし始める。


「……おい、何だそりゃ?」


 思わず目を見開く俺に、ミズナは自慢げな笑みを浮かべた。


「えへへ、これね、私の妖術!火の玉だよ!すごいでしょ?」

「いや、すごいってレベルじゃないだろ……。普通の火と違うのか?」


 俺が半信半疑で火の玉を眺めていると、ミズナが一歩近づいてきた。


「うん、大丈夫だよ。触ってみて?」

「いやいや、触れって……火だぞ?」


 俺が引き気味に言うと、ミズナはくすくす笑いながら、尻尾を揺らした。


「平気だってば。普通の火じゃないから熱くないの。ほら、試してみて?」


 彼女の押しに負けて、恐る恐る手を伸ばす。火の玉の近くに手をかざすと、確かに温かさはあるが、全く熱くない。むしろ、体の芯からじんわりと温まるような心地よさを感じた。


「……確かに熱くないな。でも、これが火っていうのも不思議な感じだ。」

「でしょ?これね、私の思い通りに動くんだよ。」


 ミズナは再び指を振り、火の玉を部屋の中でふわふわと飛ばしてみせる。青白い光がリビング全体を照らし、闇が一瞬にして消え去った。


「いや、便利すぎるだろ。これがあれば電気なんていらないな。」

「ふふん、そうなの!リョウ君のためにもっといっぱい作ってあげようか?」

「いや、それはいいから、とりあえず明るいだけで十分だ。」


 俺が苦笑いすると、ミズナは尻尾を揺らしながら満足げに頷いた。その無邪気な様子を見ていると、思わず俺も肩の力が抜けてくる。


「さて、リョウ君!そろそろお腹空いてない?」

「……そうだな、夕飯にしようか。」

「うん!今日は私が何か作るよ!」

「いや、俺も手伝うって。さすがにお前一人に任せるのも悪いしな。」

「え~、リョウ君、料理できるの?」

「おい、バカにすんなよ。缶詰ばっか食ってたけど、これでも一応、自炊くらいはしてたんだ。」


 俺がそう言うと、ミズナは少し驚いたように目を丸くした。


「ふーん、意外だね。でも、じゃあ一緒に作ろうよ!野菜なら庭から取ってくるね!」

「おう、頼む。俺は台所を片付けておく。」


 ミズナは嬉しそうに庭へ駆け出していった。その姿を見送りながら、俺は静かに息を吐いた。


 しばらくして、ミズナが庭から戻ってきた。手には葉っぱが青々と茂ったカブ、鮮やかなオレンジ色の小さな人参、そして立派な大根が握られている。


「リョウ君、見て!どう?いい野菜でしょ?」


 満面の笑みで、ミズナが収穫物を掲げてみせる。その無邪気さに、俺は思わず笑みがこぼれた。


「お前、これ一人で手入れしてたのか?すげえな。」

「えへへ、まぁね!土をふかふかにするのとか、妖術もちょっと使ってるけどね。」

「なるほどな。妖術ってのも便利なんだな。」


 感心しながら台所へ戻り、古びたまな板と包丁を用意する。ミズナは野菜を流しで丁寧に洗い始めた。


「リョウ君、料理するときって、どんな感じにするの?」

「んー、簡単なもんだな。今日はスープにしよう。お前の野菜を切って、煮込めば十分旨くなる。」

「じゃあ、焼きおにぎりも作ろうよ!スープだけじゃ物足りないもん。」

「おにぎりか。いいな。米はどこにあるんだ?」

「米びつにあるよ!けっこう残ってるから大丈夫!」


 ミズナが自慢げに指さした先には、木でできた重厚そうな米びつが置かれていた。俺はその中を覗き込み、軽く笑った。


「へえ、結構あるな。これだけあればしばらく持つな。」

「そうでしょ?ここに来たばっかりのときに、いっぱい集めておいたんだよ。」

「さすがだな……。」


 俺は彼女に感謝を伝えつつ、野菜を切り始めた。大根は薄切り、人参は輪切り、カブは小さな角切りに。手際よく進めていると、隣でミズナが興味津々に覗き込んでくる。


「リョウ君、包丁さばき上手だね!意外と器用じゃん!」

「いや、普通だろ。これくらいは誰でもできるって。」

「そうかな~。でも、なんかプロっぽいよ!」


 俺を褒めるつもりらしいが、その無邪気な口調にどこかからかわれているような気もする。


「まあ、いいや。それより、お前、鍋の火を頼む。普通のコンロが使えないから、妖術の火でいけるか?」

「任せて!いっちょやっちゃうよ!」


 ミズナは自信満々に指を鳴らし、青白い炎を指先に灯した。その火がふわりと鍋の下へ移動し、静かに燃え始める。


「おお……やっぱ便利だな、その火。」

「でしょ?これ、すごく安定してるから料理にもぴったりなんだよ!」


 嬉しそうに自慢するミズナを横目に、俺は鍋に井戸水を注いだ。水がグツグツと煮立ち始めるのを確認してから、切った野菜を次々と入れていく。


「これで少し煮込めば完成だな。お前は米を炊く準備を頼む。」

「うん!おにぎり作るの楽しみだな~!」


 ミズナが尻尾を揺らしながら米を研ぐ姿を見ていると、不思議と心が落ち着いた。この妙に温かい雰囲気は、いつ以来だろうか。


 少しして、鍋の中からは野菜の香りが立ち込めてきた。お腹の虫が思わず鳴りそうになるのを抑えながら、俺はスープを味見するためにスプーンを手に取る。


「リョウ君、どう?味見してみた?」

「いや、まだだ。お前も見てくれよ。」


 スプーンを差し出すと、ミズナが少し嬉しそうに受け取り、そっとスープをすする。


「ん~……ちょうどいい!野菜の甘さがちゃんと出てておいしいよ!」

「そっか、じゃあこれで完成だな。」


 俺たちはスープをテーブルに並べ、炊き上がった米で作ったおにぎりを焼き網に載せた。ミズナの妖術の火でじんわりと焼き上げていくと、香ばしい匂いが部屋中に広がっていく。


「わぁ、めっちゃいい匂い!早く食べたいな~!」

「焦るなよ、もう少しで焼き目がつくから。」


 しばらくして、おにぎりに醤油を塗り、さらに焼き上げる。焦げた醤油の香りがたまらなく食欲をそそる。


「よし、できたぞ。いただきます、だな。」

「いただきまーす!」


 ミズナが嬉しそうにスープを口に運び、焼きおにぎりにかぶりつく。その満足げな表情を見ていると、俺も自然と笑みがこぼれた。


「やっぱ手作りっていいな。缶詰ばっかり食ってたから、こんな贅沢、久しぶりだ。」

「ふふ、リョウ君、これからも一緒に作ろうね!」

「ああ、そうだな。お前の野菜があれば、何でも作れそうだ。」


 スープとおにぎりの湯気に包まれた食卓。外の世界がどれだけ荒廃していても、この家の中だけは不思議と温かかった。


 夕食を終えて一息ついた頃には、外はすっかり暗闇に包まれていた。


 リビングから外を見ると、月明かりすら頼りない漆黒の空が広がっている。街灯がない町並みは、どこか異様で、不安さえ感じるほど静かだ。しかし、リビングに残っているスープの匂いや、焼きおにぎりの香ばしい匂いが、そんな暗闇の冷たさを和らげてくれていた。


「ねぇ、リョウ君。」


 突然、ミズナが声を上げた。テーブルに頬杖をつきながら、琥珀色の瞳でこちらをじっと見つめてくる。


「なんだ?」


「一緒にご飯を作ると、もっとおいしくなるね。」


 にこりと笑うその顔に、俺は少し気恥ずかしさを感じながらも、軽く肩をすくめた。


「まあな。一人で黙々と食べるよりは、だいぶマシだ。」


「でしょ?これからもずっと一緒にご飯作ろうね!」


 無邪気に言うミズナに、俺は答えを返さず、ただ軽く笑ってみせた。その笑顔があまりに自然で、俺はほんの少しだけ心が軽くなるのを感じた。

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